「ただいまー」
ユーリは午後6時近くに帰宅した。
リビングに顔を出すと、父親が新聞を読んでおり、母親の姿は何処にもない。
「おう、お帰りゆーちゃん」
「ただいま」
勝馬は新聞から顔を上げて、そう言った。
「なあ、おふくろは?」
「さっき、洗面所に行ったと思うぞ?」
確かに、ユーリが行ってみると、美子は洗面所で洗濯機に洗剤を入れている所だった。
「あら、ゆーちゃん。お帰りなさい」
「ただいま」
「ちょうど良かったわ。着替え、入れちゃって」
ユーリはバッグの中身の使用済みタオル&シャツ等を、まとめて洗濯機に放り込んだ。
「ゆーちゃん、楽しかった?」
「うん、まあね」
素っ気ない返事。
「コンラッドさんはお元気?」
「な、何でコンラッドの話が出るんだよ」
すぐに赤くなった息子の頬を、美子がからかうようにつつく。
「ゆーちゃん、隠したって駄目よ。ママには分かっちゃうんだから。今日はコンラッドさんとお出かけだったんでしょう? いいわね〜」
「おふくろ…ただ筋トレしに行っただけなのに、何でそんなにうっとりしてる訳…?」
美子は嬉しそうな表情で洗剤を洗濯機に入れる。それからこう言った。
「ねえ、ゆーちゃん。いつになったら、また、コンラッドさんをうちに連れてきてくれるの?」
「は?」
ユーリは目を丸くした。
「もう、ママ言ったでしょ。またコンラッドさんを連れてきてね、って」
そう言えばそんな気もする。
「何、おふくろ、そんなにコンラッドの事が気に入ったのかよ?」
「あら、ゆーちゃんはキライなの?」
「そんな事ないよ」
「でしょ?」
「でも、それとこれとは話が別だろ?」
洗面所から出て行こうとするユーリの腕を、美子がむんずと掴む。
「じゃあ、ママ…コンラッドさんを、直接、お招きしちゃうわよ?」
「!?」
ユーリが振り向いた。
「コンラッドさんからの電話を受け取るのは、いつも、ママでしょ?」
だから電話番号も知ってるのよ〜、だって着信履歴に残ってるものね〜、実はもう短縮ダイヤルに登録してあったり〜…と、美子は語る。
おふくろ…恐ろしいひと!
ユーリは心の中で思った。
「でも、いつ連れて来いって言うんだよ。休日は親父が家にいるし、平日だって、午後は勝利がいるだろ? 平日の午前中なんか、学校があるから絶対無理だしさ」
「それならねえ…再来週の火曜日はどうかしら。その日は、パパ、人と約束があるから遅くなるのよ。しょーちゃんも合コンで遅くなるんですって」
また、何故、そんなに都合良く2人の予定が合ってしまったのだろうか。
「…まあ、コンラッドに聞いてみないと、話にならないよ。ダメかもしんないしさ」
『うん、いいよ』
子機の向こうでコンラッドが快諾したものだから、ユーリは自分の部屋の椅子からずり落ちそうになった。
「んなあっさりと…いいの?」
『どうして?』
「だって、再来週って言ったら…もう、あんたの親父さんが来ている頃じゃないの?」
『うん、でも、その日は父上が出かけるから』
「ふ、ふーん…」
コンラッドは嬉しそうだったが、ユーリは正直、あまり嬉しくなかった。
…これでは、諦めて家に招待するしかないではないか!
別に、コンラッドを自宅に連れて来るのが嫌なのではない。ユーリが嫌なのは、母にあれこれ根掘り葉掘り訊かれる事だ。
『何時に行けばいい?』
「おれはその日も普通に学校があるから…4時半でいい? その頃には家に帰ってると思う」
『4時半だね、分かった』
隣りの部屋の勝利の耳もあるので、程々な所でユーリは電話を切った。
だが、ユーリは想像もしていなかった。
その電話が切れた後で、コンラッドが花屋に電話を入れた事など。
そして…2週間後。10月も末にさしかかった頃。
午前9時過ぎ。
コンラッドは空港のロビーにいた。
飛行機の発着時間を知らせるアナウンスがかかり、電光掲示板の表示が変化する。
コンラッドは掲示板の上に掛かっている時計を見た。
…今、入国手続きをしている所だろうか…
そう考えながら何気なく辺りを見回すと、同じ列の椅子に座っている女性2人が、彼の方を見ていた。この場所にいるという事は、自分と同じく、誰かの出迎えに来ているのだろう。勿論、どちらの女性も見知らぬ顔だった。
「何か?」
営業用の笑顔で尋ねる。すると、女性の片方がこう問い返してきた。
「あの、ひょっとして、コンラートさんじゃありませんか?」
ああやっぱりそういう事か…コンラッドは内心で呟いた。帽子を被り、色の入った眼鏡を掛けても、それでも判る人には顔が判ってしまう。
…チームロゴが入っている帽子を使っているのが、いけなかったのだろうか?
「ええ、そうですよ」
「やっぱりー! あの、サインしてもらえますか?」
「いいですよ」
オーナーから、ファンからのサインの要望には積極的に応じるように言われている。それが業界とチームと個人の人気を持続させる、一つのコツだ。
2人の女性はそれぞれサインする物をコンラッドに渡す。一方は手帳だったが、もう一方は書きつけるものがどうしても無かったらしく、なんと、ハンカチをペンと共に渡してきた。いいのかなあ書いちゃっても、と思いながら、コンラッドはそれにサインする。女性2人はとても嬉しそうだった。
その時、ちょうど、ぞろぞろと乗客がロビーに出てきた。旅行疲れと時差ボケのみられる人間が何人もいる中で、コンラッドは父の姿を探す。
実に簡単に見つかった。乗客の大半が観光客だった為に、土産ものを持っていない客の中から探せば、ダンヒーリー・ウェラーの姿はすぐに見つかった。
コンラッドは使用言語を切り替えた。
マンションの自室に到着すると、コンラッドはダイニングテーブルの側に荷物を置いて、ダンヒーリーに家の中を案内して回った。
「こっちがバス、そっちがトイレです。で、父上が使う部屋はここですから」
休日を使って整えたそのゲストルームは、荷物置き場としての要素が完璧に取り払われていた。
ダンヒーリーは息子の自宅の中をしげしげと眺めて回っている。彼が息子の住まいを訪れたのは、これが初めてだった。
その間、コンラッドは帰路で買った夕食の材料を、冷蔵庫に入れていた。
「コンラート」
「はい、何です?」
振り向けば、ダンヒーリーはコンラッドの寝室を覗き込んでいた。父が何を言いたいのか、大体コンラッドには想像がついた。
「お前のベッドはやけに大きいな…」
やっぱりそうきた。
「最近、寝相が悪くなったりしたのか?」
清々しいまでのダンヒーリーのボケに、コンラッドは笑い声を上げた。
「いやだなあ、父上。決まってるでしょう?」
「?」
「俺だって恋人くらいいますよ」
「ああ…なるほどな」
敢えて、コンラッドは『彼女』とは言わなかった。ダンヒーリーはその事に全く気づいていなかった。
「どうします、これから?」
「明日に備えて少し休む」
「解りました。何か飲みます?」
コンラッドはダイニングテーブルについた父親に、コーヒーを出した。暖かいコーヒーをすする父親は、寒そうに見える。気温20度以下の秋など、殆ど過ごした事がないに違いない。
「恋人、か…」
「ええ、まだ同棲まではいってませんよ」
「…」
ダンヒーリーが何故か沈黙した。
「…何です?」
「…考えてみれば、お前、私に一度も彼女を紹介した事がないな」
「そういえばそうですね。紹介して欲しかったんですか?」
「いや…」
コンラッドが紹介しようとした所で、ダンヒーリーは会う気にならなかっただろう。
ダンヒーリーは息子の生活、特に交友関係には、あまり干渉しなかった。だからコンラッドの友人の中で、ダンヒーリーの過去を知る者はとても少ない。大半の友人の間では、『謎の人』で通っていた。
「今の彼女とは、付き合ってどの位になるんだ?」
コンラッドは左手で指を折って数えた。
「今の恋人とは、半年ぐらい続いています」
「うまくいっているのか?」
「ええ、とっても。母上やグウェンダル達も気に入ってくれてますよ。ああ…でも、父上にはまだちょっと紹介出来ないなあ。その子、恥ずかしがり屋なので」
無論、真っ赤なウソだ。
「まあ…何にせよ順調なら、それに越した事はないさ」
ダンヒーリーはそれ以上、息子の交際相手について深く詮索する気はなかった。
「明日、出かけるから、レストランまで送り迎えしてくれるか?」
「ええ、いいですよ。午後6時でしたよね? 大丈夫、送れます」
「お前も来るか?」
「いいえ、前も言ったでしょう? 興味ありませんから」
父の知り合いに興味はない。今の彼の頭にあるのは、『今年のクリスマスをどうやってユーリと過ごすか』、そればかりだ。今年のユーリの誕生日をきちんと祝えなかった分、クリスマスはユーリの好きな所に行こうと決めている。
ダンヒーリーの言葉でふと気づいたのは、クリスマスの食事場所を決めていない事だった。あのユーリの事だから、ムードなど二の次で、美味しくて楽しめればいいに違いない。
「…父上、レストランって、なんて名前でしたっけ?」
ダンヒーリーは割と有名な三つ星レストランの名前を挙げた。その店はコンラッドも知っていたので、それなら送迎する上で道に迷う事はないと思われた。
「その辺りは車を停める事が出来ないんですよ。近くに保険会社のビルがありますから、俺はそこで待っています」
コンラッドはメモ用紙を取って、そこにボールペンで簡単な地図を書いた。
「明日は、お前も出かけるそうだな」
「ええ。迎えに行けるとは思いますけど…何かあって、どうしても俺が行けなくなったら、レストランに電話を入れますから、タクシーで帰って来て下さい。この地図にここの住所も書いておきますから、タクシーの運転手にこれを見せれば、多分、ここまで連れてきてくれると思います」
父が日本語を話せない事は判っていた。
「今更大丈夫だと思いますけれど、一応レストランとタクシーの利用方法について説明しておきますね。この国の大抵のレストランは、テーブル付きのウェイターがいません。用がある時は、どのウェイターを呼んでも対応してくれます。それと、会計はテーブルではなくレジで行います」
「チップは?」
「チップの習慣はないんですよ。払わなくて大丈夫です。と言うか、払わない方が店員も混乱しないと思いますよ。それから、タクシー乗り場もありません。その辺りを走ってる空車を手を振って捕まえるか、店から電話するかして乗る事になります」
コンラッドは地図をダンヒーリーに渡した。その時、ダンヒーリーはスーツを出していない事を思い出し、立ち上がった。
「どうしたんです?」
「スーツを下げておくのを忘れていた」
「ああ、なるほど。俺の寝室に吊していいですよ」
荷物を広げる父の背中を見ながら、コンラッドは年月の経過を感じた。
「コンラート、ハンガーを貸してくれないか?」
「はい、今取って来ます」
ハンガーを持って戻って来たコンラッドは、父親の持ってきたスーツを見て、尋ねた。
「…そのスーツで行くんですか?」
「ああ。変なのか?」
「変じゃないですけど…ちょっと、ネクタイが、ね。俺のを貸しますよ」
コンラッドは自分のネクタイを取ってきた。そのワインレッドのネクタイは、コンラッドには落ち着きすぎてあまり似合わなかった。だが、首に当てて合わせてみると、ダンヒーリー位の年齢の男性にはちょうど良いようだった。
「父上、これ似合いますね」
しかし、このネクタイにはユーリの『愛してる』発言という思い出があるので、どんなに自分に似合わなくても、譲る事は流石に出来ない。
この父は、自分が男…それもまだ16歳の高校生と付き合っていると知ったら、どんな反応を示すだろう?
まあ、数ヶ月前ならともかく、今更誰に何を言われた所で、コンラッドはユーリと別れるつもりは無いのだが。
ダンヒーリーはスーツをハンガーにかけた後、こう訊いた。
「コンラート、電話を借りていいか。ツェリに電話したい」
「いいですよ、俺がかけます。ひょっとしたら母上はいらっしゃらないかもしれませんけど、いいですよね?」
「ああ、頼む」
コンラッドは電話を取って、母の実家に電話した。
『…はい、もしもし』
ものの数秒でメイドが出た。
「俺だけれど…」
『コンラート様ですか?』
「ああ、母上はいらっしゃるか?」
『少々お待ち下さい』
10秒かそこらで、電話の相手は変わった。
『コンラート?』
「母上、お元気ですか?」
『ええ、あたくしはいつも通りよ。ヴォルフも相変わらず…と言っても今日はあの子、仕事でいないんだけれど』
「そうですか…実は、今、父上がこっちに来ているんですよ。」
『あら、ダンヒーリーが来てるの?』
「ええ、そうなんです。母上の様子が知りたいそうですから、替わっていいですか?」
ツェリが快く了承したので、コンラッドはダンヒーリーに電話を渡した。
それから彼はリビングに移動して、クリスマスのデートを検討するべく、その資料になりそうなものを探し始めたのだった。
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ディモルフォセカをくれた君(38)
もう今更言うまでもありませんが、私はダン様が大好きです。エヘ。ちなみに、次男はダン様と話す時はドイツ語を使う、という設定になっています。