シフ沼への出撃を巡って、作戦会議の場は二つの意見に割れた。処刑を阻止するため一刻も早く出撃するよう訴えるミカヤに対し、セネリオはあくまで慎重な姿勢を取った。
「これ程大人数の処刑を一気に行うのには、駐屯軍への隷属を強制する意図があるのが自然です。ですがそれにしては、沼地のような人気のない場所を選ぶのは妙です。大勢の民衆の目の前で処刑してこそ、意味がある筈なのに……」
「王子の仰る事は、最もだと思います。これが駐屯軍の、わたし達をおびき出す為の罠だという可能性は十分あります。ですが本当に処刑だとしても、罠だとしても、捕虜たちはきっと殺されてしまいます」
駐屯軍はデイン国民を人間扱いしない。彼らにとって敗戦国の民はただの奴隷だ。だからこそ、例え捕虜たちが単なる囮だとしても、きっと解放軍共々戦闘の最中にまとめて殺されてしまうだろう。
しかし、ミカヤはそんな論理的な考えでものを言っているのではなかった。彼女は例の能力で感じていた、捕虜たちの命が風前の灯であることを。
「しかしながら、救出に向かうにしても場所は沼地だ……飛行部隊を出したいところだが……」
そう言うタウロニオの表情には、苦渋が浮かんでいた。駐屯軍は竜騎士隊を有しているが、対するデイン解放軍の飛行部隊と言ったら、竜騎士のジルと、ラグズ奴隷解放軍の鳥翼族だ。しかしジルはまだ偵察に出ているし、鳥翼族中心の部隊ではデイン国民に対する印象が良くない。
「この際、解放軍の外聞を気にしている場合じゃないだろう! 捕虜を見捨てれば国民の支持を失うし、解放軍の士気だって下がるに決まってる。そもそも俺たち解放軍の目的は、圧政に喘ぐ国民を救う事の筈だ。その国民を見捨てるっていうのか、王子!?」
サザはミカヤと同意見で、救援を渋るセネリオに憤慨していた。
冷静なセネリオ、焦るミカヤ、苦悩するタウロニオ、憤るサザ。そしてその中でただ一人、アイクだけが無言でセネリオの後ろに控えていた。
おそらくセネリオとて、捕虜を見捨てるつもりはないのだろう。ただ、彼らを救出に向かう事の危険性が高すぎるから躊躇しているのだ。
捕虜を見捨てれば、解放軍は存続するものの、国民からの支持を失う。
捕虜を取れば、国民の支持は増すだろうが、敗北する可能性があまりに高い。
「……解りました。つまり解放軍を危機に晒さず、国民の支持も失わなければいいんですね? それなら、わたし達【暁の団】が捕虜の救出に向かいます」
「ミカヤ!?」
「ミカヤ殿!?」
サザとタウロニオが同時に驚きの声を上げてミカヤを見た。セネリオは無言で視線をミカヤに向けただけだったが、その視線は言っていた。本気か、と。
「わたし達がシフ沼に向かいます。もしも敵が罠を張っていて、わたし達が襲われたら……その時は、わたし達を見捨てて下さい」
【暁の団】は十人にも満たない少人数である。万が一彼らが今のデイン解放軍から欠ける事になったとしても、解放軍の戦力が致命的なほど低下する事にはならない筈だ。
「馬鹿な……無謀な行為です。出撃は許可出来ません」
「例え王子のお許しが頂けなくても、わたし一人でも行きます」
「……そこまで言うからには、あなたには勝算があるのですか?」
「それは……分かりません」
ミカヤが今はっきりと感じているのは、捕虜たちに迫っている危機だけで、その他はぼんやりと曖昧だった。絶望や不安は感じられないが、勝利の予感も全くしない。
そんな状態でセネリオが出撃を許す筈もなく、ミカヤは彼としばし睨み合った。だが、こんな所で時間を費やしている暇はない。ミカヤはくるりと踵を返すと、サザを伴って天幕を後にした。
セネリオはその背中を見やりつつ、溜息をついた。
「……タウロニオ将軍」
「はっ……」
「すぐに偵察に出たジルを呼び戻して下さい。それと、トパックを呼んで下さい。ラグズ奴隷解放軍に出撃禁止を伝えます……もしも間に合えばの話ですが」
「彼らもシフ沼に向かうと?」
「トパックの性格を考慮すれば」
タウロニオはその言葉に頷くと、すぐに鎧を鳴らしながら天幕を出て行った。だがトパックの単純さや足の速さからして、おそらくタウロニオが彼を探し出す頃には、既に彼はミカヤ達と共に宿営地を後にしてしまっているだろう。
セネリオは額にじわりと浮かんだ汗を手の甲で拭い、机の上に両手をついて地図を見下ろした。
……ミカヤは何も解っていない。今の解放軍において、彼女の存在がどんな意味を持つか。彼女が捕虜を救出しに行く事で、解放軍にどんな変化を与えるか……彼女が勝利を収めるにしろ、敗北を喫するにしろ。
それとも、彼女は全て計算づくの上で行動しているのだろうか? だから、こんなにも自分を悩ませるような行動ばかりしてくれるのだろうか?
元々、初めて見た時からセネリオは彼女を好いていなかった。あっちも自分を好いていないだろうから、別に構わない。
だが、兵達に人気のある彼女と、露骨に対立する事態だけは避けねばならなかった。それを避けられなかった以上、なるべくなら捕虜救出を成功させたかった。捕虜を見捨てた上にミカヤを失えば、解放軍は大義も士気も失って崩壊してしまう。
それを回避する為に、どういった作戦を採るか……身体能力の優れたラグズ奴隷解放軍を主力に組むか。否、捕虜を過剰に混乱させかねない。
戦場が動きにくい沼地だという事を考えると、遠距離からの攻撃が出来る兵を出すのが望ましいが、解放軍の弓兵隊は経験不足の者が多い。捕虜がど真ん中にいる戦場では、彼らに誤って命中させる可能性が高い。かといって魔道士は、そもそも人数がごく僅かしかいない。
やはり歩兵中心の部隊か。そうなるとやはり、それなりの人数が必要になるか……。
「……アイク?」
セネリオはふと、自分の後ろにアイクの気配がしない事に気付いた。
彼が背後を振り返ると……そこに、彼の護衛役の姿はなかった。
ミカヤは、砂漠にいる筈のニケ女王を援軍として呼び寄せるため、オルグを伝言に走らせた。それから【暁の団】の仲間と共に、急ぎシフ沼へ向かった。
無謀な戦いに赴くミカヤ達にとって、一つ希望になったのは、トパックが自分の仲間と共にミカヤ達に協力してくれた事だ。それにデイン解放軍の中でも、ツイハークやイレースなどの一部の者達が共について来てくれた。
それでもなお、人数不足は否めなかった。人数を振り分けて多方向から攻める作戦を採ったものの……やはり捕虜の処刑という情報は、解放軍をおびき寄せる偽の情報だった。
そうしてミカヤ達は、沼地から捕虜を引っ張り上げて救出しながら、彼らを守って駐屯軍と激戦を繰り広げていた。
四方を囲まれた中で、西だけは唯一、ニケとオルグが引き受けてくれているから攻撃に備える必要が無かった。南方の部隊はラグズ奴隷解放軍が押し留めてくれていたが、それでもなお二方向からの攻撃がある。サザが単身前線で頑張ってくれてはいるものの、彼の本来の役目は諜報活動だから、やはり苦戦している。
その上、駐屯軍はミカヤの【癒しの手】の能力を逆手に取ったのか、毒を塗りつけた武器を使用していた。そのせいでミカヤとローラは負傷者の怪我の治療ではなく、毒の解除にまで回らなければならなかった。【癒しの手】によってミカヤに毒が及ぶ事はないが、それでも大きな負担になった。毒を治癒するのが遅れれば遅れるほど負傷者は消耗していき、後で治癒する時のミカヤの体力もそれだけ削られてしまうからだ。
「竜騎士だ!」
誰かのその叫びには、絶望の色があった。
ミカヤが顔を上げて周囲を見回すと、南東の方角から竜騎士がまっすぐに飛来してきた。相手が目標としているのは、沼地の中に入り、捕虜を引き上げているノイスとビーゼだ。
「ノイス、ビーゼさん、危ない!」
二人はミカヤの声を聞きつけ、竜騎士の襲撃に気づいた。ビーゼがいち早く化身するものの、僅かな時間差で相手の飛竜の方が速い。
相手はすれ違いざまに斧でビーゼを斬りつけると、一旦上に上昇した。レオナルドが矢を射るが、惜しいところで当たらない。そのまま相手の帝国兵は飛竜の向きを変え、ミカヤ達のいる地帯へと突っ込んできた。
「【銀の髪の乙女】、覚悟!」
ミカヤは反射的に光魔法を唱えた。そんな彼女の前に果敢にもエディが躍り出る。しかしその瞬間誰もが想像した。エディの細い体躯が飛竜の前足で吹き飛ばされ、ミカヤが反撃も間に合わずに斬り捨てられる悪夢を。
一矢、それが悪夢を裂いた。
どこからか放たれた矢が深々と飛竜の左目に突き刺さり、飛竜が激痛に雄叫びを上げた。体勢を崩した竜騎士の兜の隙間を狙って、更にもう一矢が放たれ、兵士の首を水平に貫いて絶命させる。
騎手を失い激痛に暴れる飛竜が、そのまま目の前のミカヤ達の上に倒れ込んできた。咄嗟にミカヤ達は飛び退き、飛竜の牙や鉤爪から何とか逃れた。
「ごめん、遅くなって……!」
ミカヤはびっくりして後ろを振り返った。
北の茂みから走り出てきたのは、キルロイとボーレ、そしてミストだった。何故、彼らがここにいるのか解らず呆然とするミカヤ達の元に、前線からサザが血相を変えて駆け寄ってくる。葦の茂みで戦っていたせいか、彼の両足は泥だらけであった。
「ミカヤ!! 大丈夫か!?」
「え、ええ……」
気づけば、キルロイとミストは素早く負傷者の手当に回っていた。ボーレの方はというと、未だ左目から血を流して呻く飛竜に止めを刺していた。負傷した飛竜は、下手に暴れられると騎手以外には手がつけられない程危険なので、こうして即座に息の根を止めてしまうのだ。ミカヤは初めて目にする光景だったが、サザの方は三年前の戦いでこのやり方を見た事があった。
「何であんた達が……じゃあ、さっきの矢は……」
サザとミカヤが周囲を見渡す。
気がつけば、南のトパック達のところにはワユとヨファが加勢し、トパック達と協力して敵を撃退している。南東にある敵の本陣にはオスカーとティアマト、ガトリーが乗り込んでいて、シノンが後方から弓で援護している様だった。
彼らは皆、グレイル傭兵団の面々だ。では、セネリオが救援を差し向けてくれたということなのだろうか?
困惑しつつも、形勢の逆転にミカヤは安堵する。彼女の視線の向こうでは今、ティアマトが敵将の首級を上げていた。
だが、一同が合流して生還を喜び合っていた空気は、ある一言によって凍り付いた。
「あれっ、アイクがいないじゃん。何で団長のあいつが…あっ」
失言の主はトパックであった。一瞬で本人もその事に気づいた様だが、悲しいかな、大きい声だったので周囲に丸聞こえであった。幻聴だったと言い張ってごまかす事も、出来そうにない程。
ムワリムが後ろで顔面蒼白になり、サザが馬鹿、と言いかけた口を開けたまま硬直する。ティアマトの横顔に緊張が走り、シノンが舌打ちした。
「……『アイク』?」
レオナルドが目を丸くしながら、呟くようにそう言った。ノイスはトパックの発言だけで全てを察したらしく、複雑そうな表情を見せる。その他のメグやローラはよく解っていない様で首を傾げていたが、レオナルドやブラッドはだんだんと理解してきたのか、表情に驚愕の色が現れてくる。
だが、一番反応が速かったのはエディだった。
「『アイク』って……あのアイク? クリミアの英雄で、アシュナード王を倒したっていう……って事は、ひょっとしてみんなは、グレイル傭兵団なのか!?」
エディは、すぐ隣のワユやオスカーを見上げながらそう言った。正体を隠されていた事に腹を立てるかとミカヤは思ったのだが……エディの反応はどちらかというと好意的で、「へー」とか「うそー」等と言いながら、目を丸くして傭兵団の面々を見つめているだけであった。
「あ、あの……エディ、怒らないの? 私たちの事を……」
あまりにエディの反応が予想外だったのだろう、ティアマトがそう訊ねると、エディは即座にこう返した。
「えっ、何で?」
「何故って……私たちは三年前、あなた達の祖国と戦ったのよ?」
「うん。でも今はおれ達、一緒に戦ってる仲間だろ?」
なあレオナルド、と、エディは隣の相方に話を振った。
「おれ達、仲間だよな?」
「え? あっ……うん……そう……だね。うん……そうだ」
レオナルドが戸惑いがちにそう答えた。
「そもそも、どうしてクリミア人の皆さんが、デイン解放の戦いに参加しているのかは気になるけれど……」
「うん、その辺はおれも知りたい」
「でも、こうして今、助けに来てくれた訳だし……本当に、一時はどうなるかと思ったから……」
「そうそう」
「それに、今まで傭兵団の皆さんには色々お世話になったし……」
「だよなー。ワユさんには剣の練習に付き合ってもらったし、オスカーさんは旨い飯作ってくれたし、ティアマトさんやシノンさんには何度も戦場で助けてもらったし……」
「いや、それは『迷惑をかけた』と言った方が正しいんじゃないかな……君がよく突っ込んでいくから……」
「何だよ。それじゃ、おれが無謀な馬鹿みたいじゃんか」
「バカとは言わないけれど、無謀な行動が多いのは確かだと思うよ……」
「お前が慎重過ぎるんだろ」
「はいはいそこまで。続きは帰ってからにしろ、お前ら」
漫才じみたやり取りになってきたところで、保護者役のノイスが手をぱんぱんと叩いて二人を止めた。
それからミカヤ達は帰還の準備を整えて、セネリオの待つ宿営地へと向かった。
その道中、ミカヤはサザに思わずこう零した。
「……王子は今頃、お怒りでしょうね……許して下さるかしら……」
それに対し、サザは何とも言えなかった。勝利を得てきたからといって、今回の自分たちの行動をあっさり水に流してくれる程、セネリオは甘くない。あの赤い瞳できつく睨まれ、散々お小言を頂く未来を想像して、サザは気が滅入った。
「……命令違反で処罰するそうだよ。勝敗に関わらず、私たち全員をね」
後ろからオスカーがそう言うと、ミカヤは肩を落とした。
「……何とかならないでしょうか、オスカーさん」
サザはミカヤの為にもそう問うてみたが、オスカーはこう答えた。
「仕方のない事だよ、サザ。軍隊では如何なる理由があっても、上官への命令に逆らう事は許されない。そうしないと、軍の規律も命令系統も保てないからね。ただ……」
「……ただ?」
「今回は切迫した状況などを考慮して、大目に見てくれるそうだよ。君たちが捕虜を全員救出して、全員生還してきたら……という難しい条件付きだけれど」
「本当ですか!?」
それなら条件を満たしている。危ういところではあったが、グレイル傭兵団が駆けつけてきてくれたおかげで戦死者は出ていないからだ。ミカヤがほっと胸をなで下ろした。
「……そういえばオスカーさん、アイク団長はどうして来なかったんだ?」
サザはそう訊ねたものの、アイクが来なかったのはてっきり、セネリオの護衛の為だろうと思っていた。
だが、オスカーはそう言わなかった。何故か彼は何も答えず、無表情になる。
「……オスカーさん?」
「……ミカヤさん、一つ、いいかな?」
オスカーはミカヤの方を見る。その表情は僅かに厳しかった。
「はい……なんでしょう?」
「君は今回、大きな過ちを犯すところだった」
「過ち……?」
「今回の君たちの行動がどれだけ無謀だったかは、解っているね?」
「……はい」
ミカヤはこくりと首を縦に振った。
「だからこそ……あえて、死も覚悟していました」
「それは、てめえが死ぬ覚悟だろう?」
いつの間にかオスカーの隣を歩いていたシノンが口を挟んだ。いやに不機嫌な様子だが、どうも戦い疲れたからではなさそうだった。
「はい、そうですけれど……」
「てめえの仲間が死ぬ覚悟はあったのかよ」
「……あ……」
シノンにそう指摘されて、ミカヤが息を飲む。それから彼女はオスカーの表情を見て、彼の言う『過ち』が何かを悟った様だった。
「……ミカヤ、君の命は君のものだ。だけど、君の仲間の命は、君のものではないんだ。今回、彼らは君への信頼によって、命を落とすかもしれなかったんだよ」
「……」
「危険な状況下でも捕虜を救う為に戦おうとした、君の勇気は素晴らしいと思う。けれど、君が仲間に信頼されているのなら……その信頼に応える為にも、君は仲間を生かす方向に行動するべきだった。今回のように仲間を危険に晒したのは、決して正しい判断だったとは言えないだろう。結果がどうであれ」
「ケッ……それにな、『例え死んでも構わない』なんて台詞は、てめぇの命の重みを知らねえから言えるんだよ。自分の事ばかり見てねえで、自分が今どんな場所に立ってんのか、ちったあ考えやがれ」
そこまで言って、言いたい事を言い終えたのだろう。シノンは不機嫌そうな表情を変えないまま踵を返し、後方のガトリーの元へと言ってしまった。
……わたしが、自分のことしか見えていない……?
シノンの言葉が、ミカヤの胸に残る。
俯いて考え込む彼女の小さな肩を、サザは黙って見つめていた。
……彼女が、早く気づいてくれればいいと思いながら。
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