ディモルフォセカをくれた君(32)
グウェンダルがアニシナの魔の手から解放されて屋外へと出てこられたのは、午後4時を少し過ぎた頃だった。冷や汗の浮かぶ額が、夕方の秋の空気でひやりとする。
「ああ、お待ちなさいグウェンダル」
アニシナが次いで出てきた。いつもながら異様な出で立ちで。
白衣姿と頭に被った黄色い『安全第一』のヘルメット。その上右手に持っているのがフラスコでもなく工具でもなく何故か造花なのだから、近所の住人はアニシナを異様な目で見ながら通り過ぎていく。
「これを貴方の診療所の受付にでも飾っておきなさい」
「これは何だ?」
どう見ても、ただのデイジーの造花。
だが、アニシナの作った物だ。何かあるに違いない。実は防虫剤だとかマイナスイオンを出すだとか、色が変わると危険だとか。
「私の発明した電動消臭器です」
「…いつも思うのだが…何処に電池が入っているんだ…?」
どう見ても只の造花である。それ以上でもそれ以下でもない。
何にせよ妙な仕掛けはなさそうなので、飾ってもいいだろうとグウェンダルは判断した。
「ただの消臭器なのだな?」
それでも一応念を押すと、アニシナが頷いたので、グウェンダルは安心して診療所に戻る。
受付に飾られているピカ○ュウの手に、その造花を挿して飾った。
「電源を入れないと動きませんよ」
ついて来たアニシナが、グウェンダルの脇からにゅっと手を伸ばし、花の裏に触れる。
「消費電力を減らす事を第一に構造を考えたのですが、どうしても構造上の理由から、妙な音が出てしまいますからね」
「…何?」
「まあ、ごくごくか細い音ですから、問題ないでしょう」
アニシナが電源を入れて花から手を放した。
「…アニシナ、何だこの音は。というより、声は」
微かではあるが音が聞こえる。音というより、人の声のようにも聞こえる。か細い、今にも事切れそうな喘ぎ声だ。
…これはまずい。グウェンダルは思った。外来患者に『亡霊がついている』と思われかねない。
「私には霊の声のように聞こえるのだが…」
「これの何処が霊の声に聞こえるのですか!」
「では、お前には何に聞こえるんだ?」
するとアニシナは腰に手を当てて昂然と顔を上げ、こう言った。
「カオナシの声です!」
「…」
もっと嫌だ。グウェンダルがまさにそう言おうとした時、診療所の裏にある母屋の方から、グレタが出てきた。小走りで。
「グウェン、お帰りなさい。もう終わったの?」
「ああ」
「あのね、今ユーリが来てるの。それでね、ユーリ、何だか元気がないの。口では言わないんだけど」
アニシナとグウェンダルは顔を見合わせた。
「私は、あの方は元気が取り柄だという風にお見受けしていましたが」
「…せめて特徴と言ってやらないか?」
そんなグウェンダルの言葉など全く聞いていないアニシナは、グレタに尋ねた。
「それでグレタ、陛下はどの程度元気がないのですか?」
「うーんとね…ため息ついたり、ぼんやりしてたり…あ、後は目がね、俯きがちなの」
アニシナはグウェンダルの方を向いた。
「どうやら重症の様ですよ」
「解るのか?」
「男などという単純な生物の精神構造を、この私が解明していないとでも思ったのですか」
…何と反論したら良いものか、グウェンダルは一瞬迷った。誉めるべきかけなすべきか分からない。どちらも間違った行動のような気がする。
「グウェンダル、貴方、陛下の相談にのって差し上げなさい。どうせ暇なのでしょう? 男というものは女性に比べて、人に悩みを打ち明ける事を躊躇うものです。私やグレタは女性ですから、悩みの内容によっては尚更話しにくいかもしれません。その点貴方は同性ですし、あの年頃の少年の扱いは出来るでしょう? 2人も弟がいるのですから」
「…」



ユーリは母屋の応接間にいた。ソファに座って待っている図をグウェンダルは想像していたが、実際はそうではなく、ユーリは壁にかかった写真を眺めていた。
グウェンダルはユーリがどの写真を見つめているのかに気づき、一瞬だが緊張した。それはコンラッドがこちらに来た19の歳のクリスマスの写真だった。
ユーリはグウェンダルに気づくと振り返った。グレタの言う通り、元気がなかった。それでいて、空元気を振りまくように笑顔を貼り付けている、その努力が痛々しかった。
「グウェンダル…この人」
ユーリが写真の一点を指さした。
どれの事かとグウェンダルが歩み寄る。てっきり端に映っているゲーゲンヒューバーでも指さしているのかと思ったが、そうではなかった。違っていた。
ユーリが指さしているのは写真の手前に位置しているツェリやアニシナ達でも、左端に映っているゲーゲンヒューバーでもなかった。右奥に映っている人物だった。小さいし、カメラに背を向けているが、横を向いて傍らの男性と話をしている為、顔がはっきりと判る。

「この人が、ジュリアさん?」

「…そうだ」
その名自体は予想外だったが、ユーリの口からその名を聞く事は不自然ではない。ユーリがコンラッドの口から彼女の事を聞いていたとしても、全くおかしくない筈だった。
「アーダルベルトの婚約者だったんだってな、ヴォルフに聞いた」
「ヴォルフラムが話したのか?」
それは意外だった。
「うん、あいつには言わなかったんだけど…この間、ゲーゲンヒューバーって人に会ったんだよ」
この人、と、ユーリは写真を指さした。
「コンラッドと2人で出かけた時に出くわしたんだ。すぐどっか行っちゃって…その時の様子が変だったからさ、ヴォルフに訊いたんだ。どういう人なのか。そしたら少しだけ教えてくれた…ジュリアさんの事も」
「…」
「…コンラッドの大切な人だったんだってな」
その科白が忽然とグウェンダルの頭に、ユーリの元気のない理由を思い当たらせた。それがあまりに残酷で、殆ど反射的にグウェンダルはこう言っていた。
「余計な事かもしれんが…お前はコンラートにとってのジュリアの代わりにはならないだろう」
すると、ユーリの表情が一切消えた。が、グウェンダルが瞬きする間に、そこには笑顔が浮かび、笑い声がその口から漏れていた。
「おれもよくよく考えたら、そうだなって気づいたよ。ただ、ヴォルフの口から聞いた直後は色々動揺しちゃっててさ…そのせいで、電話かけてきたコンラッドに、普通通りの態度で話が出来なくて…つまり…」
ユーリが一旦言葉を切った。
「…ケンカしちゃったんだ」


「ヴォルフがそっちに泊まったって本当?」
日曜の夜、コンラッドは自分の部屋からユーリの家に電話した。
電話の最初の言葉がそれだった。
『うん。あれ、昨日泊まるってヴォルフが電話したろ?』
その、ユーリの何でもない事のような口ぶりにコンラッドは腹が立って、口調に棘が増した。
「俺はさっきの夕食の時に知ったばかりなんだけれど?」
『そうなんだ』
…沈黙。
『…コンラッド? あの…どうしたの?』
「…ユーリ、どうしてヴォルフを泊めたの?」
『何でって…』
怒りをなるべく抑えようとコンラッドは努力したが、どうにも抑えきれなかった。
『恋人』の自分でさえ、ユーリを泊めた事も、また、ユーリの家に泊まった事もないのに、『友達』に過ぎない筈のヴォルフラムが先んじてそれをしたというのが、悔しかった。
ユーリは何故か言い淀んでいた。理由を詮索されて動揺しているのは明らかだった。その反応が、コンラッドを不安に陥らせる。
『その…勉強に思ったより苦戦しちゃってさ。色々と話してたら遅くなっちゃって』
「ふーん…」
たったそれだけの事があったにしては、今のユーリの反応は妙だった。
『…コンラッド…何、どうしたんだよ。怒ってんの?…何で?』
この科白にはピシっときかけた。
「…ユーリ。本気でそう言ってるの?」


「それでさあ、コンラッドってばひどいんだぜ! そりゃおれだって、ヴォルフと一緒のベッドで寝たのは流石にマズかったと思うよ。コンラッドが怒るの解る」
ユーリがソファから身を乗り出した。
「けど、けどさ、ただ友達を泊めただけで、何にもやましい事なんか無かったっていうのに、あいつってば、まるでおれが浮気したみたいな物言いで、おれの事責めるんだぜ!?」
「…」
怒りに駆られて機関銃の如き勢いでまくしたてるユーリの話を、グウェンダルはただただ黙って聞いていた。
「おれの事なんだと思ってるんだよ。こっちがどんな気持ちでいると思ってるんだ。きっと、おれの事なんか全然信用してないんだぜ」
ぶつぶつくどくどと愚痴を零し続けるユーリだったが、グウェンダルのコメントは一切無しだった。ただでさえ色事に関する相談は苦手な上、身内が関係している事柄であるから、何と言ったら良いものか解らない。とりあえずは、コンラッドの心が狭いなと思っていた。
ユーリがソファに置いてあったあみぐるみを手に取って、ぎゅっと抱き締める。かなり大きいクマのあみぐるみで、一ヶ月の力作だった。それをぎゅっと抱き締められるのは、出来れば勘弁して欲しい。そう思ってグウェンダルが口を開きかけた時、電話がかかってきたので、立ち上がって応答に出た。
「もしもし」
『どうも、俺です』
ヨザックだった。
『今、いいですかね?』
「少し待て」
グウェンダルは電話の子機を持ったまま廊下に出て、ドアを閉めた。
腕時計の示す時刻は4時半。グウェンダルにとっては夕方だが、ヨザックにとってはまだ夜明けの筈だ。
「こんな時間にどうした?」
言語を英語に切り替える。グウェンダルはコンラッド程英語に達者ではないが、それでも会話するのは十分出来る。
『一仕事ついて仮眠取る所だったんですけど、忘れないうちに連絡しておこうと思いまして。昨日、真夜中にコンラッドが電話してきまして』
真夜中に電話するとは、何と非常識な男だろう。グウェンダルは眉を潜めた。
「そんな時間にあいつは何の用で…」
『3時間、延々とグチ零してただけですよ』
…ヨザックの心の寛大さにグウェンダルは感謝し、同時に申し訳なくなった。
「ユーリの事か?」
『ああ、そっちにもあいつ電話したんですか?』
「いや…それで?」
『たかが友達泊めた位でぎゃーぎゃー言うな、って言ってやろうかと思ったんですけど、あいつって……えー、遠慮無く言っちゃっていいですか?』
「構わん」
『あいつは恋愛に関しちゃ、何故かいざって所で自信無くして引き下がっちまう所があるでしょう』
「私はよく知らんが、お前の目から見ればそうなのか?」
『ええ…昔は結構簡単にばっさり切ったり切られたりしてましたね。そんなんだから、俺はあんなに嫉妬してるあいつを、知らなかったんですよ。だからアドバイスに詰まっちまって…それに正直眠かったんで、あいつには大した事言っていないんです』
「…」
『でも…このまま放っておくとあいつ、あの坊ちゃんの事も、どんなに惚れてても、終いには笑って手放そうとしかねない気がするんですよ。五分五分ですけどね』
「…」
グウェンダルは音を立てないように、応接間のドアをうっすらと開けた。
ユーリがソファに座ったまま、あみぐるみをぎゅっと抱き締めている姿が見えた。
「…」

…付き合いきれん。

「…ヨザック。その事はこちらでどうにかする。連絡をくれた事には礼を言う。お前はとりあえず休め」
『じゃあ、そのお言葉に甘えさせて貰いますね。それじゃあ』
電話が切れた。グウェンダルは応接間に戻ってこう言った。
「出かけるぞ」
「えっ?」
その言葉があまりに唐突で、ユーリは呆けた声を出した。
だがグウェンダルは詳しい説明も言わずに診療所の方へ赴き、グレタとアニシナに少しの間だけ留守を頼む。それからまた母屋へと戻ってきて、今度は玄関に向かった。
「グウェンダル、出かけるって…一体、何処に行くんだよ?」
ユーリは慌てて彼の後を追いかけて、玄関から外に出た。
外に出るなり、いきなりグウェンダルは何か紅くて丸い物をユーリに手渡した。
「何これ…ヘルメット?」
「それを被れ」
グウェンダルはそれからバイクの鍵を外し始める。
「これ被って、後ろに乗れって事か? でも、何処に行くんだよ」
「母上の実家だ」
「ツェリ様の実家。なるほど……って、はいいぃっ!?」
少々反応が遅れてしまったが、それはつまり、コンラッドともろに顔を合わせに行くという事ではないか。
「…お前達2人が、当人同士だけで話し合うのが最も手っ取り早いだろう」
「そうだけど、でも…」
いきなり言われても決心が付きかねるユーリだったが、グウェンダルはそこまで待ってはくれなかった。

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ヴォルフラムとの「ドキドキ★お勉強タイム」は、都合によりバッサリとカットしてしまいました。すんません。ちなみにゆーちゃんが使用したヘルは、本来はアニシナさん用です。