戦いは終わった。
駐屯軍のデインにおける苛烈な支配の有様が、ようやく神使サナキの耳に入り、彼女が動き出したのだ。そしてベグニオン本国からデインに視察団が派遣される事になり、それに先立って同時に駐屯軍・デイン解放軍の両方に軍事行動の停止命令が下された。その視察団の長がペルシス公セフェランだと聞いたセネリオは、使者の通達を快く受け入れた。
「わたしはペルシス公にお会いした事はないのですが……どのような方なのですか?」
ミカヤがセネリオ達にそう尋ねると、トパックが意気盛んに答える。
「すっげーいい人! なよっとした姿に似合わず、めちゃくちゃ切れ者でさ。何度か会ったことあるけど、他の貴族たちと違って、おれ達にも親切にしてくれるんだぜ」
サザが脇からそれに補足した。
「ペルシス公は元老院議長だけど、帝国宰相も兼任していて、神使派なんだ。一方、駐屯軍の総督であるヌミダ公爵は元老院派。神使派と元老院派が対立してるっていうのは、前にも説明したろ?」
「ええ。それなら……わたし達解放軍の主張に耳を貸して下さるわね、きっと」
「ああ、信用していいと思う。例の悪い予感も、今回はしないんだろ?」
ミカヤはこくりと頷いた。
「勅令を受け入れます。ここで神使の意向に逆らうのは、得策ではありませんから」
セネリオはそう淡々と告げた。
「ただ……駐屯軍の動向がこちらと同じく戦闘停止に移るまでは、気を抜かない方がいいでしょう。何が起こるか分かりませんし」
「その方がよろしいでしょうな。すぐに、各地の拠点にその旨を知らせましょう」
この会議に同席しているのは解放軍のセネリオ、タウロニオ、ミカヤとサザ、それにトパックであった。そして、相変わらずセネリオの後ろにアイクが控えている。ムワリムにつけられた頬の傷は、治癒の杖によって綺麗に治り、痕も残っていない。
先日、ムワリムが暴れ出した一件は、その後の調べでイズカの仕業と発覚した。
あの後……意識を取り戻したムワリムは、、イズカから勧められた酒を口にしてから間もなく、体調が急変したのだと語った。彼自身は本当のところ、酒を勧めてきた時のイズカの素振りに、何となく怪しい印象を受けたという。結局断りきれずに飲んでしまったそうだが、まあ、それは彼の控えめな気性からして無理からぬ事だった。
話を聞いたトパックは激高したものの、単身イズカの元に乗り込んで制裁するような行動には走らず、解放軍の総大将であるセネリオに賢明な裁断を求めた。直情的なように見えても、トパックはラグズ奴隷解放軍の首領としての立場や責任を理解している。
セネリオがその後どのようにしてイズカの所業を調べ上げたのかは、ミカヤ達には知らされていない。ただセネリオの話によれば、イズカは問い詰められると即座に、ムワリムに【なりそこない】の薬を混ぜた酒を与えた事を認めた。それどころか、その薬は先王アシュナード王の命により、彼自身が軍事目的で作り出したものだと告白した。
先のデイン=クリミア戦争には参加したサザ達によれば、【なりそこない】と化したラグズは、確かに戦場では強敵だったという。彼らは通常のラグズより戦闘能力が向上しており、しかも理性をまるで失っているため、死を恐れないのだそうだ。
イズカはそうして【なりそこない】の薬の有用性を説き、今回の解放戦争に薬を使用することを提案したが、セネリオは彼の行動を規律違反として罰し、提案も却下した。
ただ……イズカに対する処罰の内容は、【なりそこない】に関する研究の禁止と関連する書類などの没収、そして謹慎処分に留まった。イズカの行動が彼自身の主張通り、解放軍の兵力増強を目的とするものであったから、セネリオとしてはそれ以上厳しく罰することは出来なかったらしい。それは、デイン国内に未だ反ラグズ思想が根強い事や、イズカが先王の遺臣である事なども併せて考慮した為だろう。今や解放軍には民間からの義勇兵だけでなく、収容所で救出した元デイン軍人も多く加わっているのだ。
トパックやムワリムは……その処分におそらく不満を感じたのだろうが、しかし何も言わなかった。こういう言い方をするのは何だが、彼らはデイン国民ではなく、旧知の仲で共闘してくれている立場だ。だから、このまま何事もなく今回の戦いが集結すれば、彼らとイズカの縁も切れるだろう。それまで我慢してもらうしかないし、トパック自身もそう言っていた。
ただ、ミカヤは、彼がベグニオンに帰国してしまう事を残念だと思っていた。それは彼女自身の惜別の念からではなく、この先のサザの身を案じての事だったのだが。
その日の夜は祝賀会が催され、篝火を焚いた宿営地の中で飲めや歌えやの無礼講となった。安心するにはまだ気が早いのではないか……という声もあったが、視察団から軍事行動の停止を命じられている身。どうせ大人しくしている他ないのなら、急に発生したこの暇を活用して、兵達を労おうという結論に至ったのだった。
エディは食事だけでなく酒にも好奇心を刺激された様子だが、レオナルドまで彼と共に酒に口をつけているのは、場の盛り上がりに釣られての事か。ノイスは穏やかな表情で宴を楽しんでいる。ローラは素面でにこにこと微笑みながら食事をしているが、料理や酒が足りなくなると、率先して用意しに向かっている。
ミカヤはそんな中で、何となくぼんやりとしていた。誰かに勧められるままに手に取った酒杯は、膝の上に乗ったまま殆ど減っていない。彼女は食事にもさほど手をつけていなかったが、その事に気づく者は誰もいなかった。
サザは今、ミカヤの傍にいない。彼は少し離れた、トパックらの座る所に腰を下ろして談笑している。途切れ途切れに聞こえてくるトパックの話し声から察するに、ラグズ奴隷解放軍の昔の出来事を話題にしているらしい。
現在、サザがこの軍で一番親しくしている者といえば、どう見てもトパックだった。ミカヤとしては、もう少しサザと親しい戦友が何人かいてほしいのだが、サザは昔から人見知りする性格だから、これも仕方ないのかもしれない。だが、他の者たちと上手に付き合えていない訳ではなさそうだ。
だから……心配は要らないのだろう。
最近、サザとの間に微妙な空気が漂っているのをミカヤは感じていた。当たり前のように会話もするし行動も共にするのだが、ほんの少し、サザとの間に距離感を感じる。どうやら彼は自分に対して何か思うところがある様だが、それが具体的に何なのか、ミカヤには解らない。
ひょっとしたら、彼は勘付いているのだろうか……この戦いが終わった後、ミカヤがしようとしている事に。だとしたら、予定していたよりも早めに行動した方がいいのかもしれない。サザに気づかれては意味がないのだ。
ミカヤは誰にも気づかれないよう、そうっと席を立った。あまり飲み食いせずにぼうっとしていると、周りの誰かに気を遣われるだろう。かといって考え事は止められそうになかったし、独りになって、ゆっくりと物思いに耽りたい気分でもあった。
幸いにして皆興に入っているのか、ミカヤが立ち上がっても気づいていない。そのままそっと宴を抜け出し、人気のない場所を探した。途中でジルに声をかけられたが、当たり障りのない会話をしてやり過ごす。
そうしてミカヤは、陣の外れにある木の下に腰を下ろして、ふうと大きく溜息をついた。何だか頭がぼうっとするのは、酒が回ったせいだろうか。あるいは自分でも気づかない内に、戦いの疲れが溜まっていたのだろうか。それでも、目を閉じて森の空気を感じていると、ゆっくりと自分が癒されていくように感じられた。
昔から、ミカヤは森が好きだった。森にいると、何となく気分が落ち着く。それに、人目を気にしなくていいから……というのも理由に含まれるかもしれない。
人目。本当に、昔からミカヤがずっとずっと気にしていた事、今も気にしている事だ。これまで一つの場所に留まれず、転々と住み処を替えざるを得なかった。これからもそうだろう。特に、自分の右手を隠し続けるのは、やはり精神的な負担になる。
ミカヤは右手の甲を月に照らしてみた。手袋で覆い隠された下にあるだろう、鮮やかな痣。これを隠し通す為に、この軍でミカヤはサザと共に、色々な場面で嘘や方便を用いてきた。その苦労を思うと、よくもまあ、セネリオはああも堂々とこれを晒しておけるものだと思う。痣のある場所が場所だけに、隠しきれないものなのかもしれない。周囲には【精霊の護符】という事で通しているらしいが、もし真実が露見した時の事を想像すると、ミカヤにはとても同じような真似は出来そうにない。
今のところ、ミカヤはセネリオとは緊張状態にあった。特にお互いの秘密に触れることはなく、必要以上の接触もしていない。だが、この状態がいつまでも続く保証はない。ミカヤとしては全てが公になって破滅する前に、何事もないまま終わらせてしまいたいのだ。そう……ミカヤが姿を消すことで。
これは解放軍に参加してから、ミカヤの頭の中で徐々に固まっていた考えだった。サザには気づかれていない……と、思いたい。こんな事を知られれば、多分サザは怒るだろう。三年前、わざと船を乗り間違えて生き別れになった時のように。
祖国も仲間も大事だが、ミカヤほどではない。サザのあの言葉は嬉しかった。だが、全てを捨ててたった一人を取るという事がどういう事なのか、サザは本当に理解しているのだろうか? デインの路地裏でその日その日を生き延びるのに必死だったあの少年は、こんな自分と、これから先も共に生きていけるのだろうか……同じ時間を共に生きる事が出来ない自分と。それを考えると、ミカヤは空恐ろしくなる。サザに全てを捨てさせて逃げたとしても、その先に待っているものを見るのがたまらなく怖かった。
いっそ、今、軍を抜け出すのはどうだろうか。まだ戦いが完全に終わった訳ではないが、今ならミカヤが姿を消しても、誰も気づかないかもしれない。そんな事を思いついたが、やはり今は止めておくことにした。最後までとはいかなくても、デインを解放して、事が落ち着くまでは皆を手伝いたい。
ふと気づくと、ユンヌがミカヤの肩に舞い降りてきた。初めて会った時から、不思議な鳥だった。夜目も利くし勘もいい。それに……何と言ったらいいのか、普通ではない感じがする。
眠気が襲ってきて、ミカヤは瞼の重みに耐えられず両目を閉じた。こんな所で眠ったら風邪をひくかもしれないが、疲労感には抗えなかった。こんな所をサザに見つかったら、きっと怒られるだろう……。
……どれくらい眠ったのか知れない。一瞬だけかもしれない。だが、耳元でユンヌが立てた鳴き声につられて、眠りについていたミカヤの意識は現実に戻された。
目を瞬かせて辺りの様子を伺う。誰かが、ミカヤから少し離れたところに立っていた。木陰に姿を隠していて、正体ははっきりしない。だがユンヌが騒いだことや、声をかけずにこちらの様子を伺っていることから判断すると、並ならぬ出来事が起こっているようだった。
ミカヤが警戒しながら立ち上がろうとした時、木陰から声が発せられた。
「馬鹿騒ぎから外れて一人きりか……随分不用心じゃないか、【銀の髪の乙女】。いや、今は【暁の巫女】だったか?」
その声には聞き覚えがあった。かつて自分を捕らえた、駐屯軍の中心人物……ジェルド将軍。
ジェルドは木陰から歩み出て姿を見せた。前に会った時と同じ鎧装束に、槍を携えている。朧月夜のもとで、殺意を孕んだ目が鋭く輝いて見えた。
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境界線のその先に(10)