ユーリは学校から帰宅すると、手洗い・うがいを済ませて自分の部屋へと行った。
夏休み明け早々行われた高校生活初の実力テストは、惨々たる結果だった。数学に至っては、定期考査なら赤点モノの点数だ。
その原因は決して、あれから一ヶ月間、コンラッドと会う事がなかった事ではない。夏休み中は野球の練習に気合いが入っていたと自分でも思うし、現に、周囲に元気がない等と言われた事もなかった。
電話ではユーリもコンラッドもお互いに自分の近況を話すだけの、他愛ないお喋りばかりしている。ユーリは決して深刻に考えない事にしていたし、コンラッドも…声だけでしか判別出来ないが、大体同じ様だった。
「ゆーちゃん」
美子がドアを開けて顔を出した。こういう時、思春期の子供の部屋をあまり開けないで欲しいと思う。
「何?」
「今日は実力テストの結果が返って来たんでしょ? どうだった? やっぱり難しかった?」
「うん、まあね」
美子ママは昔からあまり学校の成績についてとやかく言う質ではないので、ユーリも彼女の反応を気にする事なく、テストの解答用紙を手渡す事が出来る。あまり、見られたものではないが。
「あら、化学は結構いいんじゃない?」
いいとは言っても、平均点より少し上なだけだが。
「村田に訊いたおかげだよ」
ちなみに、ムラケンの点数がテストの科目全てにおいてユーリを上回っていたのは、言うまでもない。
ヴォルフラムも撮影でやたらと休んでいるのにも関わらず、かなり良い点数だった。
「村田君って言えばねえ…さっき、学校のお友達から電話が来てたわよ。ママの知らない子」
「誰?」
「う゛ぉる…なんとか君、だったかしら? いきなり横文字の名前が出てきたから、覚えられなかったのよね」
「ヴォルフラム?」
ヴォルフラムには自宅の電話番号を教えてあるので、電話をかけてきたとしてもおかしくはない。
「そう、そんな名前。留学生?」
「いや、違うけど…で、あいつが何の用だって?」
「また、かけ直すって」
「ふうん…」
午後4時半過ぎ。
コンラッドはメイドが淹れたコーヒーを口にした。向かいに座っているツェリは、にっこりと色鮮やかな唇に笑みを浮かべて息子を眺めている。
今日のように、彼女とコンラッドがゆっくり話をする時間は貴重だった。お互いの仕事のスケジュールがすれ違いを生んでいるが、コンラッドのみならずグウェンダルもヴォルフラムも、母親に対する愛と母親から向けられる愛をきちんと抱いている。
事情を説明して、母親の実家に移ってから早一ヶ月。こちらに来て以来、例の電話がかかってくる事はなくなった。
「コンラート、今日は郵便物を取りに行ったの?」
「ええ、変なものはありませんでしたよ」
「そう」
郵便物は週に一回マンションまで取りに行っているが、もう、怪しげな封書は即座に廃棄している。それ以外には何も起こっていない。
「そういえば、結局どちらだったの?」
「どうやら、俺を脅しにかかっているのは、【グラン・シマロン】のオーナーの方みたいです」
「スポンサー側ではないのね?」
「ええ、シマロンのスポンサーのベラール氏の、甥の方ですよ」
コンラッドは確信を持って頷いた。外部の者が事情を知っている筈がないから、間違いないと思われる。
初めは【グラン・シマロン】のスポンサー側が自分の心変わりを察して脅しをかけてきたのかと思ったが、そうではなかった。何故かと言うと、彼が予選に出場する事を聞いて、連絡をしてきたからである。
だから…脅迫者をし向けているのはオーナー側の方だ。叔父の運営方針に逆らおうとするあまり、その叔父が引き込もうとしているコンラッドを、潰そうと目論んでいるのだろう。
「あたくしは良く知らないのだけれど、あそこのチームは、オーナーとスポンサーの確執がすごいらしいわね」
「ええ」
叔父と甥の確執は好きにやってくれて構わないのだが、それに自分をを巻き込まないで欲しい。
「スポンサーとオーナーが親類っていう点では、うちと同じなんですけれどね」
チームの運営は、資金を掌握しているスポンサーの意向に実質的に左右される。それは何処のチームでもよくある話だ。そして、大抵はそれを受け入れざるを得ない。
それゆえに、【ルッテンベルク】のように、オーナーがスポンサーの意向を左右出来るチームは稀少だ。最も、それはスポンサーである母・ツェリが、チームの運営に関して全く知識がなく、オーナーである叔父に全てを任せている為だ。
その為にチームの空気は勝つ事を優先させる方向に流れて行き、そしてコンラッドは死にかけた訳だが、それについて母親を責める気持ちは、コンラッドには全くない。ゲーゲンヒューバーの事すら、今はもう許せる。
環境を変えれば、自分も変わる事が出来ると思った。だから【グラン・シマロン】との密談に乗った。
結果、環境を変えなくても彼は変わった。それは彼自身だけでなく、周囲の誰もが認める所だった。
だからチームを移る気をなくしたのだが、その点から、如何に以前の自分は捨て鉢であったか解る。
「とりあえずは10月までの辛抱だと思いますよ。それまでは…母上にもご迷惑をおかけする事になりますが」
「あら、子供に迷惑をかけられる時間は貴重なのよ? だって、母親の知らない間に大人になっていってしまうんだもの」
そう言って、ツェリは片目をつぶってみせた。
「そういえば、ヴォルフ…あの子はまだ勉強しているのかしら?」
「どうやら、欠課補充の課題がごっそりとあるみたいですよ」
「欠課補充…?」
「授業に出ていないが為に不足している出席日数を、課題やら何やらをこなして補うんだそうです」
「まあ、そうなの…6月は撮影が多かったものね」
「どんどん売れてますからね」
コンラッドは、仕事先へ行く際には、ヴォルフラムの車に同乗して送って貰っていた。無論ヴォルフラムは不満たらたらだが、家を出る時間が同じなのだ。帰りは時間が食い違う事が多いので、大抵別々である。だが行きにしろ帰りにしろ、学校前でユーリを見掛けた事はなかった。しかし、電話の向こうのユーリは快活で、あれから危険に遭遇したような事もない様なので、あちらの方はまず安全だと思っていいだろう。
「そう言えば、陛下はお元気なのかしら? あれからお会いしていないけれど」
「ユーリなら元気ですよ。夏休み中は野球に燃えていたみたいです」
「あら…あの方、野球をなさるの? それで最近、ヴォルフが野球に関心を持っているのね」
コンラッドがそれに気づいたのは、こちらに世話になり始めた直後だった。野球に全く興味のない筈のヴォルフラムの机に、硬式野球のルールブックがあったのを目にしたのだ。その時、弟の、ユーリに対する並々ならぬ関心が感じられた。
最近、食事の席でヴォルフラムの話を聞く度、コンラッドは苛々しくて仕方なかった。
夏休み中はそうではなかった。だが夏休みが明けた途端、弟の口から嬉々として語られる話題は、ユーリと昼食のおかずを交換しただとか、体育の時間にボールの投げ方を教わっただとか、ユーリとの学校生活に関する事柄が大半を占めているのだ。
自分がユーリの恋人なのに、今は自分よりヴォルフラムの方がユーリの近くにいる。それは決してヴォルフラムのせいではない。それでも腹が立ってしまうのは、どうしようもないのだ。
その感情がいわゆる『独占欲』というものだと自覚した時は、驚いた。そんな、相手を縛り付けかねないような気持ちを誰に対しても……ジュリアに対してさえも、感じた事がなかったからだ。
…結局、俺はユーリの心を繋ぎ止める自信がないんだ。
こんなに愛しているのに………
「コンラート?」
ツェリが語気を強めてコンラッドを呼ぶ。いきなり彼が上の空になってしまったものだから、心配になってしまった。
「…ねえ、コンラート。貴方は昔から、自分の事は何でも自分1人でそつなくこなせる子だったわ。でも、たまには、あたくしやダンヒーリーに頼ったっていいのよ?」
その、珍しく真っ直ぐな言い方に、コンラッドは一瞬驚いて目を丸くした。
直な言い方をしなければならない程、それ程自分は心配されているのだろうか。周囲を心配させるような顔をしているのだろうか。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。ちょっと考え込んでしまっただけですから」
そう言って笑ってみせたが…内心、やるせなかった。
ドアをノックして、ヴォルフラムが入ってきた。何故かむすっとふて腐れたような表情をしていて、しかも本を手に持っている。いや、本ではない。教科書だ。
それを見て、ヴォルフラムが何をしに来たのか、2人には大体想像がついた。
「母上。お話中の所、申し訳ありませんが、少しコンラートを借りてよろしいですか?」
「ええ、勿論」
するとヴォルフラムはきっ、と、コンラッドを睨んだ。そして言った。
「コンラート、僕に勉強を教えろ!」
やっぱりか。
「ああ…いいぞ、で、何が聞きたいんだ?」
ヴォルフラムが教科書を開いて突き出す。
「そのページの、線を引いてある場所の意味が解らないんだ」
「欠課補充も数が多いと大変そうだなあ…どれどれ」
「3行目からだぞ」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…」
5秒経過。
「…」
「…」
「…」
「…」
「…」
10秒経過。
「…おい、コンラート。どうして黙っているんだ」
ページをじっと凝視したまま、微動だにしないコンラッドを見て、ヴォルフラムは嫌な予感を覚えた。
「…ヴォルフ。これ、日本語か?」
教科書の文字は『古典』。紛れもなく日本の古典文学の筈だ。なのに、どうしてこれ程現代語と違うのだろう? 全く理解出来ない。ギュンターに教わって、日本語は読めるし書けるし話せるようになったのに。
「漢文は日本語じゃなくて中国語だぞ」
「ああそうか、で…『師…白く』?」
「『曰く』だっ! もういい、つまり解らないんだな!?」
コンラッドは頷いた。
アメリカ育ちの彼に訊いた自分が馬鹿だったとしか、ヴォルフラムには言い様がない。どうしてその事に、訊く前に気づかなかったのだろうか。
「悪いな、俺に解る教科を訊いてくれないか?」
「…お前が解る教科は何なんだ」
ぶすっとした表情でヴォルフラムが尋ねる。
「そうだな…物理なら教えられると思う」
「僕はそんなもの、まだ習っていない。1年で勉強しているのは化学だ」
それに、ヴォルフラムは生物を選択するつもりでいた。
「なら、数学はどうだ?」
「数学はぎりぎり補充に引っかかっていないから、課題はない」
「…」
…コンラッドに訊けないとすれば、他の方法を探すしかない。
「解った。もういい…ユーリに電話して訊いてみる」
『…とまあ、それで電話したんだ』
「コンラッドに訊いたって解る訳ないだろー?」
ユーリは受話器を肩に挟みつつ、けらけらと笑いながら手元の教科書を開いた。
「…で、他にはどんな課題があんの? 国語はそれだけ?」
『いや、古文もある。えーと…教科書180ページから187ページの全文訳だ』
「って事は…『若紫』か。げ、敬語ばっかで難しかったんだよな…ここ。お前、ここの授業は全然出てなかったんじゃなかったっけ?」
『ああ……』
受話器の向こうで、ヴォルフラムが疲れたような声を出す。授業に出てさえいれば、彼はユーリに訊かなくても自分1人で課題をこなす事が出来るだろう。しかしそもそも、授業に出ている者は欠課補充に引っかからない。
仕事と学業を両立させるの、大変そうだなー…
おれが、少し位あいつの課題を手伝う事は出来ないかな?
「…なあ、そんなに訊く事沢山あるんだったらさ、明日、おれの家に来れば? 明日は土曜だし、そうすればいちいち電話しなくていいじゃん」
『…いいのか?』
「別に暇だし、野球の練習もないし。それにおれも、英語で訊きたいのがあるんだよ」
勝利に訊く手もあるが、馬鹿にされるのが少し腹立たしい。
「だから一緒に勉強しようぜ」
『なら、そうする事にする』
朝の10時に来る、という事で話をつけて、ユーリは電話を切った。
そして…ごろりとベッドに横になる。
今のが、母親の実家に移ってからのコンラッドの近況を第三者から聞いた、初めての瞬間だった。
彼が今どういった様子でどうしているのか、という事を客観的に聞かされると、何故か急に会いたくなった。
…考えてみたら…最後に逢った時まで、おれとコンラッドって、逢う度にエッチしてばっかりだったよな。
それって、やっぱり問題だよなあ…
そう考えると、これは関係の方向を修正するいい機会かもしれない。
だが…最近、ユーリの情思は辛みを増す一方だった。
コンラッドの事を思い浮かべる時、ついでに彼とのセックスの事まで一緒に思い出してしまうのだ。
そうすると自分の体が悶々としているのを強く感じてしまう。
若さと健全さを理由に自分に弁解しようとしてみたが、結局は自己嫌悪に陥る。
二度、独力でそのやり場のない欲望を晴らそうと試みてみた。だが、逢おうと思えばすぐにも逢えない事のない距離に恋人がいると考えると、切なさで泣けてきてしまって、完全な成功をみる事は出来なかったのだ。
無論…そんな事を、ユーリはコンラッドに言える訳がなかった。
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ディモルフォセカをくれた君(30)