最初は事態に気づかなかった。
コンラッドの視界の左に、傍にあった筈の青いユーリの背中が入り込む。
手足が冷めた。
自分の身体の均衡を介さずに伸ばした手は、コンラッドの腕を近くの何処ぞの誰かが側から掴んだ為に、寸前で届かなかった。
誰かが、線路に飛び降りてユーリの背中に駆け寄ったが、その直後に電車の車両がホームにいた乗客の視界を埋めて、一切見えなくなった。
何か叫んだ気がしたが、コンラッドは何と言ったのか全く覚えていない。おそらくユーリの名前を叫んだのだろうが。
急ブレーキのかかった電車の車両にぶつかりそうな程に手を伸ばした彼を、周囲の乗客は一苦労かけて制止しなければならなかった。
電車が完全に停止するのには、それ程時間はかからなかった。
甲高いブレーキ音が静まるにつれ、周囲の鯨波のような声がはっきりとしてくる。
真っ青な表情で駆けつけてきた駅員2人が、白線を乗り越えて線路に押し寄せてくる人々を、両手を広げて後ろに下げようとする。それを押し退けてコンラッドは前に出た。
名前を呼んだら当然のように返事が返る。
そんな気がした。
そうであったらいいと思った。そうであってくれと。
けれども、乾いて生気を失いかけた自分の唇は微動だにしない。目の前の薄汚れた車両と同じように。
名前を呼んだら当然のように返事が返る。
そうであってくれと願った。
だから、脇から誰かがかけた呼びかけに対して投げかけられた、
「あー、大丈夫ですー!」
その声は、何より貴かった。
電車がゆっくりと後ろに移動した後、その陰からユーリの姿が現れた。ホーム下に設けられた退避スペースから這い出てきて立ち上がった様子は何ら変わりなく、ホームにいた衆人から安堵の声が口々に洩れる。
駅員が線路に降りるのと大体同時に、コンラッドも線路に飛び降りてユーリに駆け寄った。少し頼りない足取りだった。
「ユーリ…怪我は…?」
そう問いかけるコンラッドの顔色の、そのあまりの悪さに、ユーリの方が驚いてしまった。
「ないよ、大丈夫」
そう応えると真っ青な顔色に幾分か生気が戻った。
だが両手を伸ばして肩を抱こうとするのは、場所が場所なだけにユーリとしては勘弁してほしかったので、
「ストップストップ、本当に大丈夫だから。な?」
と言って、コンラッドを押し止めた。公衆の面前でいかにもな雰囲気を醸し出すのはまずい。かなり。
奇妙な事に、轢かれかけたユーリの方が冷静な頭をしていた。
「大丈夫ですか?」
駅員の1人が声をかける。
「あ、はい。落ちた時に肩ぶつけたくらいで…あ、そうだ」
ユーリは、線路に転落した自分を助けてくれた人に、礼を言っていなかった事を思い出した。その人物は男性であった。上背があった為、ユーリと2人で広いとは言い難い退避スペースに潜り込んだ時、男性は頭をぶつけた様だった。だが立ち上がって衣服を払っている様子から見ても、怪我は無さそうだ。
「そちらは大丈夫ですか?」
駅員がその男性にも声をかける。
「いや、私は何ともないが、彼の方は……」
と言って、その男性はユーリに視線を投げかける。白髪が交じっているのか、元々そういう色なのか、暗いホームでは容易に判別が付かないが、男性は灰色の髪をしていた。落ち着いた声は何処か疲れていたし、面相もやつれているが、おそらく実年齢は外見年齢より若いだろう。
だがそれよりも男性の容姿でまず目立つのは、左目にあてた眼帯だった。
誰かに似てるような…ユーリはそう思った。既視感というやつだ。
「おれは全然。おかげで何ともないです。ありがとうございました」
「危なかったな、今度からは気をつける事だ」
男性が薄く微笑んで、瞳が柔らかくなる。
だが、その表情が忽然と凍り付いた。
「? どうかしたんですか?」
男性の視線の焦点はユーリに合っていなかった。
「あの…」
ユーリが全て言い終わらないうちに、男性はだっと素早く身を翻してホームに駆け上がる。
驚きのあまり、衆人も駅員もユーリも、一瞬目を疑った。
「えっ…ちょっと!?」
その場にいた人々の中で、コンラッドが一番行動が迅速だった。男性の背中を追って踏み出す。
「待っ…!」
途切れた制止にも応じず、男性は人混みを強引に押し退けて、素早く階段を駆け上がっていった。
「待て、ゲーゲンヒューバー! おい!」
コンラッドはホームに上がらず、そう叫ぶのみだった。ユーリを置いて、男性を追いかける事が出来なかった。
「…ゲーゲンヒューバー?」
ユーリの脳内エンサイクロペディアの中に、最近新しく入ったばかりの固有名詞。
ゲーゲンヒューバー…確か、記憶に間違いがなければ、それはニコラの恋人であり、グウェンダルの従兄弟でもある男性の名前だ。
「…えっ? って事は、あの人、グウェンダルの従兄弟!?」
ヴォルフラムとコンラッドが兄弟と聞いた時とは正反対の感想を、ユーリは抱いた。
…そうだ、あの男性はグウェンダルに何処か似ていたのだ、と。
しかし…そうなると疑問が湧く。あの様子だとコンラッドはゲーゲンヒューバーと明らかに知り合いだ。だが、こんな所で偶然にも遭遇したとはいえ、何も逃げる事はないだろう、と。
…何であの人、コンラッドに気づくなり走って行っちゃったんだろう?
電車の遅れという影響はあったが、死傷者が全くなかった為に、それほどの騒ぎにはならなかった。
一応後日上に事故を報告しなくてはならないのでと、ユーリは連絡先を訊かれたが、それが終わるとすぐにコンラッドと2人で駅を出る事が出来た。
「ごめん、遅くなっちゃったな」
腕時計は既に6時半。外も薄暗い。
駅を出てからも、コンラッドはずっと無表情で一言も口をきかなかった。何か考え込んでいるようだったが、雰囲気が何処か暗くて、ユーリは傍にいて何とも言えない気持ちになる。お互いに黙ったまま、渋谷家への道を歩いた。
「…なあ…コンラッド、どうしたの? 元気出せよ、何ともなかったんだからさ」
ユーリの身体には先刻の事故に対する、何の恐怖も残っていなかった。危機一髪だった筈なのに、実感があまりない。もっと自分の不注意に反省するべきなのだろうが。
「……ユーリ」
「何?」
「さっき、駅員や警察には『誤って落ちた』って言っていたけれど…」
「うん。……でも…本当はさ、あんまり良く思い出せないんだけど、誰かに背中を押された気もするんだよ」
コンラッドの顔色が変わった。
「でも、はっきりとは覚えてないし、突き落とされる心当たり自体ないし、気のせいだと思うよ」
「…」
「それよりさ、あのゲーゲンヒューバーって人…何でいきなり逃げてったんだろ?」
「…」
コンラッドは久しく見掛けていなかったゲーゲンヒューバーの事などそっちのけで、別の事を考えていた。
それをユーリも見抜いて、道端で立ち止まって彼に詰め寄る。
「本当にどうしたんだよ、コンラッド。なあ、何考え込んでるんだ?」
「…それは…」
言い淀むコンラッドを見ていて、さっとユーリの脳裏に直感による考えが閃く。
「何かあったのか? ひょっとして、線路に突き落とされるような心当たりがあるのか?」
どうなんだ、と、ユーリはコンラッドの腕を掴んで詰問した。
…こうなった以上、もう、黙っているべきではないだろうな。
「歩きながら話そう」
コンラッドはユーリの目を見て、そう言った。
「…心配かけたくなくて、黙っていたけれど…最近、仕事絡みのトラブルで、ずっと脅迫されてるんだ」
「脅迫…って…何で?」
「秋の予選への俺の出場を妨害する為、だと思う。電話や手紙といった嫌がらせ程度のものばかりだったのが、ここ最近エスカレートしてきていたけれど…まさか、貴方に手を出すとは思わなくて」
コンラッドはごめん、と口にした。叔父の言っていたように、もっと警戒するべきだった。
「いいよ、別に」
ユーリは全く先刻の事故の事は気にしていなかった。
むしろ、コンラッドがそんな目に遭っている事に全く気づかなかった事に愕然とした。
コンラッドが、隠すのが上手いだけかもしれない。けれども、自分もきっと鈍かった。
心配をかけたくなかったという理由を頭で理解する一方、何も打ち明けてくれなかった事に対する恨めしさも否定出来ない。
「………なあ、コンラッド。その予選っていつ?」
「9月の下旬だよ」
「それで、今年は最後?」
「そう」
「じゃあ、その脅迫も、予選が終われば止むよな。きっと」
「多分ね」
それまで自分が採るべき選択を、漠然とコンラッドは感じ取っていた。だがその選択は残酷な側面を持っているがゆえに、彼を躊躇させる。
ユーリもそれは同じだった。
「…コンラッド」
だから、自分から言い出した。
「それまでは…おれたち、会わない方がいいんじゃないかな」
自分で言い出しておきながら、言った途端にユーリに辛さがのしかかった。だが、それを押し退けるように続ける。
「おれとあんたの関係について脅迫されるようになったらマズイだろ? そういう事のない様にさ…それで、あんたはツェリ様んトコにお世話になったら? ほら、あの家すっげー警備がしっかりしてるだろ? だから、一人暮らしするより絶対安全だって」
「…」
「…なあ、おれの言ってる事、おかしいかな?」
ユーリの言葉の正しさを受け入れるのは容易ではなかった。
確かにそれが必要な行動だと解っていても、不安がまとわりつく………それをきっかけに、ユーリの心が自分から離れていってしまうのではないか、という不安だ。
けれども、その不安と、ユーリの身が危険に晒される苦痛とを秤にかければ、どちらが重いかは明瞭だった。
ユーリを失いかけた時、ただただ、怖かった。自分自身の命を失いかけた時よりも恐ろしかった。
…もう、二度と失いたくなかった。
ユーリの家に到着した。
「送ってくれてありがとな」
今日残っている分の活力を使い切ってもいい位の気持ちで、ユーリは笑顔を浮かべた。
たった2ヶ月だ。一生会えない訳でもなければ、長期間何処か遠くに行ってしまう訳でもない。
帰宅時間で近所も目もあったが、別れ際に一度キスしたいと心の何処かで思ったが、そんなユーリの希望は実現され得なかった。と言うより、それで良かった。
向かい合うコンラッドの背中の向こうに、こちらへ歩いてくる父・勝馬がいたのだ。危ない所だった。危うくとんでもない現場を見られてしまう所だった。
「おっ、ゆーちゃん! 今帰ったのか?」
コンラッドがそれに気づいて振り返り、勝馬と視線を合わせる。好青年スマイルで頭を下げ、挨拶した。
「こんばんは」
「あ、どうも、こんばんは」
コンラッドがユーリの父親と会うのは、これが初めてだった。何処かで会ったような気がしたが、何処にでもいそうと言えばいそうな顔だったので、気のせいで片付けてしまう。
「じゃ、ユーリ。俺はこれで」
「うん、気をつけてな」
帽子を被り直し、踵を返してコンラッドが帰っていく。
その背中が曲がり角に消えるまでずっと、ユーリはその場に佇んでいた。明らかに切ない気分だった。
…が、同じ事を父親もしているのに気づいて、ユーリは怪訝そうな表情になる。
「…親父? どうかした?」
「…いやー…なーんかあの人、どっかで見た事あるような気がするんだよなぁ…ゆーちゃんのお友達か?」
ユーリは頷く。
コンラッドの顔を見た事があるとしたら、何らかのマスメディアを介して見たのだろう。その位に考えてあまり気にせず、ユーリは夕食の匂いに引き寄せられて小走りに自宅へ入った。
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ディモルフォセカをくれた君(29)
…「次男はゆーちゃんを助けるよね!?」というお声を下さった方々へ…すいませんっ、助けませんでした(平謝り)! 一言フォーム君でそういう感想を下さる方々がいらして、内心『…すいません…助けないです…』と、良心がズキズキと痛んだものです。