ディモルフォセカをくれた君(42)
…が。
世の中、そんなに甘くはないのだった。
放課後、グウェンダルの診療所を訪ねていったユーリに待ち受けていたものは、『休診日』という無情な札のかかった診療所のドアであった。
念の為にドアを押してもびくともしないし、もちろんノックしても誰も出てこない。休診日でも、グウェンダルが在宅中ならば、急患が来た時の為にドアはいつも開いている。ドアが開かないという事は、つまり、グウェンダルは不在だという事だ。
「留守かあ…」
さようなら、希望の光。こんにちは、おれのささやかな英語スキル。
ユーリはいそいそと自宅に戻り、正攻法で英和辞典を振りかざして手紙と再戦しようとした。
だが、その時、隣のアニシナ宅の車庫のシャッターが開いた。シャッターが開いたところからもわっと熱気が出てくるが、煙たくはなかった。しかし少々焦げ臭い。
そして、そのシャッターをくぐって、ツナギ姿のアニシナが姿を現したのである。何らかの作業をしていたらしく、青いツナギのあちこちが薄汚れていた。頭には、工事現場で溶接作業時にかぶるようなマスクを付けており、それが外れると、あの鮮やかな赤い髪が現れた。
「アニシナさん」
「おや、陛下」
「…その呼び方、誰から聞いたの…ま、まあそれはいいや。久しぶり、アニシナさん。今日は、グウェンダルはいないの?」
「グウェンダルでしたら、今日は講演を聴きに行くとか。帰りは遅くなる様です」
グレタは今日はアニシナが預かっていて、今は昼寝しているのだという。
「そっか…」
「グウェンダルに何か急用でもあるのですか?」
「うん。おれ、実はこの間、英語で書かれた手紙を貰ったんだ。だけど難しいし、字も変わってるもんだから、俺には読めなくてさあ…うちの家族も匙投げちゃった上、村田やヴォルフまでもが読解不能。だけど、グウェンダルなら読めるかなあと思ったんだ。ほら、お医者さんってカルテにさらさらーっと何か書いてるだろ?」
「まあ、確かにあの男は語学に達者な方ですね。よく海外の絵本を読んでは、感動に打ち震えて涙しています」
「そ、そうなんだ…でも、グウェンダルがいないのなら仕方ないや。もう一度自分で頑張ってみるしかないかな」
だが、アニシナは何か妙案を思いついたかのように、ぽんと手を叩いた。
「そういえば、とっておきの装置がありました。様々な言語で書かれた文章を、好きな言語で翻訳してくれる装置です。あいにく、装置の単語辞書に専門用語を登録する時間がなくて、放ったままにしておいたのですが…その手紙が余程専門用語を多用していない限りは、それなりに正確な翻訳が期待出来ると思われますよ」
「ほんと?」
「ええ、早速試してみましょう」
と言って、アニシナはユーリを車庫内へと誘った。
アニシナの作業場と貸している車庫は、薬局と母屋と同じくらいの大きさを占めていた。そこに広がるのはペンチやレンチ、塗料といった日曜大工的なものから、何故か水槽や壊れた洗濯機、古い歯医者の診察台などまでもがある。それらが一体何に使われるのかは、敢えて聞かない事にした。
よく見れば、もっと不思議なものが色々あった。大型犬用の首輪、カラー電球、工事現場用の赤いコーン、白いマスク…。
「って、アニシナさん、あのマスクは何!?_」
ユーリは作業場の一角を指さした。そこには、白く塗られたマスクが5つも6つも並んでいるのだ。一つ一つ微妙にマスクの形状が違うのだが、薄暗い車庫内にそれが幾つも並んでいると不気味な事この上ない。
「ああ、あれは只今開発中の電動居眠り運転防止マスクに使うものです。私は基本的に外観より実用性重視で作っているのですが、販売元の会社からはデザイン面との両立も求められるのですよ。居眠り運転の防止器具に必要なのは何よりも高い防止効果であって、デザインもへったくれもないでしょうに」
「ま、まあね…」
ユーリが立つ場所のすぐ側には作業台があって、その上にファイルが開きっぱなしになっている。ファイルの中身をちらっと見ると、古今東西のマスクの絵や写真でいっぱいだった。おそらくは資料だろう。ファイルの中には能面やらバタフライマスクやらタキ○ード仮面風マスク、果てはジェ○ソンやレ○ター博士の仮面まである。それらはまだいいのだが、獅子舞は仮面には分類されないと思うのだが。
「そういえば、アニシナさんってどんな仕事をしてるの?」
「私の仕事ですか? 私の仕事はは個人的発明を企業に売る事と、この【女王様の着想】薬局の経営です。あとは、グウェンダルの診療所の薬の処方もしていますよ」
「そうなんだ…」
あくまで推測だが、おそらく、薬局の方の客は滅多に来ないだろう。
「これが翻訳機です」
そう言ってアニシナが引っ張り出してきたのは、どう見ても只のコピー機だった。その辺のコンビニに置いてありそうな。
「古い印刷機を改造したものです。…っと」
そう言いながら、アニシナは何故か消火器を持ってきた。消火器、である。
「なに、その消火器は…」
「前にテストした時、1/10の確率でトナーが燃焼して発火した事があったのです。それから放熱機構を改良ましたし、壁から離して使う事で発火は防げる筈なのですが、万が一という事もありますからね」
そう言ってアニシナは引火性の物を別室に退け、部屋を換気した。それからユーリに防護マスクと軍手を渡し、自分もそれらを身に着けた。
「では陛下、翻訳する原本を私に」
「えーっと…はい、これ」
アニシナは翻訳機の蓋を持ち上げ、そこにそっと例の手紙を置いた。
「この手紙は英語の様ですね。では、英語を日本語に翻訳するという事で…セット完了」
「なんか、ものものしいな…」
気分は消火訓練である。
「では、印刷開始!」
スイッチオン。


ちゅどーん。





その夜の渋谷家の夕食は、ぶり大根・きんぴらごぼう・味噌汁というメニュー構成だった。それに貰い物の柿があるので、それを食後のデザート代わりに付ける事に決定する。
…それにしても。
「ねえ、しょーちゃん。ゆーちゃんはまだ帰らないの?」
「ああ、そうみたいだな…今日は野球の練習、ないんだろ?」
「その筈なのよねえ。もう、どこで何やってるのかしら…」
勝利の視線は手元の新聞から、テレビの左隅に映る時計へと移動する。午後6時過ぎ。もうとっくに帰宅していてもいい筈なのに、弟は未だに帰らない。
「…あいつの所に寄り道してるんじゃないか?」
あいつ、というのが誰かは言うまでもない。
「でも、それなら遅くなる場合は連絡してくれると思うのよ。ゆーちゃん本人でも、コンラッドさんでも」
「どうかな」
勝利は未だにコンラッドを信用していなかった。
可愛い可愛い可愛い(以下三十回繰り返す)弟をたぶらかす胡散臭い男。あれから勝利は新聞・雑誌・インターネット等から、コンラートに関する情報を収集しまくった。実力と人気を兼ね備えたレーサーで、各地の大会で好成績を収めているという。ここ一、二年は振るわなかったようであわやチーム解雇かと言われていたがが、最近調子を取り戻してきたらしい。この間のラリーで優勝したことにより、彼のファンサイトでは賞賛の声が多数見られた。
百歩譲って、仕事についている、という部分は褒めよう。危険な仕事でなければもっといいのだが、まあいい。
だが、多くの女性ファンがついているというところが、何だか浮ついていそうで気に入らない。
そもそも、あんなモテ系好青年のテンプレートみたいな男が同じ男、しかもそこら辺の平凡な野球小僧Aに過ぎないゆーちゃんに本気で惚れているという点が、限りなく嘘くさいのだ。どっかのBL小説じゃあるまいし。
…勝利がふつふつと弟の恋人に対する怒りをたぎらせていると、玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
「ゆーちゃんっ? お帰りなさい、遅かったわね」
美子はパタパタとスリッパを履いた足で廊下へ出て行った。そして、
「まあ、ゆーちゃん! 何なのその格好は!?」
と、驚愕の声を上げた。
何事かと勝利が見に行ってみると…玄関口に立っていた弟は、全身から煙たい臭いを発散させていた。しかも頬に煤がこびりついている。学ランの布地が黒いから目立たないのだろうが、おそらく学ランにも煤が付いている筈だ。
「いやー…ちょっと、その、火事場の近くを通っちゃって…ごめん、おふくろ! 制服汚してしまいました!」
ユーリはそう言って深々と頭を下げた。ちょっとシャレにならないくらい汚してしまったと、自分で痛切に感じていたからだ。
「…っ……あ〜…もう、しょうがないわね。今度から気を付けるのよ。洗面所で制服脱いで、ご飯の前にお風呂入っちゃいなさい」
すごすごと洗面所に向かうと、そこでユーリは制服を脱いだ。
「今年入学したばっかりなのに、これで制服汚したの三度目じゃない。制服は大事に着なきゃ駄目よ。三年間、殆ど毎日お世話になるんですからねっ」
「反省してます…」
「あら、靴下も随分汚れたのね。こっちは穴があきかけてるから、捨てましょう。…この匂い、取れるかしら…」
「…おふくろ…制服、明日まで乾く?」
「乾燥機にかければ、なんとか今夜中に乾かして、アイロンもかけられると思うわ。制服のポケットには何も入ってないわね?」
「待った、今確かめるから」
ユーリは制服のポケットを探った。特に何もないかと思われたが、胸ポケットから折りたたまれた紙が出てきた。
「あっ…そうだ、おふくろ…」
「なに?」
「…ん、いいや。親父まだ帰ってきてないんだろ? 帰ってきて、みんな揃ったら話すよ」



…今度は何をしでかした。
それが、グウェンダルが帰宅してからアニシナに向けて放った第一声であった。
「例の翻訳機を陛下の為に使ったのですが、スイッチを入れた途端、何故か制作中だった炭焼き機の方が動いてしまいまして」
アニシナはそう言いながら、黙々とガレージの掃除を続けていた。何だか、そこら中がひどい有様である。壁は煤塗れで、床は水びたし。しかも何故か硫黄臭い。
「…火事でもあったのか?」
「火事という程ではありません。少し火が出ましたが、すぐに消し止められました。まあ他にも色々とありましたが、グレタに怪我はないので安心なさい。あの子なら今は奥で、夕食を取らせています。さ、いい子で留守番していたのですから、早く行っておあげなさい」
そう言うと、アニシナはいそいそとモップで床を拭き始めた。
「アニシナ」
「なんです?」
「お前に怪我はないのか?」
「ええ」
「そうか…ならいい。無事で何よりだ」
グウェンダルはほっと安堵の息をついた。そして次の瞬間、顔面蒼白になった。
ガレージに置いてあったクマさん柄のブリキ製ゴミ箱ががひしゃげ、塗装がところどころはがれた状態で転がっていたのである。
そのあまりに哀愁漂う姿に、可愛いもの好きなグウェンダルは心が壊れそうになったのだった。

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久々の更新になりました。話がなかなか進まなくて申し訳ありません。さっさと次男に冬を越えさせてやりたいもんです。クリスマス書きたいな。