ディモルフォセカをくれた君(37)
「コンラートさんですよね?」
「はい?」
コンラッドが立ち止まって後ろを振り向いた時、肩にかけていたバッグの角が、廊下の壁に当たった。
すれ違い様に声をかけてきたのは20代半ばくらいの青年で、ジムの職員用のジャージを着ていた。
「この間のレース、観てました。すごかったです」
「ああ…ありがとうございます」
コンラッドが営業用の笑顔を浮かべて、その青年と握手した。青年はコンラッドの手を握り返すと、笑って立ち去っていった。
「これで何人目? 優勝の事、誉めてくれたの」
傍らのユーリが尋ねた。
「今ので7人目。みんな、案外観ているものなのかな」
「まあ、マスコミでも大分騒がれてたからな。『完全復帰』って」
そうして2人は喋りながら、更衣室のドアをくぐった。鍵が刺さったままの空きロッカーを2つ見つけて、そこに荷物を入れ、着替えを始める。
「なあ、優勝した後って何か特別な事やったの?」
「特別な事というと、誰かに知らせるとか?」
それなら知らせた。父親、ヨザック、そして、ユーリに。
「いや、それもあるけど、そうじゃなくて…野球でさ、祝勝の時にビールかけとか、やるだろ? ああいうの」
「ああ、それならやったよ」
その晩はレース主催者側によるパーティーまで開かれた。
「へえ、パーティーなんかやるんだ? やっぱりそれって、誰か、女の人をパートナーに連れて行くもんなの?」
コンラッドは頷いた。頷きながらユーリの表情を見たが、嫉妬している様子はこれっぽっちもなかった。おそらく信用されているからなのだろうが、嫉妬してくれなければ、それはそれで面白くない。少しだけ。
「誰を連れて行ったんだ?」
「母上だよ。毎年そう」
「ああツェリ様ね、喜んで一緒について行ってくれそう…」
一部には『母親を連れて行くなんて、ダサい』だの何だのと言われているが、元々、男性職員の割合が遥かに高い職場に身を置いているし、母親以外の同伴者を捜すのは楽ではない。それにユーリという人がいる今は、妙な噂を立てられたくない。
あれこれ女性関係で騒がれて、ユーリとの関係に波風を立てるような事になる位なら、いっそマザコンだと思われた方がましだ。
「何…それじゃ、今年はもうシーズンオフで、大会はなし?」
コンラッドは頷いた。
「ユーリの方も、じきにオフでしょ?」
「んー、おれの場合は、雪が降るようになるまでは大丈夫だけどね」



コンラッドがユーリを連れて出かけたスポーツジムというのは小規模で、体育館とフィットネスルーム、それに入浴施設があるだけの施設であった。その辺にいる一般サラリーマンやOLが通うような、ごくごく普通のジムである。
ユーリがトレーニングを中断してトイレから戻ってきた時、コンラッドが辺りを歩いていた。何とも過保護である。
「ああ、ユーリ、何処に行ってた?」
「ちょっとトイレに…なあ、ここ、よく来てんの?」
汗の流れたこめかみにタオルを当てつつ、ユーリは尋ねた。コンラッドの髪の毛も少し汗で湿っている様に見える。
「シーズンオフの時には。シーズン中の場合は来る暇がなくて、ピットクルーの器具を借りてるけれど」
「あーやっぱりあの人達も筋トレしてるんだ。皆さん揃って超マッスルだったもんなあ」
車の整備ではなくエルボードロップのプロなのではないか、と思う程に。
見事な体格と言えば、グウェンダルはどうなのだろう、それに…。
「ヴォルフラムもこういうとこ行ってんのかな。あいつも一応トレーニングしてるって話だから。仕事柄」
「ヴォルフ? ああ、あいつの筋トレする場所は多分、家だと思うよ。母上もそうだし…」
「へえ、家でねえ…」
じゃあ普段の自分と一緒か、と思ったユーリだったが。
「かなり色々揃ってるしね、あっちのジムには」
「…え?」
「プールにテニスコートにゴルフ場に、えーと他には確か…」
と、コンラッドは指折り数え始めた。そう言う事かよ、とユーリは心の中でツッコミを入れる。コンラッドから今日の誘いを受けた時、一瞬だけ『他の奴も誘おうかなー…』と思ったが、ヴォルフラムを誘わなくて正解だったらしい。
「あんたも、そっちを使わせて貰えばいいんじゃないのか?」
「それも出来るけれど、こっちの方が近いし、オーナーとは必要以上に顔を付き合わせたくないから」
「何? うるさいの、あの人?」
コンラッドは頷いた。
「ふーん…」
ユーリはランニングマシンのパネルに触れた。時間と速度を入れる度に電子音がする。ユーリがマシンで走り始めた後、コンラッドも隣のマシンに手を伸ばした。

久々に一緒にいられる時間を、外出する事で遣う事にしたのは、ユーリの希望が大きかった。
だが、コンラッドも異存はなかった。
ユーリの希望を叶えてやれる事が、彼の希望だった。





その頃、渋谷家宅では、二日酔い醒めやらぬ勝馬がようやく起きていた。
「あ、ようやく起きてきたのね」
美子は居間に掃除機をかけ終わり、掃除機を片付けている最中だった。
勝馬は頭痛い頭痛いと呻きながら、起き抜けのぼさぼさ頭のままでダイニングテーブルに腰を下ろした。
「なあ、嫁さん。さっき、俺の事起こした?」
「起こしたかって? 何度も起こしたわよ、さっきボブさんから電話があったの」
「ボブが?」
「そうよ。急ぎの用件って訳ではなかったみたいなんだけれど…いくらやっても、ウマちゃん、起きないんだもの」
「ああ、そういえば夢うつつに、何だか色々とやられた記憶があるな…」
しつこく勝馬を起こそうとしたが、どうにもこうにも熟睡しきっていて目を覚まさなかったのである。
「しょうがないから、こっちから後でかけ直すって伝えたわ」
「ボブが俺に電話ねえ。一体、何だろうなあ…」
「思い当たる所はないの?」
「いや、全然ねえなあ…」
勝馬は水を一杯貰うと、ボブに電話をかけ始めた。コール音が鳴り響く間、妻に話しかける。
「しょーちゃんとゆーちゃんは?」
「しょーちゃんは本屋さんに行ったわ。ゆーちゃんは…今日はお友達と筋トレに行くんですって」
そう言った後、美子は何故か意味深な笑みを浮かべた。その笑みの意味する所は勝馬に分かる筈もなかった。
と、電話が繋がったので、勝馬は使用言語を英語に切り替えた。
「ああ…ボブ? 俺ですが、さっき貴方が電話をくれたって嫁さんから聞いたもんですから。…いや? 別に構いませんが…」
美子が遅く起きた夫の為に、テーブルに朝食を用意していく。
「……ふんふん……はあ、そりゃあまた、意外というか…」
勝馬の表情は少しだけ深刻なものに変わった。
「…立ち入った事訊きますが、その人、一体何をしたんですか?………ふんふん……」
ボブが何か延々と話している様だった。その話は長く続いた。
「…まあ……俺は貴方の信用を信じてますけど、うちの嫁さんにも訊いてみないと、こればっかりは返事は出来ませんよ。とりあえず、じっくり考えさせて貰えませんか? こちらからかけ直しますから。…ああ、ええ。…それじゃあ」
電話は予想以上に早く済んだ。
「どうしたの?」
「いやー…なんつうか、思ってもみなかった事態というか…」
勝馬はぼさぼさの髪の毛を軽くかきむしった。
「どうしたもんかな…」
「?」
勝馬が箸を取って味噌汁のお椀を手に取る。その左手に美子が座った。いつになく深刻な雰囲気が食卓に降りた。
「嫁さん、この間…夕食の時に話に出た、ゆーちゃんの名付け親さんの話、覚えてるか?」
「ええ、マクレーン刑事でしょ?」
「いや、その話は忘れて。あー、ってか、また、ボブからその人の名前を聞き忘れたし」
「で、その人がどうかしたの?」
「うん…」
味噌汁をすすって、ご飯が盛りつけられた茶碗を手に取る勝馬パパ。
「ボブによると、そのマクレーン刑事…いやいや、名付け親さんがな、ゆーちゃんに会いたがってるんだそうだ」
「あら、そうなの? でも…どうして今になって『会いたい』なんて言ってきたのかしらね?」
「いや、それがさ…その人、一時期、刑務所に入ってた事があるらしいんだよ」
「刑務所に…」
思わぬ知らせに、美子は目を丸くした。
「うん」
「それで、今はその人、どうしてるの?」
「今は、釈放されたんだか出所したんだか、そこの所はまだ、聞いてないから良く分かんないんだが…普通に生活してるらしいんだ。それでも、ついこの間まで色々とゴタゴタもあって、最近になってようやく身の回りが落ち着いてきたんだと」
「…」
「ボブの話じゃ、その人、今月の末にこっちに来るらしいんだ。でさ、ボブが…その人と3人で食事を一緒にどうかって、提案してるんだよ」
今月の末とは、随分急な話である。
「俺としては…とりあえず会ってみようかと思う。一度会ったっきりだったが、俺の記憶じゃ、そんなに悪い人じゃない様子だった気がするし…ボブの…あの人の信用もそれなりに得ているみたいだしな」
「そうねえ…ボブさんも同席してくれるし、会ってみるだけなら、いいかしら。でも、この事、ゆーちゃんには、どう話すの?」
「うーん…」
勝馬パパは少し考えた。
「ゆーちゃんには、今の所はとりあえず、黙っていてもいいんじゃねえか? 俺が会ってみて、ゆーちゃんに引き合わせてもいいかな…って思ったら、その時に話せばいいだろ?」
「そうねえ…それでいいわね」



そんな両親の相談など、露ほども知る筈がなく。
トレーニングを終えたユーリは、入浴施設で汗を流し、そしてサウナに突入していた。
「あー…何かアレだよな、こういう入浴施設でサウナを見掛けるとさ、入らずにいられないんだよね」
汗を洗い落としてからまた汗をかく、というのには、些か矛盾を感じるが。
サウナの席は三段になっており、ユーリはその一番上段に腰を下ろしていた。無論、タオルを腰に巻いて。
コンラッドも隣りに座っている。けろりとした顔をしているのは、真夏のレースの暑さに比べれば、ずっと楽だという事だろうか。
浴場には他に利用客がない。サウナ内も2人だけだ。
「サウナって、横になったら楽だって聞いた事あるけど、本当かな」
「やってみたら?」
という訳で、ユーリはいそいそとバスタオルを敷いて横になってみた。
「あー何かリラックスって感じだー……」
いや、汗はかき続けているが。
「コンラッド、あと何分くらい?」
コンラッドは壁の砂時計に目をやった。
「5分くらいかな」
「なあ、この後どうする? あんたんちに寄ってもいい?」
「うん、いいよ。少し散らかってるけど」
「別にいいよ。でも、散らかってるのは何で?」
「今月末に、俺の父がこっちに来る事になったんだ」
「へえ…」
ユーリが顔を上げた。
「ああ、それじゃ部屋の片付けとかしなくちゃいけないじゃん」
コンラッドの部屋には散らかっている所などなかった気がするが、たった一部屋、客室に充てている部屋は別だ。泊まる客などヨザック以外にいないせいだろう、部屋の三分の一のスペースが、謎の段ボール置き場と化している。引っ越して来た時のまま、片付ける余裕がなかなかない生活が続いて、そういう事になったらしい。そんな部屋にヨザックを泊める事は出来ても、父親を泊める事は出来ないのだろう。
「それなら、おれ、今日はいいよ?」
「いや、もう半分くらいは済んだから大丈夫だよ」
父親が泊まりに来ている間は、おそらく、二人では会えないだろうし。

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前回の終わりは一体何だったのかと思わせるような事態になりましたが、敢えて気にしないように。ちなみに、大体、話中では10月ぐらいになっています。