放物線を描いて、白い硬球が飛ぶ。
するするっと空を切って、それはユーリのグローブに収まった。
「コンラッドー、それ、使い心地はどうー?」
「いいよー」
2人の間は距離が空いている為、会話は自然、声を大きくして行われる。
真夏の午前に河川敷のグラウンドまで赴いてキャッチボールをしているのは、ユーリとコンラッドだけだった。ぎーこぎーこと自転車を漕いだ中年男性がグラウンド脇を通り過ぎていくが、殆ど人通りはない。
コンラッドが使用しているのは、ユーリの草野球チームの備品(と言う名の、メンバーのお古)の一つだ。
2人でキャッチボールをするのは今日が初めてだったが、お世辞にもコンラッドの投球は上手ではなかった。だが、飲み込みの早い事に、すぐに彼は投げ方を覚えていった。
「コンラッド、初めて野球をやったのって、いつー?」
「6歳、だったかな。リトルリーグに入ってた」
「へえ」
それならもう少し上手くても良さそうなものだが。
「最も、半年ぐらいで辞めたけどね」
「何で?」
「7歳の時に父親が刑務所に入って、それからしばらくの間は、俺は、母上の実家のお世話になってたから」
ユーリがボールを受け取り損ねた。日差しの眩しさで目が眩んだから、というだけではなかった。
ボールがグローブから落ち、地面を転がって2人の間ぐらいまで行き着く。
「びっくりさせたかな?」
コンラッドはそれを拾いに歩いていった。
「俺の家の近所に引っ越してきた一家のご主人が黒人でね。ところが、すぐ近くに元KKKのメンバーが住んでて、ある夜に諍いになったんだ」
コンラッドの笑顔が薄くなった。
「その音に気づいた俺の父親が出て行って、止めに入ったんだけれど、誤って白人の方を殺してしまってね…」
「…正当防衛とかは、認められなかったのか?」
コンラッドは首を横に振った。
「普通ならあっさり認められたんだろうけどね。最も、第3級殺人で済んだだけ、まだマシな方だったと思うな」
それに世論の変化に伴って、再審で正当防衛が成立したのだから。
最も、本当に過剰防衛だったのかもしれない。家の中からちらっと見ただけだったコンラッドには、現実にはどうだったのかは解らないままだ。父はその事については自分から語る事はないし、彼もまた、尋ねる気はない。今までも、これからも。
ついこの間までは、遺族が起こした訴訟で色々と大変だったが、それもようやく弁護士の仲介で訴訟取り下げとなった。
拾い上げたボールをコンラッドは投げ、キャッチボールを再開した。
「…イジメとか、なかった?」
「あっちの学校に戻った後は、それなりにね。フロリダに引っ越してそっちのハイスクールに通うまでは、ヨザックとセットで色々やられたなあ」
「え、ヨザックも?」
「あいつは孤児院出身だから、その関係でね」
それまでは自分が彼を庇う役回りだったのが、いつの間にやら一緒に苛められる役回りになってしまっていた。大人しく黙ってやられている期間は短かったが、おかげでそれ以来、他人の敵意には敏感に気づくようになった。喧嘩にも慣れたし。
「おれはイジメには無縁だったなあ。あ、でも中学校の時に一時期オカマ呼ばわりされたっけ」
「何で?」
「修学旅行で1人だけ、女湯を覗きに行かなかったから」
コンラッドが笑い声を立てたので、ユーリが顔を赤くする。
「何だよ、そんなに笑う事かよ。女子に誤解されたりして大変だったんだぞ」
「ごめんごめん」
ユーリが力を入れてボールを投げ返し、一息ついた。
それを見て、コンラッドが時刻を確認する。
「そろそろお昼にしようか?」
「んー…そうしよっか」
ユーリの時計は既に1時を差していた。
昼食を外で済ませると、コンラッドは当然のようにユーリを自宅に連れてきた。ユーリも当然のようについて来た。
「あっつー…」
閉めきった室内はむわっと熱気が詰まっている感じで、ドアを開けるなり襲いかかってくる。
速攻でコンラッドはエアコンを点けた。ユーリが来るようになって以来、以前より設定温度が高めになったが、少しの温度差はあまり気にならなかった。
「2人でシャワー、浴びようか」
するとユーリがじっとコンラッドを凝視した。しかし、コンラッドの提案が嫌でない事は、やけに紅潮した頬や恥ずかしそうに噤まれた唇で解る。
「いや?」
それでも敢えてコンラッドは尋ねてきたが、ユーリは知っていた。コンラッドのこういう『いや?』は、反語の意味合いを含んでいる事を。
返答する代わりに、ユーリは汗だくの青いTシャツを脱いだ。
…で、ユーリはベッドから起き上がれなくなったのだった。
腰の鈍痛がひどくて、寝返りをうつのも嫌になる。自分では頑健な体質だと思っていたのだが、今日は風呂場でといい、その後といい、些かがっつき過ぎたらしい。
「大丈夫?」
コンラッドの方はどうかと言うと、ユーリと違ってけろりとした顔で家の中を歩き回っており、ユーリの身体を拭いたタオルを洗面所に置いてきた後、戻ってきた。
そして心配そうにユーリの顔を覗き込みながら、ベッドに座ろうとする。身体が少し沈み、ユーリの腰はにわかに痛んだ。
「…あのさあ、コンラッド」
「何?」
「洗面所の鏡の上に飾ってあったのって、あれ、アヒルだよな?」
身体の部位のバランスからみてアヒルだろう。ヒヨコではなく。
「そうだよ」
「あれは何なの?」
独身の若い男性の家にアヒルとは、どうにもそぐわない。
これがヴォルフラムだったら、アヒルと一緒に風呂に入っている姿が容易に想像出来るのだが。
「小さい頃に人から貰ったんだ。…何だか捨てられなくて、不思議としまっておく事も出来なくてね」
「ふーん…」
コンラッドは懐かしい記憶を回想しながら、ユーリの髪を撫でた。
…ちょうどこんな色だった。
もう、年を重ねる毎に、記憶の光景はおぼろげになっているが。
「それとさ…もう1つ訊くけど…おれ、上手くなってる? それとも、まだ下手かな」
すると、何故かコンラッドの長い沈黙が続いた。
「……ユーリ。ひょっとして、俺、下手だった?」
ユーリの反応からみても結構自信があったのだが、そういう事を尋ねてくるのは、まさか、あまり気持ちよくなかったという意味なのだろうか。
「いや、あんたは上手いよ。でもおれは、キス1つとってもまだまだ駄目じゃん。それって、あんたに対して悪いと思うんだよ。おればっかりいい思いしてるみたいでさ」
ど、どこがだ!?
コンラッドは喫驚した。彼の方こそ、常々ユーリにより大きい負担をかけてしまっている事を思い悩んでいたのに。
「俺の方こそ、貴方に負担をかけてるような…」
今日は特に。
「ああ、こんなの平気だって。まあ…少しは手加減して欲しいけどさ」
「自重します」
「よろしく。でさ、どうなの?」
「…ちゃんと上手くなってるよ」
「そっか…なら良かった。なあ、ちょっとの間だけ寝ていい?」
そしてコンラッドが頷いたのを見ると、5時になったら起こしてくれ、と言って、ユーリが枕をたぐり寄せた。そして頭をそれに載せて、うつ伏せのまま、すぐに眠りに落ちていく。
その寝顔は約一時間の間、コンラッドを飽きさせなかった。次第に微睡んでいく意識の中で、時間が進まなければ良いと思う。
眠さが強くなってきたので、コンラッドは時計のアラームをセットすると、ユーリの隣で静かに目を閉じた。
うあー………腰が痛い。
ユーリの顔にはもろにそう出ていた。
しかし、車が使えない事をコンラッドが謝ると、ユーリは苦痛を耐える顔から笑顔になって、
「いいよ、修理中なら仕方ないって」
と言った。確かに修理中なのだが、例え点検から戻って来ていたとしても、コンラッドはしばらく自分の車を使わないつもりでいた。それが『念の為に』という、オーナーからの指示だった。
彼が今着用しているチームロゴの入った黒い帽子は、あくまで人目を避ける為のものにしか過ぎない。ユーリと一緒にいる時に、他人が寄って来ないようにする為の防止策だ。
地下鉄のホームはご帰宅ラッシュの時間帯だけあって、サラリーマンやら学生やらで結構混み合っている。はぐれないようにとコンラッドはユーリの手を握ったが、ユーリに言われて腕の方を掴んだ。案外、誰も見ていないと思うのだが。
2人並んでホームの一番前に立つ。後は電車の到着を待つだけなので、コンラッドはユーリの左腕を放した。ユーリは左腕が自由になった所で早速、腕時計で時刻を確認しようとしたが、その時、電車が駅に入る事を知らせる放送がかかった。
「あ、来た」
電車が姿を現す左方向に目を向けた2人は、背後に近寄る1つの手に気づかなかった。
混雑を利用して人目を避けるその手は、上に上がり、ますますコンラッドの背中に伸びていく。
指先が10センチ程の距離にまで届いた時、その手は隣の隣にいた大荷物の利用客が蹌踉めいた事で、右にずれ、そして、ユーリの背中を前へと強く押しやった。
ユーリの視界には、まるでスローモーションで見ているかのように、黒ずんだ枕木とレールが近づいてくる。
全体重を受けて、腕がそこに当たる。
そして、無機的で鮮烈な電車のライトが、線路に落下したユーリの目に刺さった。
次へ(性描写含む)
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ディモルフォセカをくれた君(27)
ダン様の扱いをどうするか、散々悩んだ末にこうなりました。
次のお話は、マンションに来てから駅に行くまでの間にあったエピソードです。例によって怪しげなので、すっ飛ばしたい方はすっ飛ばして第29話をお読み下さい。
と言うか…この切れ方だとむしろ、29話の方が気になるでしょうね…。
次のお話は、マンションに来てから駅に行くまでの間にあったエピソードです。例によって怪しげなので、すっ飛ばしたい方はすっ飛ばして第29話をお読み下さい。
と言うか…この切れ方だとむしろ、29話の方が気になるでしょうね…。