ディモルフォセカをくれた君(26)
美子がユーリに話を聞けるようになったのは、彼の恋人が帰宅した後、更に30分程経過してからだった。その30分で息子は洗面所と私室とを忙しなく行ったり来たりして、そして洗濯機を動かし始めた。何を洗っているのかは、敢えて美子も尋ねなかった。
「ゆーちゃん、次はおイモの皮を剥いてね」
「うい」
疲れているせいか、何故かフランス語で答えるユーリ。
彼が夕食の手伝いをするよう母親に求められる事は、最近は絶えてなかった。理由は解る。コンラッドの事などを聞きたいのだろう。
「ゆーちゃん、あのコンラッドさんって人、歳はいくつ?」
それきた。
「今年で二十歳。それがどうかした?」
「じゃあゆーちゃんとは5歳差ねえ。それで、何をしてる人なの? 学生さん?」
「ううん、社会人」
疲れ気味である事と、根掘り葉掘り訊かれたくない事とが、ユーリの口調をぶっきらぼうにさせる要因になった。
「そうなの。それで、出会いはどんな風だったの?」
「どうでもいいじゃん、そんな事」
早くジャガイモの皮を剥き終えて自分の部屋にでも風呂にでも逃げ込んでしまいたい、ユーリはそう思って手を速めようとした。
ユーリのすぐ隣から、ものすごい音がした。字で表すなら『ドスッ!!』だ。時代劇かサスペンスに効果音として登場しそうな物音。思わず肩を竦ませ、そっとユーリは母親の顔色を伺った。
美子ママご愛用の包丁が、まな板の上の野菜を文字通り一刀両断していた。
切ったのはジャガイモではない。人参ですらない。大きな栗カボチャだ。それを片手の一振りで真っ二つに切るなど、男のユーリでも出来ない。
「…ゆーちゃん?」
ユーリを呼ぶ声はいつもの少女風の声ではなく、任侠映画さながらの低くドスの利いた声だった。昔の『横浜のダーティー・ハリー』モードに切り替わりかけている。
「コンラッドさんとの出会いはどんな風だったの?」
先程と同じ質問。
だが、それに対して先程と同じ返答を返すだけの勇気は……ユーリには無かった。





勝馬が仕事を終えて帰宅したのは、午後8時少し前だった。
「ただいまー」
暑さにだれた声でそう告げ、玄関で靴を脱いで家へと上がる。
リビングから蛍光灯の灯りが漏れ、そして彼の妻と二番目の息子の会話が聞こえてきた。
「……でもねえ、ゆーちゃん。ママ、これだけは言っておきたいの。ゆーちゃんはまだ15歳だから、少し早いような気もするんだけれど、エッチをするなとは言わないわ。愛があるならね」
…勝馬は我が耳を疑った。
「でも、そういうのは安全を第一に心がけるものなのよ、解る?」

な…なななっ!?

「一体何言ってんだ、嫁さーんっ!?」
そう叫んでいきなり勝馬パパがリビングに駆け込んできたものだから、美子ママもユーリも会話と箸を止めて、それぞれびっくりした顔で彼を出迎えた。
「あらウマちゃん、お帰りなさい。お風呂、先に入ってね」
「そ、それよりも嫁さん、ゆーちゃんに何話してるんだっ、ゆーちゃんに何があったんだ!?」
ものの数秒の間にあれやこれやと危険な想像を働かせた勝馬だったが、美子は何でもない事のようにこう返答した。
「ゆーちゃんに性教育をしていたの。こういうのは、家庭でのきちんとした話し合いが大事でしょう?」
「あ…なるほど、何だ、そんな事かよ…」
あっさりと勝馬は納得した。そしてネクタイを外しながら、リモコンでテレビを点ける。
「嫁さん、しょーちゃんは?」
「まだ同窓会よ。さっき電話で、『これから帰る』って」
「ふうん…そんじゃ、おれ風呂入ってくるわ」
勝馬は背広を脱いで入浴する為に、リビングを出て行った。
「…でね、ゆーちゃん。話の続きだけど」
「ま、待ったおふくろ! さっきは親父の登場でツッコみ損ねたけど、一体どうしてそんな話をなさるんでございますですか!?」
狼狽えるあまり、最後は妙な敬語になってしまった。
「だって、大事な事でしょ?」
「いや、確かにそうだけどさ」
「そういう話をコンラッドさんとしてる? きちんと2人で話し合って決めなくちゃダメよ?」
まさか、昼間部屋であれこれとしていた時、声が外に漏れていたのでは…という危惧を、ユーリは抱いた。もしそうだったらと思うと…穴があったら、否、無くても掘って入ってしまいたい気分だ。
「…おふくろ、ズバリ聞くけど」
「なぁに?」
「おふくろは、おれとコンラッドが付き合う事には反対してないんだよなっ?」
「うんvv」
即答。しかも語尾にハート付きで。
「大丈夫よ、パパには黙っててあげるから」
「はあ…そりゃどうも」
「だから、また今度連れてきてねっ、コンラッドさん。ああ…あんなカッコイイ人に『お母様』だなんて呼ばれて、ママ、本当に嬉しかったわ〜…」
美子はうっとりとした目の中に、偶然、カレンダーが飛び込んだ。
「…そういえば、もうすぐゆーちゃんも16歳になるのね…早いものねえ。しょーちゃんが高校に入ったのが、ついこの間の事みたいだったのに」
「…そうだ、おふくろ。何でおれって『有利』って名前なの?」
「何でって、7月生まれだからよ。決して、パパが銀行やさんだから付けた名前じゃないの」
「だから、何で7月生まれなら『有利』な訳?」
すると、美子の双眸がキラキラっと輝き始めた。これは、彼女が少女趣味的な妄想に浸っている時特有の目の輝きだ。
「ママねえ…ゆーちゃんが産まれた時、キラキラっとした可愛い名前を付けてあげたかったの。『エリザベス』とか」
その名前を没にしてくれた事を、ユーリは母に感謝した。と言うか、女の名前だし。
「でも、いい名前がなかなか浮かばなかったの。パパは『勝』の字を入れた名前にしたいって言ったんだけど、『勝太』とか『勝吾』とか、あんまり可愛くない名前ばっかり提案して」
父親らしい、と、ユーリは内心で思った。
「それで悩んだウマちゃんが、見舞いにいらしたお友達に相談したのよ。ほら、しょっちゅうアメフトのグッズを送って来る、ボブっていう人なんだけれど、覚えてる?」
ボブという人物の事は、ユーリも少しだけ聞いていた。経済界で多大な影響力を持つ人物らしい。そんな大物と、しがない銀行員でしかない自分の父親がどうして知り合いなのかは、謎のままである。
「小さい頃の話だもん、全然覚えてないよ。それで?」
「でね、そうしたら、その人が更に別のお友達に相談してくれたらしくて」
「ふうん…」
何だか、ややこしい話になってきた。
「そのお友達の母国語で7月は『ユーリ』って言うから、それでどうかって、ボブさんが教えてくれたの。それでママ決めちゃった。ショーリとユーリで語呂もいいし、可愛い名前だし」
と、そこへ、風呂から上がってきたパジャマ姿の勝馬が姿を現した。美子がすぐさま冷えた缶ビールを冷蔵庫から出してきて、椅子に座った勝馬の前に置く。
「なあ、おふくろ。その人、何処の人?」
「さあ…ママ、直接その人に会った事はないから」
「っ…何の話してんだ、2人共?」
缶ビールを一口飲んで喉を潤してから、勝馬パパは食卓の会話に参入した。
「おれの名前の話」
「ウマちゃん。ゆーちゃんの名前を考えてくれた人って、何処のどういう人なの?」
「ボブの知り合いだよ。名前は…何つったっけな」
勝馬は首を傾げて考え込んだ。
「だ…だー……何だっけ。だの字で始まって、どっかに伸ばし音がついてる名前だったと思うんだが、『ダイハード』しか出て来ねーや」
武装した姿で窓ガラスを割って突撃してくる名付け親。カッコイイが、ちょっと怖いかもしれない。
「とにかく、一度会ったんだよ、ゆーちゃんが産まれたばっかりの時にさ。でも、英語が通じなかったもんだから、直接話はしてないんだよ。ボブが間に立って通訳してくれてたな」
勝馬は再びビールを煽った。
「親父。今はその人、何してんの?」
「それがなあ…良く解らない。色々あったらしくてな。ゆーちゃんの名前が決まった少し後で、プレゼントを贈ってくれたんだが。…でも、何でそんな話をしてるんだ?」
「おれの知り合いがさ、『ドイツ語で7月はユーリって言うんだよ』って、教えてくれたから」
「あー…そう言えばあの人、ドイツ語らしき言葉を喋ってっけな。あの、だ、だ……くそー、出て来ねぇ、何て言ったっけなぁ…」
「覚えてないなら別にいいって…」
ユーリはそれ以上自分の命名の理由に興味は無かった。だから早々に夕食を食べ終えると、兄が帰宅する前に、風呂を済ませにかかったのだった。





受話器の向こうでコール音が鳴り始める。
コンラッドは首に受話器を挟んで、自分の右手を目の前で広げた。
人差し指と親指、その2本の指先には巻かれたばかりの絆創膏。
…カッター等の日常的に用いられる刃物に比べて、如何に剃刀というものが切れ味の良い物であるかを、生まれて初めて、その身をもって知った。
テーブルの上には、開封したばかりの封筒が置かれている。中に入っていたのは一枚の便箋で、内容はここ最近かかってくる電話の用件と同じ旨が書かれている。文章表現自体は至って陳腐なものだったが、封筒の仕掛けの方が強力だった。その真っ白い表面に滴った幾らかの血は、まだ、乾いていない。
指を切った位なら、コンラッドの仕事には何の支障もない。常人なら慄然とさせられるような事でも、コンラッドは動じなかった。見えない所から発せられる悪意にいちいち動揺していては、人生、とてもではないがやっていられない…そう、幼少期に散々学習済みである。
だが、初めて脅迫者側から直接的な攻撃を受けた以上、知らせておくべき人物には知らせておかなくてはならない。
コンラッドは電話を続けながら居間に移動して、カーテンが閉まっている事を確かめた。
と、その時、電話の向こうでようやく相手が応答に出たので、ゆっくり相談をするべく、コンラッドは玄関の壁に背を預けた。
「オーナーですか? 俺です。夕食時にすみませんが、急な用事がありまして」
知らせておくべき人物には知らせておかなくてはならない。
だが、その中にユーリはいない。

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「?」な所が色々とある、お名前に絡むアレやコレの話は、また後ほど書きます。まあ大体予想はつくでしょうけどね。