境界線のその先に(11)
ミカヤは背後の木を背にして、ジェルドを注視しながら立ち上がった。そうして、ジェルドから目を背けずに辺りの様子を伺う。
彼女の目で確認出来るのはジェルドだけだったが、まさか単身で敵陣に来る筈もあるまい。どのくらいの人数かは判らないが、周辺に部下を潜ませている筈だ。
ジェルドの双眸には殺意が宿っていた。その心の中に失望と憎悪が滾っているのを、ミカヤは例の力で感じ取った。どうやら、彼らはヌミダ総督に全ての責を押しつけられ、謀殺されようとしている様だった。それはあり得る可能性として、ミカヤ達の昼間の会議で話題になった事だ。だがこんな風に、彼らが破滅の淵に転落していく前に、自分たちをそこへ追い込んだデイン解放軍……特に、ミカヤを道連れにしようとする事までは誰も思い至らなかった。
以前にクヌ沼で捕まった時とは違う。確実に殺される。どう見ても、ミカヤ一人だけで凌げる状況ではなかった。ジェルド一人だけでも勝てないかもしれないのに、囲まれて一斉に攻撃されれば捌ききれない。
けれども、ひょっとしたら誰かが気づいて駆けつけてくれるかもしれない。ミカヤが宴席にいない事は、少なくともジルだけは知っている。それに無礼講とはいえ見張り番は立てているから、不審な物音を聞きつける兵がいるかもしれない。
だから、そう易々と殺されてやる訳にはいかない……ミカヤはそう思い、光魔法の書を強く胸に抱いた。これだけが、今の彼女の頼りなのだ。
「ほう……多少は成長したようだな。以前は、構えても隙だらけだったのに」
そういうジェルドの方こそ、隙がない。ミカヤが魔法を使う素振りを見せれば、即座に踏み込んでくる体勢だ。
「お前のおかげで俺たちは滅びる。だが、どうしても道連れが欲しくてな……迎えに来てやったぞ」
「……わたしを殺しても、何も変わらないのに? 王子がいらっしゃれば、デインは再び王国として復活するわ」
「はっ……王子か。確かにそうだろうな……お前のところの王子は大した軍師だ。いい手駒も揃えている様だしな……だが、それだけだ」
「どういう意味? あなたは王子に、デイン国王たる資質がないと言うの?」
ミカヤの問いに、ジェルドは鼻でせせら笑って答えた。
「あの王子には、致命的に足りないものがある。祖国解放に燃えるデイン国民どもを纏めるのに必要不可欠なものがな。そして、それを持っている人間はここにいる……お前のことさ、【暁の巫女】!!」
素早い、長年の訓練と経験を積んだ戦士の踏み込み。ミカヤは咄嗟に後ろに飛び退き、槍の切っ先をかわした。だが目測を誤ったのか、または避けるのが遅れたのか……槍の切っ先はミカヤの右手をかすめた。痛みにミカヤが顔をしかめるが、どの程度の傷を負ったのかは暗くてよく解らない。じっくり観察する余裕も無かった。
ジェルドは今の一撃でミカヤを仕留めるつもりではなかったのだろう、にやりと口元を笑みで歪ませた。
「デインの民が崇めている光は、王子ではない。お前だ。だから、俺はお前を奪う。このデインという国から、お前という光を奪ってやるのさ」
「いいえ……希望は消えない。あなた達がどれほど押さえつけようと、みんなの心の中には希望があった。例えわたしが死んだって、その気持ちは消えたりしないわ!」
「なら、試してみようじゃないか?」
ジェルドの表情から笑みがすうっと消えた。
「出来ることなら嬲り殺しにしてやりたいが、こっちも崖っぷちに立たされている状態でな……時間がない。じゃあな、【暁の巫女】。俺とお前、どっちが正しかったか……もしも死の先に世界があるなら、そこから確かめてみるんだな!!」
ジェルドが槍を突き出した。切っ先の向かってくる方向を見極める時間は、ミカヤには与えられなかった。右か左か、咄嗟に避けるならどちらかであったが、ミカヤが選んだ方向はジェルドが槍を突き出した方向と同じであった。完全に判断を違えたまま、それ以上かわすこともミカヤには出来ない。刺し貫かれる!


しかし、剣戟の音が二人の聴覚を貫いた。
次の瞬間、ジェルドが呻き声を上げ、ミカヤの視界一杯に黒いマントが翻った。否、月光の下でそれは黒く見えるだけで、実際の色は茶色か赤のようだった。
何処から現れたか、マントを身につけた人物がミカヤとジェルドの間に、ミカヤを庇う形で割って入っていた。マントが夜風でまくれ上がるその下の脛当てを付けた脚と、手甲を付けた手を見て、ミカヤは目の前の人物の正体に思い当たった。
広い背中、逞しい肩の上に乗った短髪の頭。長い鉢巻は使い込まれていて、端がすり切れている。以前、洗い立てのそれが地面に落ちていた事があって、ミカヤが拾い上げて持ち主を捜していると、ツイハークが教えてくれた……それが、誰の物か。
「あ、あなたは……!?」
ミカヤの前に立つ男……アイクは、彼女に背を向けたままこう言った。
「下がっていろ」
アイクは剣を抜いていた。これまで同じ軍に所属していたものの、アイクが戦闘態勢を取る姿をミカヤは初めて見た。剣術に関しては素人のミカヤでさえ判る、歴戦の勇者の構え。ジェルドもその立ち姿を見て、相手が只者でないこ事を察したようだ。
「お前は何者だ?」
ジェルドが訝しがるのも当然だった。駐屯軍は、解放軍の主力となっている兵士に賞金をかけていた。例を挙げれば元デイン軍人のタウロニオやジル、戦場で先陣を切ることの多いティアマトやワユ、そして勿論ミカヤやセネリオもだ。
だが、その賞金首の中に、アイクはいない。王子の護衛として常に本営に控えていた彼の姿が、駐屯軍の目に晒されたことは一度もなかった。だからジェルドにしてみれば、これ程の手練れが解放軍にいるなど、初耳だったろう。
アイクはジェルドの問いに答えなかった。わざわざ名乗る必要もないだろう。彼がジェルドの敵であるのは、ミカヤを庇っている体勢を見れば一目瞭然だ。
真上に登った月の光が、アイクの身体を照らした。ミカヤとアイクから見て逆光になるそれは、アイクの面差しをくっきりと現す。青い髪に大剣を携えたその容姿を見て、はたとジェルドは思い当たったらしい。アイクを凝視しながら、こう尋ねてきた。
「貴様は、まさか……あのクリミアの英雄、アイクか?」
アイクはやはり答えなかったが、この状況で沈黙は肯定と等しい。ジェルドは笑い声を上げた。
「なるほど……反乱軍の全戦連勝。王子の知謀と巫女のカリスマによるものかと思っていたが、それに加えて、まさかあのグレイル傭兵団の力があったとはな。それにしても……救国の英雄と称えられても、所詮は傭兵か。自分が潰した国の解放戦争に協力するとは、ろくな主義主張も持っていない、金が全てということか?」
「俺たちの行動をどう解釈しようと、あんたの自由だ。だが、邪魔はさせない。こいつを殺させる訳にはいかない」
「ふん、まあ……俺の方も、貴様ら傭兵の主義主張なんぞどうでもいいさ。あのアシュナード王を打ち倒したのは貴様なんだろう? 【暁の巫女】と貴様……地獄の道連れとしては十分だな」
「断る」
「はっ、だろうな!」
ジェルドが指を鳴らすと同時に、茂みから何人ものデイン兵士が姿を見せた。辺りを囲まれた形になっている。アイクは周囲を一瞥すると、ミカヤを担ぎ上げた。突然のことにミカヤは驚く。
「えっ、あのっ……!?」
「悪い、じっとしててくれ。というか、あんた軽いな」
「わたしも戦います!」
「そんな状況じゃない」
それは即ち、ミカヤに自分の背中は預けられないという事か。ミカヤは悔しさを感じた。
しかし、アイクが襲い来る敵兵を薙ぎ払っていく様を見ていると、サザから聞かされていた彼の強さを目の当たりにすると、自分が足手まといになるだろうと認めざるを得なかった。アイクは背後からの攻撃さえ、ミカヤが注意するより速く反応してしまう。ここまでいくと、技量というより最早勘だろう。
あらかたの敵兵を片付けたところで、彼はミカヤを降ろした。それから、ただ一人残ったジェルドと相対する。
「……あんたの負けだ、降参しろ。今なら元老院に口を封じられる前に、あんた達を、神使に引き会わせてやれるかもしれん」
「へっ……情け深いことだな。だが……敵である貴様らにすがってまで、生き延びるつもりはない。そら、来るがいいさ!」
「……それが、あんたの軍人としての誇りか。解った」
アイクは素早く踏み込み、ジェルドに斬りかかると、力強い一撃で彼の反撃を受け流した。全ては一瞬で流れるように決着がついた。
「くっ……!」
「終わりだ」
アイクはそう言うと、ジェルド目がけて大剣を振り下ろした。
しかし、その剣はジェルドの息の根を止める事はなかった。倒れ伏していたはずのジェルドの部下の一人が躍り出て、アイクの一太刀をその背中に受けたのだった。
「……アルダー!? お前……何故ここに! お前は、陽動隊を任せた筈では……」
ジェルドは崩れ落ちる部下の身体を抱えて、その名前を呼んだ。どうやらジェルドの部隊とは別に、解放軍の注意をミカヤから逸らす為の陽動隊がいた様だ。となると、ミカヤ達のいるところからでは判らないが、野営地でも一騒動起きている筈だ。
「……ジェルド将軍……あなたは……滅茶苦茶な上司でしたが……そ……れでも………私も……部下たちも……みんな……あなたを、慕って……」
アルダーという名の兵士は途切れ途切れな言葉でそう言い残すと、そのまま上官に看取られながら、息を引き取った。


結局、アイク達はジェルドに留めを刺さなかった。部下の亡骸を抱いて逃げ帰る彼を、敢えて追うことはしなかった。
最も、彼はこれで諦めるような性格ではないだろう。今度会うまでの間にますます憎悪を膨れ上がらせ、そして再び、ミカヤ達の敵となって立ちはだかるのだろう。
「……あの……」
ミカヤは礼を言おうとして口を開いた。だが、アイクが自分の顔から少し下の方に視線を向けている。
ミカヤはそこで初めて、自分が怪我をしていたことに気づいた。痛みを殆ど感じないので全く気づかなかったが、右手の甲から血が流れていた。先程ジェルドにつけられた傷だろうか。手袋が手首の辺りまで切られていて、その下の【印】が露わになっていた。
まずい! ミカヤは素早く、その手を胸の中に覆い隠すように抱いた。……血の気がひいた。まともにアイクの顔を見ることが出来ず、俯いたまま押し黙る。アイクもまた沈黙していて、しばし気まずい時間が流れた。
「ミカヤ、どこだ!?」
サザの呼びかけが聞こえた。程なくして、藪を掻き分けてサザの姿が現れる。彼はミカヤとアイクの姿を見つけると一瞬安堵したが、周囲に倒れている帝国兵の死体を見ると顔色を変えた。
「ここにも、駐屯軍の奴らが来てたのか」
「という事は……他の場所にもいたのか?」
「ああ、どうやら火を点けようとしてたらしい。そっちは発見が早かったから無事だったんだが……ミカヤと団長は?」
「俺は問題ないが……」
アイクがミカヤの方を向く。ミカヤは彼の方をあまり見ないようにして、サザを見た。
「ミカヤ……怪我したのか!?」
「ええ、でも……ほんのかすり傷よ、大丈夫。心配は要らないわ」
「そうか……それなら良かった。でも一応、早めに手当しておいた方がいい。行こう」
「でも、何があったのか王子に報告しないと……」
ミカヤがそう言うと、噂をすれば何とやら、セネリオが現れた。
「サザ、二人は見つかりましたか」
「ああ、無事だった様だが……どうやら奴ら、こっちにも潜んでいたらしい」
セネリオはミカヤとアイクの様子、それに辺りの死体を一目見ると、アイクにこう言った。
「何があったかは後ほど聞くとして……アイク、少しいいですか?」
「ああ、そうだった。団長に話したい事が……でも、ミカヤが怪我して……」
サザがそう言って逡巡すると、アイクは、
「話は王子から聞く。お前はキルロイの所まで付き添いに行ってやれ」
と言って、サザの返事も待たずにセネリオと共に野営地に戻って行った。
「……ミカヤ、どうしたんだ?」
いつまでもミカヤが黙っているせいだろう、サザが心配そうな顔色でミカヤの顔を覗き込む。
「怪我が痛むのか」
「ううん、そうじゃないけど……」
ミカヤとしては、ついさっきジェルドに襲撃されるまでに考えていた事の内容が内容だけに、サザに対して後ろめたかった。それに。
「……あのね、サザ……さっき……これを、あの人に見られたの」
ミカヤは怪我を負った右手をサザに見せながら、そう言った。
「アイク団長に?」
「ええ……」
「……それで……何か、言ってたのか?」
「ううん、何も……言わなかったわ」
「何も言わなかったのか……『それは何だ』とも、訊かれなかったのか」
ミカヤは頷いた。
アイクはこの【印】を見て顔色を変えながら、しかし、何も尋ねてこなかった。それはつまり、彼がこの【印】に関して、多少の知識があるということを示している。
「……団長は……言い振らすような人じゃない。大丈夫だ、多分」
ミカヤとしても、そうあってほしかった。もしもアイクの口からミカヤの秘密が軍内部に漏れてしまえば、ミカヤは解放軍を去らざるを得なくなる。いや、解放軍を去ることは前々から考えていた事なのだが、ミカヤが軍を追われるという事は、同時に、サザが決断を迫られるという事でもあるのだ。ミカヤを選ぶか、仲間を選ぶか。
それは……今は駄目だ。
今は……



サザとは、共に、生きていけない。



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