ディモルフォセカをくれた君(40)
合コンに行った筈の勝利が引き返してきたのには、理由があった。
携帯電話を持ってくるのを忘れたのである。
これは非常に重要な問題だ。携帯を忘れてしまえば、知り合った女の子のメールアドレスを手書きでメモしなくてはならない。それに、可愛い可愛い弟の(幼年時代の)写真を同級生に見せびらかす事も出来ないではないか!
自宅に入ると、まず、玄関に見慣れない靴があるのに気がついた。男物の靴である。
…セールスマンか何かだろうか? 勝利はそう思った。
お客に挨拶するのを面倒に思った勝利は、ソックスをはいた足で忍者の如く、足音を立てずに廊下を駆け抜けた。
だがその時、居間から、聞き捨てならない会話が彼の耳に飛び込んできたのである。
「…あら、そういう出会いだったの。なるほどね。ゆーちゃんったら、あたしに全然何にも話してくれないんだもの」
「ユーリは恥ずかしいんですよ、きっと」

何だか聞き覚えのある声だな…。
…そうだ。以前、ゆーちゃんにに電話をかけてきた、あのうさんくさい外人の声だ。

「でも、そこが可愛らしいですよね」
「あら、そう思う?」

…なぬ?

「そうだわ。この間ゆーちゃんにゴム買ってきたの。あの子、ちゃんと持って行った?」
聞き捨てならない母親の台詞。
しかし、それに対する返事は、更に上を行っていた。
「ええ、ありがとうございます。使わせて頂いてます」

…。
ちょっと待てい。

「…どういう事だ、それは?」
突如、勝利は居間に姿を現した。ソファに並んで座って談笑していた2人が、それぞれ目を丸くして彼を見た。
「…しょーちゃん? 合コンはどうしたの?」
美子ママは慌てて立ち上がった。
「そんなもんに行ってる場合か」
そう。最早、合コンなどどうでもいい。
勝利は、母親の隣りに座っている青年をギロリと睥睨した。
青年の年格好は自分とそう変わらない様に見えた。だが腹立たしい事に、顔とスタイルがいい。しかも、勝利はその青年の顔に見覚えがあった。
「…あんた、コンラート・ウェラーか? カーレーサーだかオートレーサーだかの」
「ええ」
青年は愛想良く微笑んだ。そして頭を下げた。
「初めまして、ユーリのお兄さんの、勝利さん、ですよね」
「…」
はっきり言って、男に微笑まれても、勝利には効果がない。
「…あんた、一体何なんだ? って言うより、うちのゆーちゃんと何だって? コンドーム使う仲だと?」
「はい。弟さんとお付き合いさせて戴いてます」
ぴしっ! と、勝利のこめかみに血管が浮いた。
ふつふつとわき上がる怒りを抑えつつ、勝利は一人掛けのソファに腰を下ろす。
「…あんた、何歳なんだ?」
「しょーちゃん」
上の息子をなだめようとする美子だったが、
「おふくろは黙っててくれ」
と、一言言われた。
なので、美子はとりあえず、キッチンにお茶を用意しに言った。勝利の気分を落ち着かせる為である。
「…で、あんた、幾つなんだ?」
「20歳です」
「ゆーちゃんは何歳だ?」
「16歳、ですね」
「その通り、16だ。あんたは成人してても、ゆーちゃんは未成年なんだよ。16の子供とエッチした? 条例違反だっつーの」
だから自分は今まで彼女を『作らなかった』のだ…というと、かなり苦しい言い訳になるが。
「あら、そうなの?」
お茶を持ってきた美子がそう訊くと、コンラッドが言った。
「ええ、確かにそうですよ」
「確信犯かよ、あんた!」
おかげで、勝利の怒りは煽られた。母親が淹れた茶を一口飲んで、喉を潤す。
「……あのな」
「はい」
「…あんた、考えたのか? いたいけな思春期のゆーちゃんとあんたが寝る、っていうのが、どういう事なのか、考えた事があるのか?」
「…」
勝利の言いたい事は、何となく、コンラッドにも理解出来た。
『初めての性体験の相手が同性だった』という経験が、まだ幼いユーリの心理に影響を与えるのではないか…それを、勝利は心配しているのだ。
子供の時の異常な性体験―――例えば性的虐待を受けたり、性的に乱れた環境下で育つなどだが―――によって、精神に傷を抱えた人間に成長してしまう事がある、という話を、ヨザックから聞いた事がある。
勝利が心配しているのはそういう事だ。それは仕方がない。ユーリと自分の交際をまともな恋愛関係だと思えないのも、おかしくないのだ。10年経ったら、多少はまともな恋愛関係に見えるのだろうが。
勝利は、弟と自分の関係が一生つづくとは思っていないのだろう…コンラッドはそれを感じていた。
自分と別れた後の弟が、まともな恋愛をする事が出来なくなったら…そういう懸念を抱いているに違いない。
「……俺にも弟がいます。ユーリと同じ歳の。だから、君が心配している事が解る」
「…」
「俺は……」

ガチャ!! バン!!

…玄関のドアを開け閉めする音。
ユーリが帰ってきたのは、2人がそんな会話をしていた所だったのだ。



「……あ…あれー…勝利、何でいんの?」
ユーリはおそるおそる尋ねた。
「忘れ物したから帰って来たんだよ。そしたらコイツが、おふくろとお前の惚気話をしてた」
「へ、へー…」
…もう、ここまで来ると、ごまかしようがない。
「…ゆーちゃん。この外人と付き合ってるっていうのは、本当なのか」
「…本当だけど」
勝利が眉をぎゅっと潜めたので、ユーリは躍起になって言った。
「だ、だったら何なんだよ。勝利には関係ないだろ。口出しすんなよ」
「関係ない訳あるか! おにーちゃんはお前を心配してるんだぞ!?」
「心配されるような事なんか、俺はやってないだろ!」
兄弟喧嘩に突入しかけるユーリと勝利を、それぞれ、コンラッドと美子が止めに入る。
「ユーリ、落ち着いて」
「しょーちゃんも、そんなに大声出してかっかするんじゃありません。ご近所に迷惑でしょう」
「…おふくろは何でそんなに落ち着いていられるんだよ。どうして、こいつの味方なんだ?」
すると、美子はゆっくりとした口調で答えた。
「ママはね、その事については、コンラッドさんと話し合ったのよ。結構、たくさん」
ユーリはそんな事は知らなかった。なので、いつの間に、と心の中で叫び、コンラッドに目を向ける。
「俺は…」
と、コンラッドが何かを言いかけた時、彼の携帯電話が鳴った。
「…失礼」
電話に出る為に、コンラッドが廊下に出て行く。だが応対に出た途端、好青年から一転し、何故かののしり合うような口調になった。しかも、何を言っているのか、まるで理解出来ない。
「…何なんだ、あいつ」
勝利は唖然とした。
「ああ、多分、親御さんと喋ってるんだと思う。親父さんとはドイツ語で話してるんだってさ」
ユーリが解説していると、コンラッドが電話を切って戻ってきた。
「すみません。父が道に迷ったみたいで…これでお暇させて戴きます。すぐに迎えに行かないと」
「あら、まあ」
コンラッドはユーリの方を見た。
「ごめん、ユーリ」
「いいよいいよ。こっちこそ、ごめんな」
勝利は不機嫌な表情のまま、何も言わなかった。母親と弟がコンラッドを見送りに玄関に出て行くのにも、彼はついて行かなかった。ソファに座っていた。
コンラッドは靴をはくと、ユーリに向かって言った。
「コンラッド、気をつけてな」
「うん」
そのやり取りを見ていた美子が、不意に尋ねた。
「『さよならのチュウ』はしないの?」

・・・。

「じゃあ…」
と言って手を伸ばしかけたコンラッドから、ユーリが離れる。
「するか! もう!」
「しないの?」
つまんない、と言いたげな美子の表情に、コンラッドは苦笑した。
「それじゃあ、ユーリ」
「うん、じゃあな」
コンラッドは静かに玄関のドアを閉めて、出て行った。
居間にとって返す道々、ユーリが怒ったような口調で言う。
「おふくろ、変な事言うなよな。びっくりするじゃんか」
「えー。だって、お別れのキスぐらい、してるでしょ?」
「し、してねーよ!」
ユーリは真っ赤になって抗弁したが、実は母親の言う通り、やっていた。お別れのキスとやらを。
その時、突然勝利がソファから立ち上がった。
「しょーちゃん? どこ行くの?」
勝利は無言で2人の間をすり抜けた。そして玄関で靴を履くと、急ぎ場やに外へと出て行ったのだった。



「おい!」
コンラッドが車に乗り込んだ時、勝利が運転席の窓を叩いた。
手振りで、『窓を開けろ』と言っていたので、その通りにコンラッドは窓を開けた。開いた窓を挟んで、2人の視線が合う。
「…いいか。俺は納得してないぞ」
「…お義兄さん」
「あんたは俺の弟じゃないぞ」
「じゃあ、勝利。…俺では、不安ですか。俺には、ユーリを守る事は出来ないと?」
「…」
勝利は答えなかった。
だが、事実コンラッドには、ユ−リをまともに守ってやれた例がなかった。アーダルベルトの時も、電車の時も、ユーリを助けたのは別の者であって、コンラッドは何も出来なかった。
でも。…いや、だからこそ。
「ユーリは俺が守る。貴方が守ってきた弟は、俺が幸せにするよ。必ず」
勝利は何か言おうとした。だが、コンラッドの話は続けられた。
「君が解っていないだろう事がある。…ユーリが俺を愛してくれている以上に、俺の方が彼を愛しているという事だ」
「…だから許してくれ、って言うのか?」
「いや、そうは言わない」
コンラッドは首を横に振った。
「君は一生俺を許してくれなくてもいい。それが当然だ」

だって、ユーリは君にとって、最愛の弟なんだから。





その日の夜。
勝馬は午後9時過ぎに帰宅した。
「お帰りなさい、ウマちゃん」
「おお、ただいま嫁さん」
勝馬はダイニングテーブルについて、ネクタイをゆるめた。食事の席で多少飲んだ為、少し頬に赤みがさしている。
「しょーちゃんとゆーちゃんは?」
「2人とも自分の部屋よ。で、どうだったの? 名付け親さんとのお食事は」
「楽しかったよ。いやー、かなり笑った。ボブはどうして笑わなかったんだろうなあ、って思うくらいに、話が弾んでさ」
「あら、名付け親さんって、英語話せないんじゃなかったの?」
「いや。しばらく会わないうちにマスターしたんだと。だから、今日は直接話が出来たよ。ボブの通訳なしで」
「ふうん…どんな人だったの?」
「うん、きちんとした普通の人だったな。今は自営業やってるんだとさ。ボート貸し」
「ボート貸しって、公園とか海とかにあるような?」
「俺もそう思った。でもそうじゃなくて、ボートはボートでも、モーターボートの方らしい。春になると観光シーズンで忙しくなるから、その前にこっちに来たんだってさ」
「それじゃ、奥さんも今回こっちに来てるの?」
「いや」
勝馬は首を横に振った。
「独身だって」
「え? だって、息子さんがいるんでしょ?ウマちゃん言ってたじゃない。息子さんの方にも、一度会った事がある…って」
「うん。でも、結婚してなかったらしいんだ。…ありゃ? 離婚したのかな。話の内容から察するに、結婚してなかったみたいんだが…でも、何で別れたのかも聞いてないからなあ」
「そうなの。まー、もしも逃げられたんだとしたら、本当にマクレーン刑事ねえ」
「いやあの、嫁さん、ダイハードの話は忘れて。今度こそ、ちゃんと名前を聞いて来たから」
「何てお名前なの?」
「『ダンヒーリー』さんだよ」
「ダンヒーリー、さん?」
頭文字と伸ばし音の、合計2文字しか合っていなかった。
「ねえねえウマちゃん、そのダンヒーリーさんって、ブルース・ウィリスに似てた?」
「いや、あんまり。ガタイは良かったけど」
「あら、そうなの」
勝馬は首を傾げた。
「何。嫁さん、ブルース・ウィリスのファンなの?」
「ううん。ただ、どんな人なのかを具体的に想像する為に、聞いてみただけよ」
勝馬の話を聞くうち、だんだん美子もその人に会ってみたくなってきた。
「それで、結局どうするの? ゆーちゃんにこの事話しても大丈夫かしら?」
「それなんだけどなあ…」
勝馬が少し身を乗り出した。
「その人…ダンヒーリーさんだが、ゆーちゃんに引き合わせなくてもいいって言うんだよ。『遠くからちょっとだけゆーちゃんの姿を見られれば、それでいい』って言うんだ」



「そんな事言ったんですか?」
コンラッドは父の報告に驚かされた。
「ああ」
ダンヒーリーが息子に借りたネクタイを外す。コンラッドはそれを受け取った。
「いいんですか、それで? だって、その子に会う為に来たんじゃないんですか?」
「最初からそのつもりだった」
ダンヒーリーとしては、渋谷家の家庭に出来るだけ波風を立てたくなかった。
「私のような男が名付け親だと知る事で、ショックを与えたくない」
「…」
「学校が終わった後でその子が何処に行くか、それは聞いてある。だから、明日か明後日辺りに行ってみる事にする」
「そうですか…俺は仕事があるのでついて行けませんけど、気をつけて下さい」
「ああ」

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なんてけなげ組なダン様でしょうか。ヘタレじゃない所がポイント。
私は、ダン様はヘタレではないと思うのですよ。ヘタレな男に、あのツェリ様はオトせないだろう…と思うので。