ディモルフォセカをくれた君(41)
「あー、本当にやばかった。今日の数学」
下足棚で靴を取り出しながら、ユーリはほっと安堵の溜息をついた。
「そんなに危うかったのかい?」
「合格点スレスレ。ついこの間…ってか一昨日だけど、数1で抜き打ちテストやったかと思いきや、今日は数Aだぜ。今日も居残りになるかと思ったよ」
「居残りって言えば…渋谷。君、一昨日、ものすごい勢いで帰って行ったよね。図書館から見掛けたんだけど、何かあったのかい?」
「あー…」
ユーリがその説明をする為には、ムラケンの袖を掴み、学校から出てしばらく歩く必要があった。
周囲に人気がなくなるまで歩いて行ってから、ユーリは打ち明けた。
「…実は、一昨日、コンラッドがおれんちに来る筈だったんだ」
「なるほど。それで、どうなったんだい?」
「どうもこうもないよ。合コンに行ってる筈の勝利が帰って来て、大変な事になったんだから」
「あちゃー…それは確かに大変だね。渋谷のお兄さんなら、怒るだろうねぇ」
「うん、めちゃくちゃ怒ってたよ」
ユーリは一昨日の騒ぎを思い起こし、げんなりという気分になった。
「お父さんにもバレちゃったのかい?」
「いや、それは大丈夫だった。親父はいなかったし。…まあ、いつかは話さなくちゃいけないんだろうけどさ…」
グラウンドに到着すると、既に草野球チームのメンバーが練習を始めていた。メンバーの中にはまだ野球を始めたばかりの者もいる。そういう者に指導をするのは、監督とコーチを兼任しているユーリの役目だ。
やや急ぎ早に二人はベンチに荷物を置いた。投球練習をしていたメンバーの1人が、ユーリを声高に呼ぶ。
「渋谷ーっ! 早く!」
「今行くって!」
このグラウンドには更衣室などないので、恥を捨てて、屋外で着替える事になっている。まあメンバー全員男だし、このグラウンド周辺は人通りも少ないので、あまり躊躇いはない。
ムラケンがベンチに腰を下ろし、日誌を出して今日の練習の記録をつける。その側でユーリがワイシャツを脱いでアンダーシャツを着ていると、バッターの1人が駆け寄って、こう言った。
「渋谷。何か今日、変な外人のおっさんが見に来てるんだけど」
「『外人のおっさん』?」
ムラケンも顔を上げた。
「ほら、あそこ」
バッターが向いた方向を見ると、確かに、見慣れない男性が鋼鉄製の柵に寄りかかって、グラウンドを眺めている。
「ほんとだ。俺たちの中の誰かの知り合いじゃ…って、そんな訳ないよな」
一体、何なのだろう。
はっきり言って、この草野球チームは非常に地味に活動している。彼らの活動を知っているのは、メンバーの家族や友人、それに他校の野球部・野球同好会ぐらいのものだ。
あの男性は、そういう関係の人なのだろうか。
もし、そうではなくて、不審者だとしたら…その時は監督のユーリの出番である。と言っても、何かこう、体力的に自信がないのだが。
「誰か、あの人に訊いたのか? 『何か用か』って」
「いや。だって俺ら、誰も英会話なんて出来ないし」
「だよなあ。ホンヤクこ○にゃくかNOVAウ○ギでもないと…って…」
何と、ベンチに座っていた筈のムラケンが、いつの間にやら、その外人さんに近寄って行っているではないか。そして、あまつさえ、何やら話までしているではないか。
彼の度胸に、チームの皆が感動した。
「すげー、村田。やっぱ英語で話してんのかな、あれ…」
「多分…流石はムラケン。学年上位の常連なだけはある」
「せっかくムラケンズなんだから、渋谷も行ってみたら?」
「誰かムラケンズだよ。いつの間におれと村田がコンビ組んだって言うんだよ。しかも『ムラケンズ』って名前には、おれの名前がどこにもないじゃん」
ムラケンがものの数分程で戻ってきた時、彼はチームの全員から畏敬の念を持って迎えられた。
「村田、お前ってスゴイな。英語で喋ってたのか?」
ユーリが尋ねた。
「そうだよ」
「解るの?」
「うん。いやー、僕たち、小学生の少年野球チームかと思われてたみたいだよ。高校生です、って僕が答えたら、あの人、驚いてた。アジア人は欧米では若く見られるって、本当なんだねえ」
そう言ってムラケンは笑った。
「あの人、一体なんなの?」
「ちょっと通りがかっただけだって。『キャプテンは誰か』って聞いてたから、君だって言っておいたけど」
ユーリが顔を上げると、男性と視線が合ったので、ユーリは帽子を取って軽く頭を下げた。
必ずしも人間を外見で判断していい訳ではないが、その男性は人畜無害そうに見えた。視力の良いユーリの目には、ごく普通の、その辺にいそうな中年の男性だった。
茶色い髪の色は、染めたものとは明らかに違う。顎が少し黒っぽいのは、いわゆる『午後五時の影』がさしてきている為だろう。わりと頑健そうな体格をしていた。おそらくはユーリの父・勝馬よりも身長が高い。
本当に、普通の男性だった。
ただ一つ…その男性がユーリの方ばかりを見ているらしい、という、不思議な点さえ除けば。



その日、更にもう一つ不思議な事があった。
家族4人が揃った夕食の席で、父親がこんな事を訊いてきたのである。
「ゆーちゃん。今日の野球の練習はどうだった?」
昨日も同じ事を訊いてきた。そういう質問をたまにするのは普通なのだが、二日続けてしてくるのは珍しい。だが質問自体は珍しくないので、ユーリはきちんと答えた。
「うん。まあ、楽しかったよ。今日はどっかの外人さんが見に来てて、落ち着かなかった所もあったけど」
そう言うと、何故か両親はお互いの顔を見合わせた。
「…外人さん? どんな人だったの?」
「どうって、普通の人。ふつーのおじさん。いやあ、今まで外人さんが見に来てるなんて事、なくてさ。どうしたのかなーって思っても、誰も英会話なんか出来ないんだもん。そしたら村田がその人にすーっ、と近づいて行って、英語でペラペラ話しかけてた」
勝利が口を開いた。
「…そいつ、変質者じゃないだろうな? 最近は物騒なんだぞ」
「うん。でも、その人は何か人畜無害っぽかったし、それに、実際に何にもしなかったし。ただ野球の練習を観ていっただけだった」
勝馬が溜息をついて、ビールを飲んだ。それから言った。
「…ゆーちゃん」
「ん?」
「お父さんから大事な話がある」
「はあ…」
何やら深刻な顔つきなのは父だけでなく、母もだ。勝利だけは『大事な話』の内容に心当たりが全くなかったので、箸を止めて、父と弟の会話を見守った。
「…一体、何?」
「実はなー…この間、ゆーちゃんの名付け親さんの話をしただろう?」
「うん」
ユーリは頷いた。
「しょーちゃんも知ってるよな?」
「ああ。昔っから、おふくろが散々言ってたから」
「うん。その人、アメリカに住んでる人なんだが、今、こっちに来てるんだよ。ちょっとの間だけだけど」
「ふーん…」
兄弟2人の反応は同じだった。
ユーリは特に動揺しなかった。ただ、少しだけ驚いた。
「…ゆーちゃん、その人に会ってみないか?」
「…は?」
「その人の方は、ゆーちゃんがどうしてるか知りたがってるんだよ」
「……って、言われても…」
どっちでもいいなー、というのが、正直な感想だ。ユーリがそう言うと、勝馬は困ったような表情になった。
「親父はその人に会った事があるの?」
「うん」
「その人はおれに会いたいの?」
「多分、そうだと思うんだけどなあ…」
いやに曖昧な表現である。
「何、それ。どういう事? 会えない訳でもあるとか?」
質問したユーリ本人は知らない事だったが、これはかなり鋭い質問だった。うっかり彼が答えに詰まってしまったその時、電話が鳴った。
「はい、渋谷です」
応対に出たのは美子ママだった。
だが、普通に日本語で応対に出たかと思いきや、突然、英語で喋り始めた。そしてメロディボタンを押して、勝馬を呼び、替わらせた。
食卓に戻ってきた彼女に、ユーリが尋ねた。小さい声で。
「何の電話?」
「噂をすれば何とやら、ってね。名付け親さんからよ」
「うちの電話番号知ってんの?」
「ええ」
「どんな声?」
「そうねー…渋くって、ちょっとニヒルで、それでもって、ちょっとセクシーだったわよ」
「はあ…」
…もっと分かりやすい表現をしてくれないだろうか。
一方、父の電話は、それ程長くかからなかった。電話を切って食卓に戻ってきた勝馬に、ユーリが質問した。
「何だったの?」
「まあ…今、ここで話してた事を説明した。そうしたら、ゆーちゃんに会えない理由は自分で説明したいそうだよ」
「説明って…だって、今、電話切っちゃったじゃん」
すると、勝利が厳しいツッコミを入れた。
「電話したって、お前、相手の喋ってる事が分かるのかよ。相手は英語で喋ってるのに」
「う…」
確かにその通りなので、ユーリは言い返せない。ユーリは、家族の中で唯一、英会話がまるでダメなのだ。
「うん。だからなあ、今、手紙を書いてファックスしてくれるってさ」
勝馬がそう言い終わった時、ちょうど電話が鳴った。美子が応対に出てから、ファックスの受信ボタンを押す。
すると、電話機が機械音を立てて、A4サイズの一枚の紙を排出した。床に落ちたそれを、美子が拾って持ってくる。
が、手紙の文面を見るなり、4人は目を点にした。

…何だこりゃ。

その一言で、4人の心境を言い表せる。
ずばり、読めないのだ。
いや、字が汚いのではない。むしろ達筆過ぎるのだ。
手紙は全文に渡って筆記体で書かれている。いやに丁寧なのは、こちらが読みやすい様に気を遣ってくれたからなのだろうが…家庭用ファックスの印刷精度などたかが知れているので、文面が全体的に霞んでしまっている。最後のサインに至っては、全く読めない程だ。
手紙の文中で読める文字といったら、せいぜい、各文頭の大文字だけ。それ意外は、"n"なのか"r"なのか、"g"なのか"p"なのか、さっぱり不明だ。
「…えーと…親父。何て書いてあんの?」
「……さあ…」
勝馬は首を傾げた。
「えっ、親父にも分かんないの!?」
「変わった字体だからなあ…嫁さん、読める?」
「だめ、全然分からないわ。しょーちゃんはどう?」
勝利は首を横に振った。


夕食後、合間におのおの入浴を挟みつつ、家族4人で手紙の解読に取り組んだ。
だが……午後10時までかかっても、結局、殆ど解読する事が出来なかったのである。



翌日……。
「…ふーん、それで朝からそんな事してる訳だ。僕はまた、英語の予習か何かかと思ったよ」
学校に来るなり英和辞典を広げて、何やら手紙に書き込みをしているユーリ。その左隣の席の椅子を持ってきて、ムラケンが座っていた。
ちなみに、ユーリの左隣の席はヴォルフラムの席である。以前の席はユーリの後ろだったのだが、席替えしたのだ。
ヴォルフラムは撮影で学校を休みがちなので、席替えの時にも欠席している事が多い。
だが、彼の席はいつも簡単に決まる。何てことはない、ユーリの前後左右のどれかにすれば良いのだ。ユーリにしてみればとんでもない決め方だが、ヴォルフラム自身もクラスメイト達も、この決め方に全く不満を持っていない。
「うーん、これは…小文字の"o"だよな、どう見ても。って事は、ここは"world"? それも変だよなあ…」
ただでさえ、ユーリの英語の点数は校内平均並のレベルに過ぎないのである。自分より遥かに頭の良い勝利でさえ判読出来なかった代物に挑むとは、自分でもかなり無謀な取り組みだと感じていた。
まだ、クラスメイトの大半は登校していない。クラスの女子が何人か集まって、甲高い声でお喋りしている。その他は、それぞれの机で勉強している者がちらほらいる程度だ。
「渋谷、そこは"r"じゃなくて"u"だよ。"would"」
ムラケンが手紙の一箇所を指さす。
「あー、なるほど!」
最早ここまで来ると、手紙というより、暗号に近い。
「何て書いてあるのか、差出人に訊いた方がいいんじゃないかい?」
「でも…口に出して言いたくないから、手紙にしたのかもしれないし。それに『読めない』って言うのも失礼かなー、って思ってさ」
しかし悲しいかな、現時点で完全に解読出来ているのは、文末の『心を込めて』ぐらいのものである。
ユーリが辞書を引いている間に、ムラケンは手紙を手にとってじっと眺めた。そして不意に声を上げた。
「ああ…渋谷、この手紙を書いた人って、英語圏の人じゃないだろ。しかも、結構歳がいってる人。違う?」
「うん。え、何で解ったんだ?」
「筆記体の書き方が、英語のとはちょっと違ってるんだよ。ラテン筆記体じゃない。だから、渋谷のお父さんやお母さんは読めなかったのかもしれない。この手紙を書いた人は母国語が英語じゃないから、昔は筆記体も違う書き方で書いてたんだと思う。それでも頑張ってラテン筆記体に矯正した様子だけど…やっぱり癖が抜けないんだろうね、ところどころ違ってる」
「ああもう、おれのIQではついて行けない様な話は勘弁してくれよ…で、つまり何なんだ?」
「『これを解読するのは、かなり大変だろう』って事」
自分より遥かに成績のいいムラケンにはっきりそう断言され、ユーリはやや意気消沈した。せめて明後日までには返事をしたいのに、気が遠くなりそうだ。
「…それなら、渋谷、あの人に訊けばいいじゃないか」
「何、コンラッドのこと? 無理。今、会ってないから」
ムラケンが目を丸くした。
「君達、別れたのかい?」
「違う違う。今、あいつの親父さんが来てるから、会いに行けないの」
「…渋谷」
「何?」
ユーリは顔を上げた。
「それで平気なんだ?」
「うん。殆ど毎日、電話してるし」
「君って懐が広いんだねえ。浮気してないか、とか、心配にならないんだ?」
「あいつは浮気しないよ、おれにメロメロだもん。まあ、その理由は永遠の謎だけど…」
ムラケンからどんな言葉を聞いても、ユーリは動揺しなかった。実際、電話の様子でも、コンラッドの言動に怪しげな点は全く感じられない。
…だが、もし自分が電話で『浮気なんかしてないよなー?』と可愛く訊いてみたら、コンラッドはどんな反応を示すだろう? ユーリはそんな想像をしてみた。
コンラッドは何と言うだろう……?

『…ユーリ、俺、何か疑われるような事でもした?』

…。
これ以上ユーリは想像しない事にした。勿論、今の想像を実行する気もない。ちょっとでもコンラッドに浮気疑惑などかけてみようものなら、例えそれが冗談のつもりでした事でも、面倒な事態になりそうだからだ。
コンラッドに想われている、という事実を信じているだけに、先日の勝利とのいざこざの時を思い出すと、ユーリは気持ちがへこんだ。
…どうしてあの時、もっとはっきりとコンラッドを弁護してあげられなかったのだろう。ある意味、彼に恥をかかせたのではないか…とさえ思えてくる。
そこへ、ヴォルフラムが登校してきたので、ムラケンが椅子を元に戻して立ち上がる。
「おはよう、ヴォルフ」
「うん…」
限りなく眠たそうな表情で、ヴォルフラムは自分の席についた。
「大丈夫か?」
「夜行で帰ってきて…寝不足なんら…」
語尾がすっかり不明瞭である。
「お前は何をしているんら、ユーリ?」
「この手紙を解読してんの。お前、読める?」
「手紙…?」
試しに、ユーリはヴォルフラムにその手紙を見せてみた。
ヴォルフラムは半ば瞼の閉じた目でその手紙を見つめた。そして眉を潜め、口元をへの字に引き結んだ。何ともけったいな表情である。
「ヴォルフ、美少年が台無し…あのさ、読めないんならいいよ?」
ヴォルフラムは真っ赤になって、手紙を突き返した。
「ぼくが悪いんじゃないぞ。この手紙を書いたやつが、活字体で書かないからいけないんだからな!」
それから少し考えて、ヴォルフラムは言った。
「兄上なら読めるかもしれないな…」
「グウェンダル! そっか、その手があった!」
何となくグウェンダルなら読めそうな気がする。あくまで何となく、だ。別に根拠はないが、彼は頭が良さそうに見えるし。
はっきり言って、ユーリはかなり行き詰まっているのだ。
「なら、帰りにグウェンダルの所に行ってみるか」
ちょっとだけ、ユーリは希望の光を見た様な気がした。

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夏に冬の話を書いていると、果てしない違和感を感じます。この連載も40話を越えました。これからもご愛顧の程を。