駐屯軍の襲撃を受けた翌日、デイン解放軍は野営地を王都付近へと移した。これは視察団との会見に備えての事だが、駐屯軍の再度の襲撃への警戒も兼ねている。前日の祝宴を引きずっているのか、兵士達の中にはもう気が抜けている者もいたが、そんな彼らもネヴァサを臨む場所に到着して野営の準備を始める頃には、祖国解放への意気を取り戻していた。
ただし、兵達の間には微妙な空気も漂っていた。
昨晩の、駐屯軍の残党による襲撃事件。その狙いが【暁の巫女】であった事実は、彼女を信奉する兵士達の間で瞬く間に噂となり広がってしまった。そればかりではない。その巫女の窮地を救った「王子の護衛役」の正体が、あのクリミアの救国の英雄・アイクだという事実までも。
今回は流石に、グレイル傭兵団の皆の正体が暴露した時と同じようにはいかなかった。
解放軍の兵士の殆どは、デイン国民で構成されている。三年前に先王アシュナードを打倒し、デインを滅ぼした剣士……いわばデインが現在の惨状に至事になった原因である青年の登場に、彼ら兵士達は驚き、様々な立場へと分かれた。
ひたすらにアイクをデインの仇敵として憎み、彼が解放軍に名を連ねる事を拒絶する者たち。
アイクに対して心中穏やかならぬ感情を抱きつつも、「【暁の巫女】の命の恩人だから」「王子の決定だから」等という理由により、アイクの存在を黙認する者たち。
そして全てを割り切り、アシュナード王さえ打ち倒したアイクの実力を重宝する者たち。
他にも色々な意見があるようで、何人かが午前中からセネリオの元に直談判に来ていた。だが、セネリオは彼らの処理をタウロニオに一任して、他の諸々の事務処理を行っていた。セネリオがいる天幕の外では今、タウロニオが訴えを退けられた兵士達に対して、戦場で上官の決定に従うことの重要性を切々と説いている。
今、アイクの姿はセネリオの傍にはなかった。セネリオがアイクを護衛役として傍に置いていたのは、その素性を隠す為だったのだ。それが知られてしまった以上、最早アイクを隣に立たせておく必要はない。
……今日の時点で、解放軍を除隊したいと願い出た兵士が四人いる。その理由は全員同じだった。この調子では、おそらく明日あさってにも軍を抜ける者が次々と出てくるだろう。デイン王国軍の再編は現在のデイン解放軍を元にして行うつもりであったから、兵力の減少はなるべく防ぎたいところだった。
軍を抜けたがっている兵士達の心をどう繋ぎ留めるか……セネリオは事務処理をこなしながらその手段を考え、一旦作業が一段落ついた所で、ミカヤを呼んでくるよう兵士に言いつけた。
彼が思いついた最も効果的な手段は、【暁の巫女】による説得だった。ミカヤの言葉なら、兵士達も一も二もなく頷くだろう。それ程までに、今の解放軍兵士たちはミカヤに心酔している……何せ、そうなるようにセネリオが仕向けたのだから。
最初から解っていた。自分は違うのだと。自分には、一軍の旗頭に相応しいカリスマ性はないのだと。それゆえに、デイン国民が崇める【銀の髪の乙女】の出現は、セネリオにとって僥倖だった。
ただし、それは同時に奇禍でもあった。彼女がセネリオと「同じ名で呼ばれるもの」であったからだ。セネリオは初対面ですぐその事に勘付いたし、おそらく、ミカヤの方もセネリオの秘密に気づいている。だからこそ余計に、セネリオには彼女を解放軍に引き留める必要性があったのだ。
その結果、彼女の存在が国民だけでなく、兵士達にとっても信奉すべき対象になってしまった事までは計算外であった。だが、今更言っても詮無いことだろう。これから如何にそれを調整し、利用していくかが問題なのだ。
「王子。ミカヤ殿をお連れしました」
「どうぞ」
机の上に広げていた書類を箱に収めてしまい込んでから、セネリオはミカヤを招き入れた。呼んでもいないサザまで彼女と一緒なのは、毎度の事だ。サザがいてもいなくても、さしたる違いはない。ミカヤに話した事は、ほぼサザに筒抜けと考えて良いくらいなのだから。ただ、今日はサザが同席していると、少々面倒な事になる予感がしていた。
案の定、ミカヤ当人は困惑しつつも兵士の説得を引き受けてくれたが、サザは露骨に不満そうな表情を浮かべた。しかもそれだけで留まらず、彼はミカヤを先に送り出してから、セネリオに正面から不満を訴え始めた。
「……こういうのは、やめてくれないか」
「こういうの、とは?」
「今みたいに、あんたらが何かとミカヤを当てにする事だよ。ミカヤは……人前に立つのには向いてないんだ。あいつも困ってる人をほっとけない性格だから、つい頼まれれば引き受けてしまうんだろうけれど……」
サザのその言葉で、セネリオは気づいた。彼は、ミカヤの秘密を知っているのだと。 知っていてなお、いつも傍にいるのだと。
「別に、無理難題を押しつけている訳ではありません。これは、兵士の説得に一番適しているのが彼女であると判断しての事です。それともサザ。あなたは、誰か他の適任者を挙げられるんですか?」
「あんたが説得するんじゃいけないのか?」
「僕の言葉が効果的だとは思えないから、ミカヤに頼んだんですよ。そもそも、何故彼女自身ではなく、あなたが不平を言うんですか?」
「ミカヤは、こういう事で文句を言う柄じゃないから……」
「それで、あなたが彼女の本心を代弁していると? あなたが彼女の本心を全て把握しているとは、僕にはとても思えないのですが」
セネリオが冷徹にそう言い放つと、サザは鋭くセネリオを睨み返した。だが、その前に彼が一瞬見せた驚愕した表情を、セネリオは見逃さなかった。
「……どういう意味だ」
「別に。そのまま、言った通りですよ。これ以上話し合っても時間の無駄です。僕には他にする事があるので、では」
セネリオは机の上に置いていた書類入れの箱を胸に抱いて、自分の方から天幕を後にした。サザがしつこく食い下がってきた場合に備えて素早く立ち去ろうとしたのだが、サザは黙りこくったまま、地面を見つめて微動だにしなかった。
サザの事は、嫌いではない。三年前から「こましゃくれた盗賊の少年」という印象を受けていたが、口数は少ないし手先が器用なので、セネリオの中では面倒事を起こさない兵士の部類に入っていた。
ならば何故、ああして無駄にサザに噛み付いてしまったのかというと……ただ、許せなかったのだ。あんな子供がミカヤの秘密……「ミカヤと自分たち」の秘密を知ってなお、共に生きてきたことが。
しかも、彼はその秘密を知ってはいるが、理解してはいない。理解したつもりになっているだけだ。彼は明らかに、自分たち"印"を持つ者たちに定められた運命と別の方向を向いて生きている。
セネリオはそこまで考えて、思考の対象を別方向に切り替えた……嫉妬など不毛な事だった。どれだけ他人を羨んでも、己の額の印は消えないのだから。
輸送隊の天幕に向かい、そこで物資に関する諸事を片付けた。するとララベルが新しい掘り出し物を仕入れたというので、それを見せて貰う事にした。
手斧と風切りの剣を買い付けたところで、ムストンに声を掛けられた。
「そう言えば……例のもんだが、何とか一本だけ手に入ったよ」
「本当ですか? 随分早いですね」
「昔の繋ぎで、一本だけだがね。今すぐ見てみるか?」
「ええ、お願いします」
ムストンに頼んでいたのは、剣の仕入れだった。それも、現在デイン解放軍の兵士達に支給しているものより質の良いものだ。駐屯軍の支配下にある現状のデインで、良質の武器は簡単に手に入らない。大概は駐屯軍に渡ってしまうし、解放軍が決起してからは、駐屯軍によって民間への武器の流通が厳しく規制されている。
ムストンは輸送隊の天幕の一角にセネリオを案内すると、一振りの剣を取り上げ、それを鞘から抜いてみせた。良質の鋼で出来た長剣で、先端に向かってすらりと長い形状をしている。
「どうだ? こいつなら、あんたの希望に添える一品じゃないかと思うんだが」
「……僕の鑑識だけでは何とも言えませんが、少なくとも、粗悪品では無いようですね」
「これだけの代物は、ベグニオンでもそうそう手に入るもんじゃないだろう。まあ、後は実際に使ってみてからだろうな」
「そうですね。それにしても……こんなに早く調達して貰えるとは思いませんでした」
「急ぎの注文だって言ってたろう? で、こいつはどうする。持ってくか」
「いえ。後で取りに来させます」
「そうかい。じゃ、わしの所まで取りに来るよう言っておいてくれ」
「それで代金の方ですが……前にも話した通り、後払いで構いませんか」
「ああ、それなんだが、やっぱり代金はいらんよ。少し早いが、わしらからの戦勝祝いだ」
「ですが……」
ムストンの心遣いに、セネリオは困惑した。他人に借りを作るのが、どうしても躊躇われたからだ。
ムストンもムストンで、かつてのクリミア軍軍師殿の性格が気難しい事を知っていたからだろう。ぽりぽりと頬を掻きながら何と言うべきか二、三秒考え込んだ後、両腕を組んでこう言った。
「……わしらにはよく解らんが、もうすぐ戦争が終わるっていうこの状況で、こんな物が急に必要になった。それも解放軍からの注文としてじゃなく、わざわざあんた個人の注文でこっそり取り寄せるっていうことは……何かあったんだろう? 大っぴらに出来ないが、重大な出来事が」
セネリオは答えなかった。ムストンもまた、答えを期待していた訳ではない様子だった。
「色々と厄介事を抱え込んでいる最中なんだ。こいつの支払いまで抱え込んで、負担を増やす事はない。祝いとしちゃ無骨な品だが、貰ってくれ」
「……解りました。ありがとうございます」
誰があの剣を取りに来るのかを、ムストンは敢えて尋ねては来なかった。今のデイン解放軍の中で、これ程の大剣を悠々と使いこなせるような兵士はただ一人……アイクぐらいしかいないからだ。
漆黒の騎士が生きていた以上、かの騎士とアイクの再戦は最早避けられないだろう。それがいつの事になるか解らない以上、なるべく質の良い剣をアイクに持たせておく必要があるとセネリオは判断した。本当なら神剣ラグネルがあれば良いのだが、あれはベグニオン帝国の始祖オルティナが使った宝剣だという事が戦後に発覚したため、ベグニオンに返還されている。おいそれと借りられる立場でも状況でもない。
そのアイクは現在、どこで何をしているのだろうか。セネリオは彼を捜して少し野営地を歩き回った。しかしながら他に優先させるべき仕事が残っていた為、仕方なく、そこら辺を歩いていたツイハークを捕まえて伝言を申しつけた。
だが、出来ることならば、アイクの様子を自身の目で確認しておきたかった。
兵士達の様々な心情を孕んだ視線を一身に浴びながらも、アイクは沈黙を保っていた。
忠義も誇りもない。金銭のためなら、かつての敵国とも共闘する汚い傭兵―――兵士達の目にはアイクの事が、そんな風に見えているのだろう。それをかばい立てしきれない今の自分の立場が、セネリオは憎らしかった。
グレイル傭兵団とデイン解放軍は、表向きは契約している事になっているが、実情はセネリオに対する義理でただ働きしている状態だ。だが、その辺りの理由を兵士達に説明しようとすれば、セネリオとグレイル傭兵団の繋がりを説明しなくてはいけない。果てはセネリオの母であるアムリタが、竜鱗族だという事にまでも言及する事態になるかもしれない。
母の安全のために、アイクに泥を被らせている……その事をセネリオが謝ると、アイクは「気にするな」と言ってくれた。だが、例えアイク当人が構わなくても、セネリオの心苦しさは募る一方だ。
アイクが傷つく事だけは耐えられない。なのに、今の自分は何も出来ずにそれを見過ごしている。そうまでして自分が何を守っているのか、今のセネリオは見失いつつあった。
以前は違った。アイクの為だけに戦っていた。彼だけが大事だった。この世の倫理も常識も関係ない。アイクが生きてさえいればどんな事も出来たし、何が犠牲になろうと構わなかったのだ。
なのに……今の自分は、アイクに犠牲を強いている。代わりなどどこにもいない、たった一人の大事な人に対して。
自分が、アイクを犠牲にして守ろうとしているもの……それがデインという国だったなら、まだセネリオも耐えられたかもしれない。政の為にに私心を捨てるのは当然の事だと考えて、アイクの事とデインの事とを切り離して考えられたかもしれない。
だが、そうでない事はセネリオ自身がよく承知していた。
……解らない。どうして、自分はこの現状に縛られ続けているのだろうか?
あの人が今、どんなに僕を愛しているとしても。
僕はもう、あの人と離れた時の赤子ではなくなってしまったのに。
一番あの人を必要としていた時間は、とうに過ぎ去ってしまったのに。
「あーっ! 今の、いい感じだったのにっ!」
剣の打ち合いに負けたエディは、訓練用の剣を悔しげにぶんぶん振り回して地団駄を踏んだ。
「いや……いい感じどころか、全然駄目だったと思うよ、今のは。最後の一撃なんて、半ばやけくそだったじゃないか」
離れたところで打ち合いを眺めていたレオナルドが、的確かつ率直な発言を相方に放つ。
「あれは、渾身の一撃ってやつだよ!」
「剣に関しては素人の僕から見ても、今の一撃は……隙が大きかったと思うんだけど」
「そうだな。レオナルドの言う通りだ」
エディの相手をしていたアイクが、レオナルドの指摘に同意した。レオナルドはともかく、自分より遙かに腕前が上のアイクに言われては、エディも素直に事実を受け止めるしかない。
「まあ、いきなり重いのを入れられてこっちも少し驚いたが……さっきのは振りが大きすぎる。俺は受けただけだったが、俺より身のこなしが速いワユが相手だったら、受け流された上に反撃されてただろう」
「ああ……そっか、確かに……」
「戦場でお前が相対するのは剣士だけじゃない。それに、同じ相手と戦場で二度やり合うことは殆どない。だから隙は見せるな。相手がどんな手を使ってくるか、解らんのだからな」
「はい……解りました」
あの賑やかなエディが、柄にもなく殊勝な態度でアイクの指導に耳を傾けていた。
野営地の外れで行われているこの練習風景に映っているのは、練習中のエディと指導担当のアイク、見学者のレオナルド。それにキルロイが、ライブの杖を携えてレオナルドの隣に腰を下ろしている。キルロイはアイクが剣を教えると聞いて、怪我でもしないかと心配で駆けつけてきたのだ。
「そういやさあ、レオナルド。お前、弓の練習はいいのか? 昼飯の時、午後も練習するって言ってなかったっけ」
「えっ? ああ、うん……その、やろうと思ったんだけど……シノンさんに止められたんだ」
「なんで?」
「……それが……僕が練習してると、気が散るって言われて。どういう意味なのかな……僕が下手だから?」
すると、キルロイがそれを聞いて苦笑した。
「シノンは素直じゃないからね。素直に一言『練習し過ぎで肩を壊すんじゃないか心配だ』って、言えばいいのに……」
「それじゃあ、僕……あの人に心配されていたんでしょうか?」
「多分、そうだよ。シノンは子供には優しいんだ。複雑な性格だから、すごく解りにくいと思うけれど」
当人が聞いたら舌打ちしそうな事を、キルロイはすらすらと口にした。
「俺達も休憩するか、エディ?」
「えー、もう一回! もう一回だけお願いします! アイクさん、まだ疲れてないだろ?」
「とは言っても、俺とお前じゃ体力が違うからな」
エディを休ませるべきかどうかキルロイが逡巡していたところに、ツイハークが姿を見せた。
「やあ、剣の稽古かい?」
「ああ、エディに稽古をつけていた」
「そうか。お邪魔じゃないなら、少しいいかな。王子から、君宛に言づてを預かったんだ」
ツイハークがアイクに伝えた内容は、後でムストンを訪ねるように、というものだった。急ぎの用事ではないそうだったが、アイクは今すぐ向かうと言った。エディを休憩させる理由が出来たからだろう。すぐ戻ると言い残して、彼はその場を後にした。
まだ稽古の興奮冷めやらぬエディが、額に浮かんだ玉の汗を袖で拭う。何が何でもアイクから一本は取りたい様だったが、剣術には素人のキルロイから見ても、アイクとエディの今の技量には大きな差がある。無理をしすぎてエディが怪我でもしないか、それが心配でならなかった。
「アイクが戻ってきたら、また稽古を再開するのかい」
ツイハークがエディ達にそう訊ねる。多分そうだろう、とレオナルドが答えると、ツイハークはそれなら見学させてもらおうかなと言って、キルロイの隣に腰を下ろした。
「彼が人に剣を教えているところは、見た事がないからね」
そういえばそうだな、とキルロイは思った。
アイクは教えるよりも教わりたがる方で、今日のように人に剣を教えているところは見た事がない。それもエディによると、稽古を頼んだところ、アイクはすぐに了承してくれたというのだ。ワユからの稽古の申し込みさえ渋っていたというのに、珍しい事もあるものだと思う。どういう心境の変化があったのだろうか。
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