ディモルフォセカをくれた君(31)
7歳の子供が1人で空港まで徒歩で向かう。
大抵の大人はそれを聞けば、何と物騒な事だ、と非難するだろう。
しかし、当時のコンラッドには空港まで同行してくれるような人間はいなかった。空港まで行けば、そこに父の知り合いがわざわざ同行者を寄越してくれている。自宅まで来てくれなかったのは多忙のせいだろう。
淀みない足取りで歩道を歩くコンラッドの背中には、デイバッグが1つ背負われている。彼の荷物はそれだけだった。
母親の元で生活する為に必要な物は既に航空便で送ってあり、他に送るものがあるとしたら、彼自身の身体1つだけ。
それを、海の向こうの日本に運ぶ為に、コンラッドはバス停で立ち止まった。
腕時計を見ると、まだ、バスが来るまで時間がある。
錆び付いたベンチの隅に腰を下ろす。コンラッドの他には誰も座っていない。
つい先程、家の前でヨザックと別れてきたばかりだ。涙を堪えて引き結ばれた唇が戦慄いていた。
最も最近、父と2人でした夕食の時間すらも、ほんの数時間前の事のように思えてならない。
屋外から聞こえる罵るような声を訝しんで出て行った父が、戻って来て警察を呼ぶまでにかかった時間は、5分もなかった。その数分が、父とコンラッドのこれからが決定される為の所要時間だった。
この、父を囚人の身へと追いやる状況を作り出したものとは、一体何なのだろうか…そう、コンラッドは何度も考えた。
結局は、子供の自分にはどうにもならない何かがそうさせたのだ。そう思わせる一種の諦念のようなものが、コンラッドに働きかけてくる。
母親と一緒に暮らすのは嫌ではない。腹違いの兄の事も好きだし、それに、まだ見ぬ腹違いの弟だっている。2歳といえば、可愛い盛りだ。
それでもコンラッドは、日本に行く事に乗り気ではなかった。
ふと見ると、バス停の裏にあるのはファーストフード店だった。昼食をまだ食べていなかった為、ここで済ませてしまおうと思い立って、店に入る。
ものの4分後、再びベンチに戻ってきたコンラッドは、しっかりと昼食を済ませた後だった。
ベンチの様相は4分前と少し異なっていた。つい先程まで彼が座っている席に、子供が1人、ちょこんと腰掛けていた。
まだ2、3歳くらいだ。短い黒い髪を、頭の左右でそれぞれ結んでいる。顔立ちは明らかにアジア系だった。中国か日本か、あの辺りの人種だろう。
しかし服装が妙だった。フリフリの白いエプロンに黒いフレアースカートなのだ。メルヘン風で大変可愛らしいが、しかし流行を完全に無視した格好だ。
いや、服装はこの際問題ではない。いずれにしろ、明らかに単身で出歩くには早すぎる年齢だ。
「どうしたの、1人?」
コンラッドは子供の隣に腰を下ろしてデイバッグを膝に下ろすと、そう尋ねた。
だが、子供は返答しなかった。円らな瞳を見張って小首を傾げるばかりで、何も言わない。

…通じなかったのかな?

アメリカに来てから、やっと日常会話をマスターした所だったので、発音にもようやく自信を持ち始めていた所だったのだが、話すスピードが速すぎたのかもしれない。
コンラッドはもう一度ゆっくりと、簡単な英語で言い直した。
「迷子なの?」
…またしても返答はなし。
どうやら、全く英語が通じないらしい。ダメモトでドイツ語で話しかけてみたが、徒労に終わった。
子供は、黒い双眸でじーっとコンラッドの膝のデイバッグを見つめていた。
「…? …ああ、これ?」
少しファスナーが開いており、そこから中に入っている白い花が覗いている。ガーベラに似ているが、ガーベラよりも茎が細く、花弁が少ない。もし花の中央が黄色かったなら、マーガレットと見間違えそうだ。
「良かったら貰ってくれないかな? 僕は花に興味ないし、持って行っても、飛行機が着く前にしおれちゃうだろうし」
コンラッドはファスナーを全て開いて、中に入れておいた小さな花束を出して、子供に渡した。
するとその子供は大変それが気に入ったらしく、わちゃっと掴むように両手でもって、瞳をきらきらさせてじーっと白い花弁を見つめている。無邪気で愛らしい所作だった。
「友達がくれたんだ。お別れに、って。元気が出る花だなんて言ってたけど、本当かどうか」
通じないと解っていても、敢えて言ってみる。こまっしゃくれた物言いは、不機嫌さから発する物だった。
コンラッドはしばらく沈黙して、その子供が花を弄ぶのを見つめていたが、やがて口を開いた。そして、ゆっくりと言った。
「君の名前は、何て言うの?」
唐突に話しかけられて、子供はぱちくりと目を見開いた。そして、小首を傾げる。
やはり駄目か。諦めて、コンラッドは自分の胸を指さす。
「『コンラート』」
言ってからしまった、と思った。うっかりドイツ語の発音をしてしまった。
「『コンラッド』」
もう一度言い直す。
子供は少し首を傾げてきょとんとしていたが、不意にぱっと顔を輝かせ始め、そしてコンラッドを指さした。
「こんりゃっどー!」
かなり怪しい発音だが、通じたらしかった。
子供は嬉々としてコンラッドを真似て自分の胸を指差し、高らかに言った。
「ゆーちゃん!」
…ユーチャン。
中国とか東南アジアとか、その辺りの名前だろうか?
「あどばんてーじ!」
「…は? え…あ…『頭の回転が悪いお年頃(addle brained age)』?」
一体子供が何と言ったのか、コンラッドにはよく聞き取れなかった。
だが子供の方は、そんな事は気にも留めない風で、花を眺めている。
コンラッドはその中の一本を取って茎を少し手で千切り、子供の髪の左側に挿してやった。左右に髪を結い分けているのだからと、もう一本取って右側にも挿してやろうと思って、茎を千切る。
「…僕はこれから日本に行って、母上の家で暮らすんだ。父上は刑務所に入ってて、いつ出てこられるかは、僕には解らない」
通じる筈のない内容を、通じる筈がないドイツ語でぶつぶつと独りで呟く。
「父上は人を助けようとして人を殺して、そして刑務所送りになったけれど、それなら…あの時、助けに行かない方が良かったのかな…って、僕は、何度か考えたんだ」
花を子供の髪に挿す。
「僕の父上は多分、自分の道を貫いたんだと思う。その為に僕はこうして父上を置いて行かなくちゃならない訳だけれど…本当は行きたくない。仲良くなった子とも、離ればなれになるから」
だから、心の何処かで父を恨む。
そして、そんな自分を自分で嫌う。
子供の自分には結局どうにもならない事なのだ…と、この状況を諦めて受け入れてしまえば、きっと、何もかもが楽になる。
なのに、それが出来ない。こればかりは素直に受け入れたくない。受け入れたくないのに、受け入れざるを得ない。それがとても…悲しかった。
滅入る気分を良くしようとして、コンラッドは頭を上げた。隣の子供の存在を思い出して、そちらを向けば、黒いくりくりした瞳がコンラッドを見つめている。
読めない表情にコンラッドは一瞬戸惑った。
だが、次の瞬間、子供はにこっと笑顔に変わった。それがあまりに唐突で、コンラッドは思わず破顔してしまう。
「君は…何て言うか、呑気だね。こんな所に1人でいて、本当にいいの? 実は迷子なんじゃないの?」
こう…この位の幼い子供だったら、外出先で両親の姿が見えなくなると、不安がって泣き出したりするものではないだろうか。
なのに、この目の前の子供といったら、実ににこにこしており、不安など微塵も感じていないようなのだ。脳天気というべきか、肝が据わっているというべきか。
呆れながらも何処か穏やかな気分になったコンラッドの視界に、路地を走ってくる、これまたアジア系の少年の姿が映った。歳はコンラッドと同じ位で、眼鏡をかけており、何となく賢そうな顔である。走りながら辺りをきょろきょろと見回しているが、ひょっとしなくても、この子の兄弟か何かなのではないか…コンラッドがそう思った時、眼鏡の少年がバス停のベンチに座る2人を見て、
「ゆーちゃん!」
と叫んで駆け寄ってきた。
ああ、やっぱりユーチャンというのは名前なのか…と、コンラッドは納得する。
眼鏡の少年に気づくと、子供の方は何か言った。おそらく、眼鏡の少年の名前だろう。だが何と言ったのか、コンラッドには聞き取れなかった。
「何処に言ってたんだよ、探したんだよ? 勝手に1人で行っちゃ、駄目じゃないか」
眼鏡の少年は何か喋っていたが、生憎コンラッドには聞き取れない。
「…ゆーちゃん? そのお花、どうしたの?」
「もらったの」
子供がぴっ、とコンラートを指さした。その仕草から、花の事を話しているのだという事が、コンラッドには理解出来た。
少年がコンラッドに目を向ける。
そして、コンラッドにも解る英語でこう言った。
「あの、ありがとう。お花」
「別にいいよ。それより、その子は君の家族?」
「うん」
「ここに座ってたよ。見つかって良かったね」
「うん。じゃあ」
少年が子供の手を引いて、連れて行こうとする。おそらく、この少年が兄なのだろう。
だがその前に何かを思い出したらしく、少年は二言三言子供に何か言った。すると、子供の方はてててっと座ったままのコンラッドの足元に寄って来て、こう言った。
「さんくす!」
発音がかなり怪しかったが、コンラッドにきちんと通じた。
「どういたしまして」
穏和に微笑んでそう返す。
すると、子供はごそごそっとポケットから何かを取り出して、コンラッドに差し出した。
水に浮かべる黄色いアヒルのおもちゃだった。
「くれるの?」
その問いかけに対し、子供は頷く。
「ありがとう」
コンラッドは礼を言ってそれを受け取った。
去り際に「ばいばい」と言い残して、そのまま、その子供は連れられて行った。

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以上、いきなり何の前触れもなく挿入された外伝のような過去話でした。他に入れるタイミングが無かったんです…。
とりあえず、小さいしょーちゃんを書くのが楽しかったですvv