ディモルフォセカをくれた君(24)
フローリングに落ちたビニール袋から、中身がこぼれ落ちる。白だしの瓶の底が音をたてて床に当たり、長ネギは倒れ、卵のパックがずるずると出てきた。
「…っ………!」
ユーリは指先まで硬直した。その隣のコンラッドはというと、しまった、とでも言いたげな表情をしている。
まだ昼過ぎであるが、リビングの空気が一瞬にして深夜のように静まりかえる。
「…ゆーちゃん…」
2人の視界には、茫然自失といった表現が相応しい美子ママの表情が映る。
…バレてしまった…!
ユーリの全身からは血の気がひいていった。



時間は少し遡る。

ユーリがコンラッドを連れて自分の自宅にやって来た時、玄関には鍵がかかっていた。玄関もガラリとすいていて、施錠がされていた点と共に、家人が誰もいない事を示している。
「上がってよコンラッド」
「お邪魔します」
ユーリは既に夏休みに突入していた。夏休みなので平日よりも草野球の練習が更に自由に出来るようになったかと言うと…そうでもない。同じく夏休み中である他のグラウンド利用者もいるし、メンバーの中にはムラケンのように、特別講座でなかなか練習に出られない者もいた。
今日は渋谷家の家人全員が不在である。父・勝馬は無論仕事だが、兄の勝利は大学が終わった後で高校の同窓会に出かけるという。そして専業主婦でいつもは家にいる筈の母・美子さえも、大学時代の友人の結婚式に出る為、帰宅が遅くなるという話だった。
つまり、コンラッドに言わせると、前々から考えていた『ユーリの家に行ってみたい』という希望を叶えるのに、うってつけの日であったのである。しかも彼の午後の予定は空いていた(と言うよりも、空けた)。
「そっちがトイレ、そっちが洗面所で、そっちがリビングな」
家族のいない間にコンラッドを家に連れてきた事が、まるで何かいけない事であるかのように、ユーリには感じられる。緊張して、そして何処かはしゃいでいた。
「ユーリの部屋は?」
「ああ、上だよ。兄貴の部屋の隣」
人を通すのに適した部屋ではない。冬はともかく、夏は、昔から連れてきた友人はほぼ例外なく、そこにいる事を嫌がるような部屋だ。原因は間違いなく、エアコンをつけないからなのだが。
「お兄さんは、大学生だっけ?」
「そう。こっち来てよ。ウチの犬、紹介するからさ」
エアコンの件を抜きにしても、リビングの方が涼しい。犬がいるので、留守中でも室温を27度くらいにしてあるからだ。
リビングにコンラッドを引っ張り込むと、座敷犬の1匹が尻尾を振ってユーリにすり寄ってくる。もう1匹は部屋の隅で横になっており、動く素振りを一切見せない。犬は初対面のコンラッドに対して、吠えたりはしなかった。
「あんたって老若男女、大体どんな人間にも好かれるっぽいけどさあ…犬にも?」
「どうかな、自分では動物に好かれる自覚はないんだけれども」
床に膝をついて犬の頭を優しく撫でながら、コンラッドはリビングを眺める。
部屋の隅に飾ってある小さいアメフトのボールに目を留めた。それにユーリが気づく。
「あれ? 親父の知り合いにアメフトが好きな人がいてさ、たまにグッズを贈ってくるんだ。でも、うちにはアメフト好きはいないから、親父が大抵バザーに出しちゃうんだけどな」
犬がコンラッドの元を離れて、テーブルの下へ向かい、そこで横になって昼寝を始める。
「コンラッド、暑くないか?」
「いや? 大丈夫」
「そっか、ならオッケー。おれ、エアコンあんまりつけない主義だし、つけても温度高めにしちゃうからさ、ひょっとしたら、あんたにとっては暑いんじゃないかと思って」
夏のマシンの中の暑さに比べれば、これ位は何でもない。
「身体が冷えるからね」
「そうなんだよ」
「……そう言えばユーリ、この間の文化祭のミスコン、2位だって言ってたけれど…」
「うん、それが?」
「賞品は何だった?」
ユーリがぎくりと身体を震わせる。賞品はあったが、とても人に見せられる物ではない。ユーリはコンラッドの性癖を段々把握し始めてきているので、もし彼に見せようものなら『履いてみせて』と言い出しかねないだろうと予測していた。
「2位にも賞品があったって、ギーゼラから聞いたんだけれど」
「ギーゼラさんから?」
変な誤解を招く前に、コンラッドはすぐさま説明を始めた。
「ほら…デートの時、映画のパンフを置き去りにして行ったの、覚えてる? この間、うちにあれを届けに来てくれて」
「ふうん…」
ついでに、現像したてのユーリの女装姿を撮った写真のうち、数枚を焼き増ししてくれた。しかし、その事をコンラッドはユーリに言わないでおいた。
「やっぱ…バレてるよな、ギーゼラさんには。…まあ、いいけどさ。で、結局何する?」



「ただいまー」
と言って、家へと入る美子の声は疲れ気味で小さく、語尾は途切れていた。
この日の為に買った淡い水色のアフタヌーンドレスは、残念ながら、殆ど出番なしで終わってしまった。
買い物袋を床に置いて靴を脱いた時、ふと、彼女は見慣れない靴が玄関先に並んでいるのに気づいた。
つま先が少し綻びたスニーカーは、二番目の息子の物だ。だがその隣の大きい革靴は、家族の誰の物でもない。
誰か来客でもあるのだろうか、と思いながら、美子はすたすたと足音も軽く廊下を歩いていく。
「ゆーちゃ……」
家全体に通るくらいの声をかけようとした彼女だったが、リビングの入り口の前ではたと立ち止まった。
リビングのソファの後ろにユーリがいた。美子の知らない若い青年がその側にいる。
何処のどういう人物であるのかは解らないが、一つだけ、一目で美子にもすぐに解った事があった。
2人はとても仲が良い、という事だ。そう、とても。
押し倒されて(もしくは押し倒して)唇を重ねる仲とあっては、それはもう、疑いようがない。
一瞬で彼女は頭から足の先まで硬化してしまい、手に持っていたスーパーの袋を床に落としてしまった。
その音に気づいたコンラッドは顔を上げた。
激しく嫌な予感がして、ユーリも押し倒されて仰向けになった体勢のまま、頭だけを動かし、音のした方を向いた。
廊下とリビングへの出入り口の所に、コンラッドにとっては見知らぬ女性、ユーリにとっては自分の母親に当たる女性が、立ち竦んでいる。帰りにスーパーに寄って買い物をしてきたのだろうか、床に長ネギやら白だしの瓶やら詰まったビニール袋を落としていた。
「おおおお、おふくろっ!? ちょ、ちょっとコンラッド、どいて!」
慌ててユーリはコンラッドを押し退け、床から起き上がった。
どうして母がこんな早く帰宅しているのか、友人の結婚式とやらに出席する筈ではなかったのか…そんな疑問はさておき、どうにも弁解のしようのない場面を見られてしまった。
ただキスするくらいなら…かなり成功率は低いが、冗談という事で誤魔化せたかもしれない。
しかし、キスだけではなく押し倒して、しかも服を脱がそうとしていたとなると…これはもう、凄腕の結婚詐欺師並に人を欺く技量があったとしても、誤魔化しようがない。
どうしよう、どうしたら良いのだろう?
ユーリの頭は必死でこの事態を改善する為の策を考え始めるが…何も思いつけない。
表情を凍り付かせていた美子ママは、次にこう叫んだ。
「いやーっゆーちゃんがいつの間にか薔薇色の世界にーっ!!」
そしてギロッ!と、彼女は自分の二番目の息子を凝視する。
「…ゆーちゃん」
「は…ハイ?」
語尾上がり口調になってしまうユーリ。
美子はずかずかとユーリの前に歩み寄ると、すとんと床に正座した。ユーリがびくっと怯えて身体を震わせる。これからの展開が恐ろしかったが、コンラッドと付き合い始めた時からある程度の覚悟はしていた筈だ…自分に必死でそう言い聞かせた。
しかし、予想外の事態が起こった。
突然美子の表情がガラリと変わったかと思うと、瞳をキラキラっと輝かせ始めたのだ。
そしてこう言った。
「…いつからなの?」
「…え?」

「一体、2人はいつ頃からのお付き合いなのっ?」

…ユーリとコンラッドは呆気にとられてしまった。
息子が留守中に男の恋人を引っ張り込んでいれば、親なら怒るのが普通ではないだろうか。
なのにどうだろう。目の前の女性のこの、期待に満ち溢れる表情は。
「…えーと、知り合って3ヶ月くらいでしょうか」
コンラッドがユーリに代わって答えた。
「3ヶ月? まあ、そうなの。えっと…お名前はコンラッドさん、でしたっけ?」
「ええ。ご挨拶が遅れましたが、息子さんとお付き合いさせていただいています」
「いえいえ、こちらこそ、うちのゆーちゃんがお世話になりまして…」
お互いに正座して頭を下げて挨拶し合う2人。
唖然としたままのユーリの前で、会話が進められていく。
「もう、ゆーちゃんったら、やるわねっ! こんなカッコいいお兄さん捕まえちゃって!」
そう言ってユーリの膝を叩く美子ママの、その実に楽しそうな事。コンラッドはユーリの母親とは初対面だったが、瞬時に彼女の精神構造を理解した。
「いえいえ、お母様こそお綺麗ですよ」
相変わらずさらりと臆面もなく、そんな台詞を言ってのけるコンラッド。
「やだもう、お上手っ!」
心から嬉しそうにはしゃぐ美子ママ。
…ユーリだけが、その場の雰囲気から取り残されていた。

何だ…一体何なんだ、このフレンドリィな雰囲気は。
いや、いい展開だ。その筈なんだけれど……何つか、母上様……変! すっごく変です! 解ってたけど!

「おふくろ、何で帰って来てんだよ! 結婚式に行くんじゃなかったの!?」
「『おふくろ』じゃなくて『ママ』でしょ、ゆーちゃん。それがねえ、式がアクシデントで中止になっちゃったの。新婦さんの方のお父様のカツラが無くなっちゃって騒ぎになったもんだから」
…ヅラ1つで晴れの舞台が中止になり、そして、自分達が今窮地に立たされている。そう思うとユーリは複雑な心境になった。
「で、2人の式はいつなのっ?」
「し、式っ!?」
「息子さんは15歳ですから、結婚はまだ出来ないのでは?」
「それじゃあ、もう2年待たないとねぇ…」
それ以前に、日本では男同士での結婚は出来ない。
「と、とりあえずおふくろ、その服、着替えて来たら?」
ユーリは美子の服を指さした。
「あら、忘れてた。そうね、汚しちゃいけないから、ひとまず着替えて来ようかしら」
「そうしなって! おれはコンラッドと自分の部屋に行ってっからさ!」
ここぞチャンスと言わんばかりにユーリはコンラッドの腕をむんずと掴むと、逃げるように…否、逃げる為に自分の部屋へと駆けて行き、荒々しくドアを閉めた。美子ママが追いかけてくる気配はなかった。
「ったく…」
悪態をつくユーリ。
コンラッドが笑い声を立てたので、ユーリはかあっと頬を染めた。
「ごめん。うちのおふくろ、いつもあんな感じでさ…変だろ?」
「面白いお母さんだね」
2人はフローリングの上に腰を下ろした。
「バレちゃったね」
「…あんまりあっさりしてて、かえって拍子抜けしちゃったよ」
ユーリはため息をついた。だが、あっさりとユーリの母親から交際の了承を受けられた事は、コンラッドにとっては思わぬ好事だった。
「ああくそー、ベロチューしてるとこ見られて、一体、おふくろにどういう顔すればいいんだよ」
少し1人で煩悶懊悩していたユーリだったが、はたと固まる。
「ユーリ?」
「…あのさあ、今ふと思ったんだけど…あんたの親父さんって、おれたちの関係を認めてくれそうな人なの? どうよ、そこんとこ?」
コンラッドはすぐには頷けなかった。首を傾げながら、具体的に想像をめぐらせてみる。
父親がどんな反応を示すかは、容易に想像がついた。
おそらく、絶句する。もっと悪ければ卒倒するだろう。
「うーん……苦しいかな。母上の方はそうでもないと思うんだけれど」
母・ツェツィーリエの場合は、愛を話のメインにしながらかき口説けば、おそらく楽勝だろう。
「そっか…」
ユーリは頭を垂れて俯いた。
いい子だなあ、と、コンラッドは思った。彼は父・ダンヒーリーに反抗的な少年ではなかったが、ユーリに比べれば遙かに不良性のある少年時代を過ごしてきた。ヨザックという仲間がいた事もあって、色々とやったものである。無論、どんな女性と付き合うかについて、父親に承諾を求めた事は一度もない。
しかし、ユーリが周囲からの視線にこだわる気持ちも、コンラッドはきちんと理解していた。それが普通だ。彼だって、ユーリの両親から了解を得たいと思っている。得られるかどうかは別にして。
ユーリが立て膝でコンラッドの所まで寄ってきた。そして、彼に抱きついた。
何とも言えないその憂える表情に、コンラッドの心が刹那痛む。
…そんな顔をする必要はないのに。
「…おれはあんたを放さないよ」
「困ったな…すごく嬉しい。でもこの状況では、俺の自制心にとっては厳しいな」
「…は?」
ユーリはぱっとコンラッドから離れようとしたが、背中にいつの間にやらコンラッドの手が回っていて、抱き寄せられる。
深刻な雰囲気になだれこみかけた空気を明るい方へと持って行く目的で、コンラッドがこう申し出た。
「キスしていい?」
「キスだけなんだろうな…言っておくけど、下におふくろがいるんだからな」
「はいはい」
と、言ってはいるが、コンラッドの目つきはどことなく怪しい。
だがその時、
「ゆーちゃーん? 悪いんだけれど、ちょっと来てくれる?」
という、美子ママの呼び声がした。
「あ、んー、今行くー!」
急いでユーリは立ち上がると、コンラッドに待つように言い、部屋から出て行った。
コンラッドは苦笑しながら床に座り直して、初めて入るユーリの私室を見回した。
彼がユーリの自宅を今日初めて訪れた事は前述したが、勿論ユーリの部屋に足を踏み入れるのも、これが初めてだった。
家族が帰ってきているのは残念だった。いつか、ユーリの部屋で一度は事に及んでみたいと思っていたから。何故か今日は自然と怪しげな路線に思考を働かせてしまいがちだったのは、そのせいだろう。
ざっとユーリの部屋を見た時、まず目につくのが野球関連のものだ。グローブ、バッグ、有名選手のポスターもあるし、プロ野球関連の雑誌もある。
机の上に2冊程、教科書か参考書が載っていた。
そして白いコブタのあみぐるみと、見覚えのあるブローチもある。それぞれグウェンダルとヴォルフラムから貰った物だろう。2人共、いつの間にユーリにプレゼントなどしたのだろう。ヴォルフラムはともかく、グウェンダルとは意外な盲点だった。
何気なくベッドの方に目を向ける。その下から何かがほんの僅かだが、はみ出していた。よくよく近づいて見てみると、黒い紐だった。
何なのだろうかとコンラッドは訝しみ、くっと引っ張り出してみる。紙袋が滑って出てきた。黒い紐はその中から出てきている。
つるつるとした、何とも怪しげな化繊っぽい手触りの紐。
ずるっとコンラッドは袋の中身を引き出してみた。
細い紐のついた小さい布。
何だろうと思ってあちこちいじってみるうち、コンラッドはそれが何なのか気づいて、両手で広げてみた。
…下着だった。



室内着に着替えた美子は、廊下でユーリがやって来るのを待っていた。
「何だよ、おふくろ…」
「ねえ、ゆーちゃん。何かいる? 麦茶があるけれど」
「いいよ、そんなの」
「でも、ゆーちゃんのお部屋は暑いでしょう?」
「…」
美子ママの言う事には一理あった。
「冷たい物があった方がいいんじゃない?」
「…じゃあ、今持ってくよ」
美子がキッチンに向かい、グラスやらお盆やらを出して準備を始める。氷を入れて麦茶を注ぐだけなので、すぐに終わった。
「ゆーちゃん、後でママに沢山お話を聞かせてねっvv」
聞かせたくないので、返事をしないでユーリはお盆を受け取り、そして逃げた。
麦茶を零さないように気をつけつつ、ユーリは部屋に戻った。
ドアを開けると、コンラッドが自分のベッドの側で、ある物を両手に持っている光景が目に入る。
彼が持っていたのは、あの忌まわしい黒のヒモパンだった。
「っ、み、み、見るなあああっ!」
現在、ユーリの中ではエロ本を押さえて『見られたくない物ランキング・第1位』に輝いている品である。
ユーリは慌てて机の上にお盆を置くと、コンラッドに飛びかかってヒモパンの奪取を図った。だが、コンラッドはひらりひらりとユーリの手をかわす。
「返せよっ!」
「貴方がこんないやらしい下着を持ってるなんて、びっくりだ」
コンラッドはにっこりと微笑んだ。
「で、これは一体、誰の趣味?」
「趣味とかそういうんじゃなくて、ミスコンの賞品!」
「ああ…なるほど、これがねぇ…」
しばしヒモパンを眺めていたコンラッドだったが、やがてそれとユーリの顔とを交互に見比べ始めた。
「ユーリ」
「な、何だよ」

ものすごーく嫌な予感がした。

「履いて見せて」

次へ(注:性描写含む)
第26話へ
前へ
戻る
はっはー…バレちゃいましたね。
次の第25話は短いですが、18禁シーンが入るので、お嫌な方は第26話へとすっ飛んで下さい。