それは、ミカヤがジェルド将軍に襲撃されるより、少し前の出来事だったという。
宴席で調子に乗ってほいほいと酒に手を出しまくったエディは、案の定、泥酔して野営地の外で戻してしまった。そんな彼を傍で介抱するレオナルドもかなり酔いがひどく、身体がふわふわと揺れて落ち着かない。
一通りエディの気分が落ち着いたところで後始末をした二人は、その時ちょうど、茂みの向こうに怪しげな気配を感じた。若年ゆえの好奇心に駆られて二人は様子を見に行ったが、後から思えば相当危険な行動だった。二人が察知した気配は、野営地の様子を伺っていた帝国軍兵士のものだったのだ。
そこに至るまでの経緯が経緯なだけに、当然、エディもレオナルドも武器の類は持っていなかった。しかし幸運にも、森の方へ向かう彼らの後ろ姿をオスカーとボーレが見かけ、ついて来ていたのだ。
オスカー達としては単に、夜の森は迷う可能性があり危険だからという理由で二人の後を追ったらしいが、今晩は違う意味で危険な森であった。無論、彼らもまたエディ達と同じく丸腰だったのだが、敵兵から武器を奪って応戦したらしい。
とはいえ、突然の出来事と人数差に形勢は不利であったが……そこへ突風のように忽然と現れ、戦況をひっくり返した者がいたのだ。
「……漆黒の騎士、あいつが、生きていた……」
驚きのあまりか、アイクは一瞬呆然とした表情を見せたが、すぐに口元を引き結んで堅い表情に変わった。彼が視線の先に見ているものは天幕の天蓋ではなく、おそらく、三年前に退治した、かの仇敵である騎士の立ち姿なのだろう。
「間違いないよ。というか……見間違いようがないな。あの重厚な黒い鎧、それにあの剣の腕前……私が間近で見たのはメリテネ砦での一度きりだけれど、あれは、漆黒の騎士だ」
「おれも兄貴と同じ意見だ。あいつは、纏ってる空気が違う。それはアイク……お前の方が分かるだろ」
オスカーとボーレの言葉に、アイクが重く頷いた。
「……あいつが生きているのは、あり得ない事じゃない。留めは刺せなかったし、死体も確認していなかったからな」
「そうね……」
ティアマトも暗い表情で同調する。
「けれど……あのナドゥス城の崩壊に巻き込まれてなお、生き延びていたなんて……」
「……あいつは……何か、妙な力を持っていた」
アイクは何か思い出したようだった。漆黒の騎士が妙な力を持っていたという話は、セネリオ達には初耳だった。
「アイク。それはどういう事ですか? 妙な力……とは?」
「俺の前から去っていく時、あいつはいつも妙な……魔法みたいなものを使って、一瞬で移動していた。他の事にばかり気を取られていて、そっちについてはあまり印象に残っていなかったんだが…」
「漆黒の騎士が、魔道の力を持っているという事ですか」
「分からん。だが、俺と剣でやり合っている時のあいつは、魔法の類は一切使ってこなかった。それは確かだ」
セネリオは今までの自分の知識とアイクの説明を照らし合わせてみたが、漆黒の騎士が使ったという移動能力については、それが何なのか解明する事は出来そうになかった。ここがベグニオンの帝都マナイルなら、関連する情報を探し出して解明する事が出来たかもしれないが。
「でもよ……漆黒の騎士にそんなとんでもねぇ力があったんなら、なんで三年前の戦いでは、直接アイクのところに殴り込んでこなかったんだ?」
「そもそも……彼は一体、何をしに今夜現れたんだろうね」
その通りだった。
考えてみれば、三年前の戦争では結局、漆黒の騎士の全貌を掴みきれなかった。死体も確認出来ず、正体も分からずじまい。生き残ったデインの武官・文官の誰も、かの騎士の素性を知らなかった。どうやら長年デインに使えていた武人ではなく、新参だったということしか分かっていない。アシュナード王には重用されていたが、王自身どこまで漆黒の騎士の素性を把握していたかも怪しまれる。
「妥当なところで、復讐……でしょうか。アイクに対する」
「三年前やられたからってか? そりゃないだろ、あくまで一騎打ちだったんだし」
「ボーレの言う通りだな。あいつはそういう性格じゃないと思う。もし俺にまた戦いを挑んでくるとすれば、前の時と同じ、一騎打ちを申し出てくるだろう」
アイクが再び漆黒の騎士と剣を交える。かの騎士が生きているという事は、すなわち、そういう事だ。
「……みんな、ミストにはまだ言わないでおいてくれ。あいつの狙いが、はっきり俺と決まったわけじゃない。あいつの目的が判るまでは、ミストを不安がらせたくない」
「そうね……その方がいいわ。でもアイク、くれぐれも身の危険には注意するようにしてね」
「分かっている」
話が一旦落ち着いて場が静まりかえった。そこに何というタイミングか、ミストが天幕に入ってきたものだから皆驚いた。もしや、今までの会話を聞かれてしまっていたのではないか。
「あっ……ごめんなさい。まだお話し中だった?」
平然としたミストの様子からに察するに、今までの会話は聞かれていなかったらしい。皆、内心安堵した。
「いえ……もう終わったわよ。どうかしたの?」
「アムリタ様が……」
アムリタ様が。それだけで用件はすぐに判った。彼女がセネリオを探しているのだろう。
「今行きます」
漆黒の騎士が現れたことが、この戦いにどのような意味を持つのか。そもそも何故、今になって現れたのか。
セネリオはそのような事を、母の待つ天幕に向かう道々考えていた。
仮に、三年前の対決をきっかけに漆黒の騎士がアイクに強い関心を寄せ、彼との再戦を望んでいるとする。その為には、アイクが今回の解放戦争を生き延びることが重要な筈だ。
ならば、今回は漆黒の騎士が敵に回ることはないだろう。少なくとも、今は。その証拠に、彼は先刻森の中で帝国兵を撃退している。
これまでの漆黒の騎士の行動から推測出来るのは、彼(まだ正体が男性と決まった訳ではないが)は少なくとも、デインという国に忠誠心を以て仕えていた訳ではないらしいという事だ。もしもデインに忠節を誓っていたのなら、三年前の戦いで手段を選ばず、アイクとエリンシアの首を討ち取っていただろうから。
従って……敵には回らないだろうが、デインに忠節を誓っていないのなら、味方に回ることもないだろう。最も、はなから味方にするつもりもない。彼は、アイクを殺そうとしたのだから。
「セネリオ、ちょっといいか」
アイクが後を追いかけてきた。母の元へ向かう途中だというのに追いかけてきたからには、何か用事があるのだろうとセネリオは思った。母の元に行く時は、誰も……特に、アイクは連れて行かないようにしている。
「どうしました、アイク?」
「さっきの話なんだが、気づいた事があってな」
アイクは小声で話を始めた。
「俺が狙いなんじゃないかとお前は言ったが……他の狙いは、考えられないか?」
「他の狙いですか? 一体、何故……」
「あいつはデインという国や、アシュナード王に心から仕えていた様子じゃなかった。デイン軍の中でも新参で、誰もあいつの素性を知らなかった。多分、何か目的があってデイン軍に参加していたんだろうが…その目的は、少なくとも、親父や俺と戦う事じゃないと思うんだ」
「……確かに……アイクと戦いたいだけなら、デイン軍に加わる必要はありませんね。つまり、あの騎士がデイン軍に加わっていたのには、そこに何らかの利点があったから……」
「三年前の戦いでも、あいつは俺を狙うのと同時にリアーネを攫っている。だから……今回のあいつの目的や素性がはっきりするまでは、俺だけじゃなく、誰もが警戒するべきだろう。かといって、あいつが生きていたなんて皆に触れ回る訳にもいかんが……」
この事を知っているのは目撃者であるエディとレオナルド、それにオスカーとボーレと、騒ぎを聞きつけたサザとティアマト、連絡を受けたアイク達だ。タウロニオには話を通すことになるだろうが、他の者に知られるのは無用な混乱を招くだろう。
……とはいえ、あの【暁の巫女】にはすぐに知られるのだろうなとセネリオは思った。あの察しの良さは多分、彼女自身の先天的な能力なのだろう。幸い、彼女は口が堅そうだが。
「……セネリオ? セネリオ、そこにいるのですか?」
アムリタの声に二人は振り返った。天幕で待たせていた母が、いつもの黒いドレスにショールを纏った姿で外を出歩いていた。
今夜の彼女は気分が優れないと言っていたし、宴の喧噪を嫌って天幕に引き籠もっている筈だった。だが、彼女がこうして突然息子を呼んで捜し求めるのは、何も今夜だけに限った話ではない。
アムリタはセネリオを見つけると嬉しそうに破顔したが、その傍にアイクがいるのに気づくと、きっと眉をひそめた。
「……あなたまで呼んだ覚えはないわ。お下がりなさい、わたくしは息子と二人で話をしたいのです」
「解った……この話はまた今度な」
アイクはセネリオにそう告げると、さっさと踵を返してその場を去った。下手にアイクを引き留めるとアムリタの機嫌が悪くなることは、分かっていた。
アイクだけでなく、アムリタは誰に対してもこのような態度だ。竜鱗族の王女として大陸最強の種族の頂に生まれ、ベオクは勿論のこと、他のラグズすら下に見てきた彼女にとっては、他の男……ましてベオクの男など、自分に跪き傅くべきものなのだろう。ここは彼女の故郷ではないのだから、あまり兵達をぞんざいに扱うのはどうかと思うが……今の彼女にそれを言っても、おそらく理解は得られまい。
この母は心を病んでいる……あるいは、そこから回復している途中の様にセネリオは思う。時々、精神が不安定な状態になるのだ。そういう時の彼女は一人で引き籠もるか、今のようにセネリオを呼びつける。ただセネリオと話しているだけで気分が落ち着くらしいのだが、セネリオの方にも色々とするべき事があるから、母の呼びつけに毎回応えてはいられないが、それでも可能な限り時間を割くようにはしていた。……セネリオ自身、驚いている事だが。
「どうかなさったのですか……母上」
母、と呼ぶこと。これには未だに慣れないし、口にする度全身に緊張が走る。それでも呼ぶのは、彼女が喜ぶから。ただそれだけだった。
不思議だった。自分が喜ばせたいと思う相手は、いつでもただ一人だけだったのに。
「先程から、辺りの"気"が落ち着かなくて……あなたに何かあったのではないかと、わたくしは心配でならなくて……」
またか。
この女性はとにかく勘が鋭い。近くで何か騒ぎが起こると、すぐに気づくのだ。本人にそれを指摘してみると、竜鱗族というものは"気"というものの影響を受けやすいのだと答えた。化身能力を失っても、そういう能力はまだ失われてはいない様だ。
化身出来ずとも、完全なベオクになった訳ではないのだという事。それが竜鱗族としての彼女の誇りを繋ぎ止めている。
「帝国兵の襲撃がありましたが……既に撃退しました。ご安心下さい」
「そう、それなら良いのです。ところで……兵達が話していたのを耳にしたのですが、あの娘が何か騒動を起こしたとか」
あの娘、というのはおそらく、ミカヤの事だろう。
「敵の主な狙いが、彼女だった様でして」
「……それで、あの娘は? 無事だったのですか」
言葉とは裏腹に心配などまるでしていないだろう冷たい口調で、アムリタがそう訊ねる。セネリオがそうだと答えると、彼女はこう零した。
「……わたくしは、あの娘はあまり好きません」
セネリオだって好きではないが、それは敢えて言わないでおく。こういう時の母は単に愚痴を零したいだけなのだから、黙って聞いているのが一番だった。
母の、ミカヤに関する愚痴は、二人で天幕に入ってからも続いた。兵達の人気を集めている事、前の作戦でセネリオと対立した事、例の【癒しの手】の力の事。気に入らない点は枚挙に遑がないらしい。多分それら全てをひっくるめて、生理的にミカヤのことを受け付けないのだろうが……その根本的な理由はおそらく、彼女の体質だ。しかし、当のアムリタにはそれが原因だという自覚はない様だった。おそらくもう、自覚する事も出来ないのだろう。
ひとしきりミカヤに関する愚痴が済んだところで、これで気分も落ち着いたか、とセネリオは思った。だが、アムリタは別の話題を振ってきた。
「ところで……セネリオ、あの者の事なのですが」
「……あの者? 誰の事でしょうか」
「あの、アイクという者の事です」
勘弁してくれ、とセネリオは思った。ミカヤについての愚痴ならそれ程苦もなく聞いていられるが、アイクについての愚痴は、あらゆる意味で耐え難いのだ。アイクを悪し様に言う母にも、それを咎める事の出来ない自分にも。
母に関しては、正直な所、我慢させられる事の方が多い。ただ、何故そうして耐えているのがが自分でも解らない。先程、母がアイクを退けた事だって、もしも他の人物がアイクにあのような態度を示したなら、セネリオはすぐさま毒のこもった言葉を叩き付けているところだ。それなのに。
「以前にも言いましたが、あの男を特別扱いするのはお止しなさい。先程も親しげな口を利かせたりして……あれは所詮、只のベオクの戦士。臣下としての身分を弁えさせなさい」
ミカヤだけでなく、アムリタはアイクの事も好いてはいない様だった。こればかりはどうも理由が解らない。ミカヤの様に、気に入らないところを挙げてくれれば解るものを。
だが、嫌われている当人のアイクは、アムリタにそう思われる理由を理解しているようだった。しかしながら具体的にどういう理由なのかセネリオが訊ねても、何故か彼は教えてくれない。いつも率直な彼らしくない事だった。
……解放軍を指揮するようになってから、いつしか、アイクとの間に隔たりが生まれた。護衛役として誰よりも共に行動している筈なのに、誰よりもアイクが一番、自分から遠のいてしまったと感じている。それは、母の存在が原因なのだろうか。
アイクにだけは嫌われたくない。今も昔もそうだった。けれど今はそれと同じくらい、何故かどうしようもなく、目の前の女性にも嫌われたくないと思ってしまうのだ。
だから、どうしたらいいのかが解らないでいる。
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