絶望的かと思われていたシフ沼での捕虜救出に成功した事によって、デイン解放軍兵士の、ミカヤを見る目は変わった。彼らは一様に彼女の勇気を称え、その天運を女神アスタルテの祝福によるものだと噂した。
あの方は女神の祝福を受けた御使い、我らを勝利に導く【暁の巫女】だ……――――。
……サザはその噂をあまり快く思っていなかった。確かに捕虜救出に向かったのはミカヤだが、あの窮地を切り抜けられたのは、同行してくれた【暁の団】の仲間たちと、グレイル傭兵団の増援のおかげだ。彼らの存在を無視して今回の功績の全てをミカヤが起こした「奇跡」と見なす事は、当のミカヤ自身が望まないだろう。
何よりサザは、そうやってミカヤを勝手に神格化してほしくなかった。ミカヤは他人と少し違うところがあるだけで、決して、女神の使いなどではない。彼女は人間なのだ、ごく普通の。
……今回の戦いではもう一つ、大きな出来事があった。デイン解放軍の内部に、グレイル傭兵団の存在を知られてしまった事だ。彼らは三年前の戦争でクリミア軍についていたから、解放軍兵士の間に広がる動揺は決して小さくなかった。
だが意外にも、サザ達が憂慮していた程の大きな反発はなかった。その理由はどうやら、彼ら傭兵団が命令違反を犯してまでミカヤ達の救援に向かった事が、兵士達には好意的に受け止められたかららしい。少なくとも傭兵団の者たちを表立って非難する声は、今のところは見られなかった。
ただし、団長のアイクを除いては。
シフ沼に駆けつけたグレイル傭兵団の中に、団長であるアイクの姿はなかった。ひょっとして王子どころか、団長への断りもなく自分たちの救援に来たのかとサザ達が問い質すと、副長のティアマトは曖昧な反応しか示してくれなかった。約束通り命令違反を不問にしてくれたセネリオも、アイクについては何も言わなかったし、当のアイク本人の姿もどこにもない。
そういうわけで、サザは事の子細をアイクに訊ねる為、宿営地で彼を探していた。彼を探すのはサザ本人の希望もあるが、ミカヤの願いでもある。ただし彼女は昼間の戦いで疲れたとかで、一足先に休んでいた。
だが、多分あれは嘘だろうなとサザは思っていた。この頃のミカヤはどうもおかしい……物思いに耽ることが多くなったし、とかく一人になりたがる。
もしかして、奇跡を起こす乙女として崇拝される事や、正体を隠して軍に所属し続ける事などに重圧を感じているのだろうか? それなら、辛いのなら、何故自分を頼ってくれないのだろうか。
どうしても駄目だと見て取ったら、自分は全てを捨ててミカヤを選ぶつもりでいる。
……だけど……このままじゃ三年前の時と同じく、ミカヤは俺に黙って姿を消してしまうんじゃないか?
……どうしてなんだ? 俺たちはずっと一緒だったし、これからもその筈だ。
ミカヤの人と違う力のことも、身体のことも、俺にとっては……どうでもいいことなのに。
「……どうでもよくなんかないわ!」
サザは心臓が飛び出しそうな程驚いて、立ち止まった。どこからか自分の考えていた事とぴったり合致した言葉が聞こえてきたものだから、一瞬、心の中を見透かされたのかと思ってしまった。
立ち止まって周囲を見回したが、先程の声の主らしき人影はどこにもない。しかし、あの声には聞き覚えがあるような気がする。
「……すみません」
次に聞こえてきたのは、かなり小さい声だったが、間違いなくセネリオの声だった。話し声はサザが今立っているすぐ傍の、天幕の中から聞こえてくる様だった。
「ごめんなさい、私もつい感情的になってしまったわ……」
セネリオと話をしているのはティアマトだ。さっきの声も彼女のものだった様だ。
サザは二人にアイクの居場所を尋ねようかと一瞬思った。しかし何やら深刻そうな話の最中の様だから、遠慮すべきかもしれないとも思った。
「……あなた方の気遣いには、感謝しています。でも、僕は……今の自分の事を、誰かに理解してもらおうなんて思っていません。今の僕は、そんな事の出来る立場ではありませんから」
「……そうね。でも……セネリオ、これだけは誤解しないでおいて。アイクは……決してあなたを裏切った訳ではないのよ」
「解っています」
立ち聞きするのも何なので去ろうとしていたサザは、アイクの名前を耳にして足を止めた。ひょっとして、二人が話しているのは、シフ沼での戦いの件ではないだろうか?
「……アイクが僕に黙って、あなた方に出撃するよう命じたのは……僕を悩ませまいとしたのでしょう。もしもアイクに事前に相談されていたら、おそらく僕は……賛成も反対も出来なかった。しかし、それならどうして、アイクを残したんですか?」
「私たち全員が出撃してしまったら、残されたあなたは、アイクに裏切られたと思って傷ついてしまうんじゃないかと思ったのよ。それで誰か一人、事情を説明する役を残していこうという事になって……」
「……それでアイク、ですか……なるほど、理解出来ました」
天幕の向こうで、セネリオが嘆息している様をサザは想像した。
それ以上立ち聞きするのはやめて、サザはその場を立ち去った。
二人の会話で、アイクだけがシフ沼への救援に来なかった理由をようやく知ることが出来た。
どうやら、今回の事を巡って、セネリオとアイクの間で何かがあったらしい。それも、二人の仲に亀裂が入るような何かが。セネリオの後ろにアイクの姿がなかったのも、そこに理由があるらしい。
その辺りのことをミカヤ達に説明しないのが、いかにもアイク達らしい話だ。サザ達の方からも深く問い質すべき事ではないだろう。ただ……彼らには、申し訳ないと思う。
ミカヤに話そうかどうか迷ったサザは、結局、自分もアイク達に倣って口を噤む事に決めた。
ああ、しかし、トパックだけには何か言っておいた方がいいだろう。彼が一番、気にしている様子だったから。
それも明日でいいか、と思ったサザは、ミカヤの様子を見に戻ろうとした。だが踵を返した時、視界の片隅に当のミカヤの姿が映ったような気がして驚いた。
「ミカヤ?」
ミカヤは宿営地をぐるりと取り囲む塀の裏で、人目を避けるようにひっそりと立ち尽くしていた。サザが声をかけると、少し驚いたように身体をびくりと動かす。顔色は良さそうだったが、どこか疲れたような雰囲気だった。疲れたというのもまんざら嘘ではなかったらしく、サザは彼女を疑ったことに罪悪感を抱いた。
「こんなところで何してるんだ?」
「ええ……ちょっと、静かな所にいたくて……」
天幕では、ミカヤの活躍を称えに来る者達に押しかけられて、ゆっくりと休めなかったという事か。
「……正直、驚いたな?」
「何のこと?」
「あの、兵達の熱狂的な歓迎だよ」
「……驚いたっていうか……ううん、何でもない」
何か言いかけたミカヤだったが、結局俯いて口を閉ざしてしまった。どうしたのかとサザが問いかけたその時、ばたばたと慌ただしい足音を立ててトパックが二人の元へ駆け寄ってきた。トパックが騒がしいのはいつもの事だが、今は様子がいつもと違っている。
「ごめん、ちょっといいか!?」
「どうしたんだ、そんなに慌てて」
「ムワリムの様子が……おかしい。頼む、一緒に来てくれ!」
どういうことかとサザが尋ねる暇もなさそうな程、トパックは狼狽していた。
そうして彼に連れられるまま、サザ達が向かった先では、ムワリムが天幕の中で悶え苦しんでいた。それも通常の状態ではなく、化身した状態でだ。戦場でもないここで、休息の時間である今、わざわざ化身する理由などない筈なのに。
ムワリムの化身はどうやら、彼自身の意志によるものではない様だった。トパックに呼びかけられる度に化身は解け気絶するのだが、その後すぐに意識を取り戻すと化身してしまう。そしてその間ムワリムはずっと、尋常ならざる目つきで苦悶の声を上げ続けているのだ。
その目つき……認めたくない事だが、サザは今のムワリムと同じ目つきのラグズを、過去何人も見てきた。トパックも同じ事を考えているのだろう。ムワリムの意識を必死で引き留めようとしながら、両手が血の気を失って震えていた。
ムワリムが化身する間隔は、次第に短くなっていく。これがもしムワリムでなかったなら、サザはきっと冷静に、考え得る限り最も安全な手段を採っていただろう。それが一番の慈悲だとでも考えて。
しかし現実は、この人は大切な仲間なのだ。どうしたらいい? 今のムワリムを救う有効な手段を、サザは思いつかない。
「だめだ、【なりそこない】になんかなっちゃだめだ、ムワリム!! おいらを見ろっ!!」
心が引き裂けそうなトパックの叫びだった。ムワリムの方も同様の心地だっただろう。本当に、何もかもが悪い夢を見ているようだった。
そこへトパックの声を聞きつけたのか、アイクとティアマト、そしてセネリオが天幕に飛び込んできた。それと同時に、化身した姿のムワリムがトパックを振り払う。多分、彼は自分の理性の限界を感じてそうしたのだろう。
アイクは真っ先にムワリムを押さえつけた。人並み以上に発達した体格のアイクでも、ラグズ、特に大柄な虎のラグズを単身押さえ込む事は難しい。覆い被さるような体勢でムワリムの暴走を止めつつ、彼は後ろに向かってこう言った。
「セネリオ! ガ……」
アイクが何か言おうとした時、ムワリムがアイクの顔に前足を振り上げた。サザ達の側からは見えなかったが、おそらく少なからず顔に傷を追ったのだろう、ティアマトとセネリオが顔色を変えた。
「アイク……!」
その時、セネリオの顔が激しい怒りで歪んだのをサザは見た。赤い双眸に迸ったのは紛れもない殺意であった。まずい。そんな危機感を瞬時に抱く。
だが、セネリオは表情を怒りに歪めたまま、何故か急に踵を返して天幕を後にした。しかし、誰も彼を追いかけない。それは、我を失ったムワリムととっ組み合っているアイクから、誰も目を離す事が出来ないためだった。
アイクが両腕に力を込めて、ムワリムを投げ飛ばした。サザ達とティアマトが両脇に飛び退き、その間をムワリムの身体がすり抜けて、天幕の隅に積んであった毛布の山にどさっと落ちて力を失う。
ムワリムに駆け寄ろうとしたトパックだったが、それをサザが咄嗟に引き留めた。そんな二人のすぐ先を横切ったのは、ついさっき倒れ込んだ筈のムワリムだ。彼は投げ飛ばされてもすぐに意識を取り戻したのか、アイクに正面から飛びかかっていった。
真正面からムワリムに突っ込まれたアイクが、仰向けに倒れ込む。彼の上にのし掛かかったムワリムは今にもアイクの喉笛を切り裂かんと前足を振り上げたが、その胴体にトパックが両腕を回して抱きついた。
「ムワリム!! だめだ!!」
だが、まだ少年の域から脱していないトパックの体躯には、化身したラグズを押さえ込める程の膂力はない。もがくムワリムに振り回されるような形であったが、それでもトパックは両腕をしっかりと絡めて彼を離そうとしなかった。
……不意に、天幕が僅かにはためいた。外気が吹き込み、それに乗って優しい旋律が皆の耳に入り込んでくる。それはサザにとって、聞き覚えのある歌声だった。
その歌声に反応して、ぴたりとムワリムの四肢が動きを止めた。そうして何度も細かく痙攣を繰り返したかと思うと、彼はばたりと横向きに倒れこんだ。トパックが彼に駆け寄り、重みのある身体に腕を回して抱き起こそうとした。
「……その方の歪められた体は、【再生】の呪歌により、正しい状態に戻りました。」
その声の主は、セリノスの第一王子ラフィエルのものであった。天幕を捲るニケ女王の後に続いて姿を現した彼の言葉を聞き、トパックは自分の腕の中で、化身を解きつつあるムワリムを見下ろす。不意に、その顔をくしゃくしゃと歪めて涙を零し、途切れ途切れな声でラフィエルに感謝の言葉を述べた。
「アイク、大丈夫?」
「ああ……」
ティアマトに助け起こされるアイクの顔には、右頬に大きな斜めの傷が走っていた。ムワリムの爪でひっかかれたのだろう、だらりと血が流れている。アイクは顎に流れたその血を、手の甲で拭った。
少し遅れてニケ女王とラフィエルの後ろから、セネリオが駆け込んできた。
「大丈夫ですか!?」
それが誰に向けて放った言葉だったのかは、言うまでもない。彼がおそらく、ラフィエル達を呼んできたのだろう。
ほっと安堵の息をついたサザは、隣のミカヤに目をやった。そうして、彼女の眦が潤んでいることに驚いた。
「ミカヤ……どうかしたのか?」
「……何だか変なの、よく解らないけれど……体の内側から、熱いものがこみ上げてくるような感じがして……」
「……解る。俺も、あの歌を初めて聞いた時は感動した」
それからサザはラフィエルが歌った【再生】の呪歌とその効果について、ミカヤに説明した。その間、セネリオはてきぱきと指示を下していた。
「アイク、その傷を治療しに行って下さい。それから一応、体の空いている杖使いをここに呼んで下さい。ムワリムが意識を取り戻すまで付き添ってもらいます」
「解った」
それからセネリオはミカヤの方に目をやった。何となく、睨むような目つきだったようにサザは感じた。
「ミカヤ。あなたは外の兵達を解散させてきて下さい。この騒ぎを聞きつけてやってきた者達が何人かいます。『騒ぎは収まった。詳しい事情は、後日改めて王子の口から説明する』と、伝えて下さい」
「はい……解りました」
何故それをミカヤに任せるのか、その時のサザには理解できなかった。単に、手の空いている者を適当に選んだだけなのだろうと思っていた。
セネリオは用件を伝えると、すぐにミカヤから目を背け、トパックにこう言った。
「トパック、一緒に来て下さい。今回の事の詳細を聞かせてもらいます」
「ああ……だけど、ムワリムが……」
トパックが心配そうにムワリムを見る。彼を置いて行きたくないのだろう。サザは助け船を出した。
「王子。話を聞くのは、ムワリムさんの意識が戻ってからでもいいんじゃないか?」
「……そうですね。解りました。ではトパック、ムワリムの意識が戻ったら知らせて下さい。僕は自分のテントにいますから」
トパックが頷いたのを確認すると、セネリオは天幕を後にした。
彼に続けて、ミカヤも出て行こうとする。サザがその後ろをついて行くと、ミカヤが足を止めて振り返り、意外な言葉を口にした。
「サザ、わたし一人でいいから」
何故か、サザはその言葉に内心とても腹が立った。
「一緒に行くよ」
腹立たしさを隠してそう言ったのだが、声が不自然に大きくなってしまう。ミカヤはこちらの内心に気づいたのか、ぴくりと身体を震わせた。
「うん……そうね、解ったわ」
一体、何を理解したというのか。その辺りを問い質してやりたいという衝動が全くなかった訳ではない。だが、結局はその衝動を堪えて忘れた。
今のミカヤには、何を言っても、自分の気持ちは理解してもらえないような気がしていたからだった。
戻る
前へ
次へ
境界線のその先に(9)
ゲームでのここのシーンに、ビーゼがいたかどうか、どうしても思い出せませんでした。思い出せないものは仕方ないので、結局、登場させないことにしましたが…。