ディモルフォセカをくれた君(39)
「じゃあ、俺、ちょっと出かけて来ますから」

時間までには戻ります……そう言ってコンラッドが家を出てきたのは、午後の1時30分過ぎ。
訪れた先は、とあるフラワーショップだった。店の前には、黒いポリポット入りの苗が鉢植えのサボテンと共に、ずらりと並んでいる。
こじんまりとした店内には、防水エプロンをつけた店主の男性しかいない。三十路過ぎの店主はカウンターで何やら書き物をしていたが、客の気配に気づいて顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、電話で花束を注文していた者ですけど」
「ああ、カラーの花束ですね? 今、お作り致します」
店主は白いカラーとガーベラなどを取ってきて、慣れた手つきで作業台で花束を作り始めた。
「お客様、花束のリボンは何色に致しましょうか。
と言って、店主は作業台の上から下がっているリボンを指さす。
「赤と黄色があるんですが、黄色の方がこの花には合うと思いますよ」
薄い黄色のリボンと赤いリボン。いや、赤というよりピンクに近い。
「じゃあ、黄色にして下さい」
コンラッドがそう答えると、店主は分かりましたと言って作業を続けた。
その間、コンラッドは店の中に溢れかえる植物を見回した。観葉植物、カトレア、ピンクのガーベラ、紫のカラー、コスモスも色とりどりのものが揃っている。
他にもバラとかすみ草が目についたが、その時、コンラッドの視線が留まった。
オレンジ色のバラがあった。
「あの」
「はい?」
「あれ…」
彼は店主に声をかけた。視線だけはバラに留めたままで。
「…あのバラも花束にしてくれませんか?」

唐突な思いつきだった。
だが、その瞬間考えたのだ。
…今ならば、笑ってあそこに行ける…と。



20分程経った後。
コンラッドはとある施設の駐車場に停車して、そして、父親に電話した。少し帰りが遅れる旨を連絡すると、彼は電話を切り、バラの花束の方を持って、車から降りた。
彼が来たのは、その性格上、出入りの極めて自由な場所である。
何処まで歩いていっても青空の下。
…人が最期に眠る場所としては、あまりに明るい。存命中には屋根のある暗い部屋で眠るのに、死んだ後は、人はこんな開けた場所で眠る事になるのだ。
彼女は死んだのだ─────その事実は改めてコンラッドの心に滴って、染み渡った。しかし、きちんと足は前方に出ていた。
草の上に点々と並ぶ墓標の間を抜けて、そして、とある墓標の前で彼は立ち止まった。
文字の刻み込まれた墓石が、草の上に横たわっている。コンラッドは草の上に片膝をついて、持参した花束を静かに墓石の上に置いた。そのせいで墓石に刻まれた碑銘が隠れてしまったが、置かれたバラそのものが、故人の名前を表している。

……コンラッドがジュリアに贈った物の中で、彼が己の感情を本当に詳らかにした代物など、一つとしてなかった。だから、彼女がどの程度コンラッドの気持ちを感得出来ていたのかは、ある意味、推し量りがたい所もある。
この花を贈った時、彼女は訊いた。「どんな色をしているの?」と。
コンラッドは答えた。彼が扱える限りの語彙で。「やさしい太陽の色だ」と。
…それしか言えなかった。

墓石に手を伸ばすと、指に、冷えて硬質な感触が伝わる。
死の手触り。
これこそがコンラッドにとっては、『ジュリアの死』だった。これ以外には何もない。彼がジュリアの死を知った時には、彼女はとうの昔に葬られていたのだから。
だから、コンラッドは一度しかここに来る事が出来ないでいた。ここに来れば事実を強く宣告されるのだ、と、解っていた為だった。
しかし…………今は驚く程穏やかな心地だった。
ジュリアの死は悲しかった。今でも悲しいし、おそらくは、これからも。
だが────────。



アニシナは月に3度くらいのペースで、ジュリアの墓へと足を運んでいた。
意識的に通っている、というよりは、何となく足が向いた時に赴いている、と言った方が正しい。
だが、今日の彼女は途中で歩を止めた。
ジュリアの墓の前に、コンラッドがいたからである。
彼の祈る姿を見ると、アニシナはくるりと踵を返した。そして、グウェンダルがバイクを停めているであろう駐車場へと戻っていった。



午後4時半。
美子ママは玄関を改めて掃除すると、鼻歌を歌いながら居間に戻り、ソファに腰を下ろした。
そろそろである。そろそろ、下の息子の恋人が家にやって来るのである。
掃除は完璧。お茶の用意はOK。
そして、夫と上の息子も送り出し済みである。後は、恋人さんと、下の息子がそれぞれ家に来るのを待つだけだった。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。
「はーいっ」
うきうきしながら美子は玄関に出て行った。ドアを開けると、『ゆーちゃんの恋人』その人が立っていた。
「いらっしゃいっ。さ、上がって上がって」
快く彼女がコンラッドを中に入れると、彼は、持参した花束を差し出した。カラーやガーベラなどの白い秋の花を集めた、何とも乙女チックな花束である。
「これ、よろしかったらどうぞ」
「あら。これ、私に?」
「ええ」
「まあ、ありがとう。とっても嬉しいわ。こんな綺麗な花束、貰えるなんて」
美子の表情がぱあっと輝いた。ユーリがここにいたら、『アンタ、一体何しに来たの…?』とツッコミを入れただろうが、そのユーリはまだ帰って来ていない。
「せっかくいらして下さったのに、ごめんなさいね。ゆーちゃんったら、まだ、帰って来てないのよ」
「そうでしたか」
「お昼に学校から電話くれたんだけど、どうやら、テストか何かで残されてるみたいなの。本当、ごめんなさいね」
「いいえ」
コンラッドは居間に通された。美子がローテーブルに茶を運んできて、彼に出す。その後、彼女はキッチンで花束を生け始めた。綺麗に咲いているだけに、しおれさせたくない。
コンラッドは部屋の片隅に飾られているレプリカのサインボールを見て、訊いた。
「旦那さんも、野球がお好きだそうですね」
「そうなのよ。もう、ゆーちゃんと2人して野球が好きでね。あたしの方は、ゆーちゃんを野球少年にする気はなかったんだけど、父親の影響ですっかりはまっちゃって。だから小さい頃から、遊びに行くと、泥だらけで帰って来てたわ。せっかくあたしに似たのに」
花を花瓶に生け終えると、美子はそれをダイニングテーブルに置いた。そして、コンラッドの隣りに腰を下ろした。
「そうですね、ユーリはお母様似だ」
「そうなの。だから小さい頃から可愛くしてみようと頑張ったのよ。小さい頃はもう、ホンットーに可愛かったの。しょーちゃん…上の息子なんだけどね、名前が勝利って言うの」
それから、美子は少し話を変えた。
「しょーちゃんとうちの人には、話してないのよ。今日の事。ごめんなさいね」
「いえ、構いません。俺みたいな者が息子さんの恋人だなんて、お母様としても言い出しにくいのが当たり前ですから」
「特にしょーちゃんがねえ…ゆーちゃんの事を本当に大事にしてる子だから」
美子はふう、とため息をついた。
「しょーちゃんは小さい頃から、ゆーちゃんの面倒をよく見てくれたのよ。ゆーちゃんの方でも、そんなしょーちゃんの後ろを『しょーちゃん、しょーちゃん』って、ついて行ったりしてねー…あら、そうだわ」
美子はポン、と手を叩いた。
「その頃のゆーちゃんの写真があるの。良かったら見る?」
「ええ。是非、拝見させて下さい」
「それじゃ、ちょっと待っててね」
美子は一度リビングを出て行った。残されたコンラッドは、部屋の壁時計に目を向ける。
約束の4時半をとうに過ぎているのに、ユーリが帰宅する気配は全くなかった。



何たる不運だ!
ユーリは内心で叫びながら、猛烈な、しかし安全第一な勢いで自転車を漕いでいた。
本当に、何という不運だろう。今日に限って、数学の抜き打ちテストが実施されたのである。
見事にユーリは落ちた。うっかりヴォルフラムも落ちてしまったのには驚いたが、放課後の再テストにはもっと驚かされた。
何と、再テストの監督を担当する教師が、実施時間を過ぎても教室に現れなかったのである。テストの事をすっかり忘れて、職員会議に出ていた為であった。
その結果、本来は4時から始まって数十分で終わる筈の再テストが、5時終了という結果になってしまった。
1時間待たされている間、ヴォルフラムは教室のゴミ箱に八つ当たりしていた。だがユーリはヴォルフラムと違い、苛立つ以上に、気が気でなかった。
通行人に激突しないように気をつけつつ、全力で自宅まで向かう。何とか帰宅した頃には5時10分過ぎだった。待たせ過ぎにも程がある。
激しく息を切らせながら、ユーリは自宅に突入した。突入という響きに相応しい勢いでリビングに向かうと、ちょうど、トイレから出てきたコンラッドと遭遇した。
「ああ、ユーリ。お帰り」
「コンラッド。ほんっと、ごめん! 居残りがあってさ、本当にごめんな!」
ユーリは顔の前で両手を合わせた。
「いや、それはいいんだけれども…」
「今、着替えてくるから!」
ユーリは階段を駆け上がって、自分の部屋に走り行った。荒々しく制服を脱いで私服を着たが、ふと、机の上に置かれていた物を見た。そして面食らった。
ちょこーん、という比喩が相応しい様子で置かれているのは、コンドームの箱だった。
「おふくろーっ!!!」
ユーリは一階に駆け下りると、居間に入り、キッチンに立っていた母親に抗議した。
「あれ、何なんだよ! 買って来るなって言っただろ!」
「だって、今日、痛み止めを買いに薬局に行ったら、安かったんだもの」
「あれって?」
リビングに立っていたコンラッドが尋ねる。だが、ユーリは先に母親に言った。
「あれはコンラッドと話し合って、使うかどうかとか、どっちが買うかとか、きちんと決めたんだよ」
「ああ、コンドームの事か」
と、コンラッドが言った時。

だんっ!

大きな音がした。
何の音か、と、ユーリは部屋の中を見回した。
そして気づいた。一人掛けのソファの背もたれの上から覗いている、黒い頭頂部に。
…激しく嫌な予感がした。
その黒い頭頂部は、手に持っていた湯飲みを置くと、ゆっくりと立ち上がって振り向いた。
それは、ここにいない筈の兄・勝利だった。

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宣言します。というか、告白します。…ジュリアの死の詳細については、以降、この話で明かされる事はありません。本当に。
これは当初から決めていた方針でした。全ての事実が解ってしまう必要性はないな、と、思ったもので。
ご了承下さい。

…ところで、真っ白いカラーとガーベラの花束を持参した次男を、(自分で書いておきながら)「殴りたい」と思ったのは私だけですか…。