コンラッドは電話を切った。
「グウェンダル、何だって?」
ユーリがそう尋ねながら、髪を少し手で直す。あまり髪型には気を遣っていないが、全く直さないのも少々まずい状態だった。
「これから迎えに来る、って」
「20分くらいかかるかな」
「多分」
ユーリは窓へと歩いて行った。
「なあ、開けていい?」
コンラッドが頷いたので、窓を開ける。
「それにしても広いよなあ、この家。外からじゃ分からなかったんだけど、この屋敷の裏にも土地があんの?」
「あるらしいよ。屋敷の裏にはあまり行った事がないから、何があるのかは良く解らないんだけれど」
コンラッドがユーリの隣に立って、外を眺めた。
「ふうん…」
きっちり手入れされた芝生を眺めていたユーリだったが、その視線をふっとコンラッドに向ける。
「…」
手を伸ばし、コンラッドの眉の端に残る傷跡に触れた。
コンラッドはユーリのなすがままに任せた。まだ消えていないこの傷跡は、人の目を惹く。だが、ユーリの視線は単なる好奇心だけを孕んでいるのではない。
直感した。知ったな、と。
今なら別に、ユーリに知られても構わなかった。
だが…ひょっとして、のらりくらりと話さないままにしていた事を、ユーリは怒っているのだろうか?
「ここの傷、さ…」
「…」
「…あってもカッコイイよな、あんたってさ」
どうしても尋ねづらくてユーリが話題を変えようとした事は、コンラッドの目にも明らかだった。
「いいよ、ユーリ。聞いたんでしょ? どうしてここに怪我したのか」
コンラッドは微笑みながら、眉の傷を指さした。
「…」
ユーリは頷いた。
「ヴォルフラムから?」
「うん…あまり詳しくは聞いてないんだけどさ」
「ジュリアの事は聞いた?」
「少しだけな…アーダルベルトの婚約者で、亡くなったって聞いただけ。おれがヴォルフに訊いたのは、ゲーゲンヒューバーって人の事だから。でも、ジュリアさんが去年のレース中の事故で死んだって事は、聞いたよ」
ユーリは学ランのポケットに手を突っ込んだ。
「これさあ…」
と言って取り出したのは、例のペンダント。
「…何で俺にくれたの? 大事な…ジュリアさんから貰った大事なものだったんじゃないの?」
「…それは、しょっちゅう切り傷とか骨折とかやってる俺に、彼女がお守りとしてくれたんだ。効果はあったよ…2週間近く生死の境を彷徨った結果、俺は助かった。でも、その時には、彼女は墓の下だった」
懐かしさを感じるにはまだ早い。つらい感情が思い出されすぎて、表情にそれが出そうになる。
「腹に穴まで空いた俺が助かって、そして、ただ打ち所が悪かっただけの彼女が死んだ」
その理由は今でも解らない。少なくとも解る事と言えば、神の手による所業より残酷なものなど、この地上のどこにもないという事だけだ。
「あの頃は死んだ方がましだとさえ思ったけれど…今は、生きていて良かったと思ってるよ」
コンラッドの指がユーリの黒い髪を撫でた。
「貴方に会えたから」
だから、もう失う事のないように…要は、そういうつもりでコンラッドはペンダントを渡したらしい。
「…一度これを貰ったんならさ」
ユーリがペンダントを摘んで、頭の高さにまで掲げて見せる。
「貰った側の気持ちも、分かるよな?」
コンラッドは無意識に怪我をしたばかりの左手を押さえ、苦笑しながら答えた。
「今後はもっと、怪我に気をつける事にします」
「そうして」
ユーリが笑う。その額にコンラッドが口づけを落とした。
どんなに時間が経とうとも、ジュリアを失ったあの痛みを忘れる事は出来ないだろう。その痛みは、これから先、思いがけない時を狙って蘇ってくるに違いない。
だが、その痛みに耐えて生きていける自信が、今のコンラッドにはある。
「ねえユーリ。さっきの言葉、もう一度聞きたいな。いい?」
「何の事だよ?」
「さっき、何度も言ってくれたでしょ?」
何の事か気づいて、ユーリが顔を赤らめる。
「もう一度言って」
「………あ…」
瞼を閉じながらユーリが言った。
「…愛してる…よ…」
…何と言えばいいのか。
ヴォルフラムが仕事で不在だから良かったものの、もしこんな状態のコンラートとユーリが、彼の目に触れていたら。
グウェンダルは外に停めたバイクに手を置いたまま、ため息をついた。明後日の方向を向いているのは、すぐ下の弟とその恋人のいちゃついている様を、とても直視出来ないからである。
「じゃ、ユーリ、気をつけて」
「うん、じゃあな。帰ったら電話していい?」
「すぐ電話して」
そのやり取りは、グウェンダルの記憶が確かなら、先程から5回も繰り返している。
いつになったら自分はユーリを送らせて貰えるのだろうか…グウェンダルは嘆息を漏らした。こんな聞いている方が恥ずかしくなるような、栗ようかんよりも糖度の高い会話を、そのすぐ側で聞かされているこちらの身にもなってほしい。
2人の会話が少し途切れたので、頃合いかと思ったグウェンダルは2人の方を向いたが、一瞬で顔の向きを元に戻した。見てはいけないものを見てしまった。殆ど見なかったに等しいが、何も目撃しなかった訳でもない。
妙な沈黙がいやに長く続き、グウェンダルを苛立たせる。彼の背後で展開されている光景を、不運にも通りがかりのダカスコスが目撃してしまい、驚きのあまり、
「ぶひゃっ」
と声を上げて仰け反って倒れそうになった。
ユーリはそれに気づき、人に見られた事に羞恥心を感じて狼狽しているらしかった。
「あ、み、見られた? てか、あの人大丈夫なのか? 何か煩悶してるみたいだけど、何やってるんだろ」
それは衝撃的な光景を偶然目にしてしまったショックのあまり、動揺しているのに間違いないだろう。
ユーリとは対照的に、コンラッドは恬然として恥じる気配もない。社会的地位を考慮すれば、普通は彼の方がより狼狽えても良い筈なのだが。
「んー…運転手なだけに、ドライバーを探してるとか」
コンラートがさらりと口にしたその台詞で、その場の季節が一気に2ヶ月程進み、気温が真冬並みに突入した。
「コンラッド…さ……サムい…」
「え? ああ、そろそろ秋だから夜が冷えてきたのかな」
「いや、違う、そうじゃなくてさ…」
…グウェンダルは今更ながら思った。
このバカップルは自分が関係修復のきっかけを与えなくても、放っておいても、いずれ仲直りしたのではないだろうか…と。
「コンラート、そろそろ帰るぞ」
「ああ、そんな時間か…」
コンラッドは腕時計に目を向けた。それからユーリに笑いかけて、そして頬を撫でた。
「それじゃあ、また。電話するから」
最初に戻って繰り返し。それが2回ほど続いて、ようやく、ユーリはグウェンダルの後ろに乗って送られていったのだった。
同時刻。
国道を悠然と走る一台のロールスロイスがあった。
その広く上流な作りの車内には、運転席でステアリングを握っている運転手を除けば、2人しか乗っていない。その2人は向かい合わせに腰を下ろしている。
1人が車内のライトの光の下で、手にした書類をじっと眺め回す。
「…これだけなの? 報告は」
そう訊かれて、向かいに座っていた男は息を詰まらせたような呻き声を上げた。
「わたしの予想より、少しだけ少ないね。いや、かなり、かな。もう少し実入りを期待したのに…」
溜息。
「これじゃ、今季のレースには間に合わないね。予定を変えなくちゃ…と…」
細めの眼鏡の奥の瞳が笑みで眇められた。書類から、それに添付されていた写真数十枚へと視線を移したのだ。
「…ねえ…マキシーン。この子は誰なの?」
その写真の中の一枚を取り、それを向かいに座った男に見せて、こう尋ねた。
「この子。彼ととても仲が良さそうだけれど…こっちの貴方の報告書に、この子については何も書かれていなかったよね」
「は…そ、それは…」
男はこめかみに汗を浮かべた。だが彼の前に腰を下ろしている方は、それとは対照的な笑みを浮かべる。柔らかい微笑は夜の青いネオンの光を受けて冷酷な色を帯びた。
「どういう子なのか調べておいて。それと、こういう事はこれきりにして欲しいな。わたしもそれ程暇ではないのだから、手間をかけさせないでほしいんだ。ね?」
「は…」
男は返された写真を改めてじっと見つめた。
それは夏、コンラッドがユーリを伴って自宅のマンションに入っていく光景を撮影した物だった。
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ディモルフォセカをくれた君(36)