サザは天幕をめくり上げて、外の様子を見た。
野営地全体がどよめき、兵士達が落ち着きを失って騒いでいるのが見える。天幕の周りを見張っている兵士たちに詰め寄っている者もいた。
「王子は何をなさっているんだ! おれ達の街が襲われているんだぞ!?」
「今は作戦会議の真っ最中だ。控えてくれ」
「【暁の巫女】はどうお考えなのだ!」
「頼むから、静かにしてくれ。巫女様が、ネヴァサに住んでいる国民を見殺しになさる筈がないだろう……もう少し待ってくれ」
彼らはさっきからこのやり取りを、どれ程長く繰り返しているのだろうか。それ程に長い時間が経っているように、サザには感じられた。だが、まだ会議は結論に達していない。
議題は、現在解放軍が文字通り直面している問題……首都ネヴァサが、駐屯軍の生き残りによって破壊されていることだった。いつかの様に、出撃を唱えるミカヤと、出撃を渋るセネリオとの間で意見が対立している。
「王子……やはり、このまま放ってはおけません! 出撃しましょう」
すると、タウロニオがミカヤにこう言った。
「しかし、今出撃すれば、視察団の命令に逆らうことになる。そこを理由に後々、ベグニオンからの内政干渉を受ける可能性がなくもない。出来れば、彼らの処理は視察団に任せるべきなのだが……」
視察団の到着にはまだ数日かかる見込みだ。彼らにネヴァサへの救援を期待するには、あまりに時間がかかり過ぎる。だからこそ、セネリオは余計に結論を出しかねているのかもしれない。
「俺達がこうやって迷っている間にも、あそこでは民が死んでるんだぞ。ここにいない視察団に、任せてなんていられないだろう!」
サザは憤りをこめてそう言った。セネリオは彼の方を見ずに、ネヴァサの地図を指でなぞっている。サザの言葉は聞こえているのだろうし、彼なりに頭の中でどうすべきか熟考している最中なのだろうが、もうサザの忍耐力は限界に達しつつある。
否、ミカヤの忍耐力も限界に達したようであった。
「……解りました」
突然そう言って天幕の外へ出ようとしたミカヤを、タウロニオが引き留める。
「何をするつもりなのだ、ミカヤ殿」
「すみません、タウロニオ将軍。通して下さい。わたしは……わたしは行きます」
ミカヤはタウロニオの傍をするりと抜けて、外へ向かった。サザもその後について行こうと思い、彼女を追いかけた。彼の気持ちもミカヤと当然のように一緒だった。目の前で苦しみ、死んでいく人々を傍観していることは出来なかった。
だが、天幕をめくって外へ出ようとしたミカヤは、そこに立っていた誰かにぶつかった。
アムリタが立っていた。いつものように薄いベールで顔を隠した黒ずくめの装いでそこに立ち、冷然とした眼差しでミカヤを見ている。小柄なミカヤの方が見下ろされる形になっていた。
予想外な人物の登場に、ミカヤ達は驚きを隠せなかった。アムリタが作戦会議中の天幕に足を運ぶなど、今までになかった。人をやってセネリオを呼びつけるならまだしも……外の騒ぎを聞きつけて、何事かと思ってやって来たのだろうか。
「……あの、アムリタ様……すみませんが、そこを……」
「……また、あなたなのね」
「えっ……?」
「また、わたくしの息子を悩ませるような事をしていたのでしょう?」
アムリタはずいと前に歩み出て、ミカヤに向かってそう言った。彼女の睨み付けるような視線から守るように、サザはミカヤを後ろにかばって前に出た。
「……そこを通してくれないか。オレ達は、ネヴァサに行かなきゃいけないんだ」
「それは、セネリオの許しを得ての事なのですか?」
「いや……それは……」
「おどきなさい、無礼者。わたくしはその娘に尋ねているのです」
手で押しのけられた訳でもないのに、サザは思わず脇に退いてしまった。サザとこの女性では体格に差は殆どないのだが、そうせざるを得ない程の迫力が、その時のアムリタにはあった。
「どうなのです。息子の許しは得たのですか……得ていないのでしょう?」
ミカヤが返答に窮していると、アムリタはやはりね、と呟いた。そうして彼女は形の良い唇に嘲りの笑みを浮かべて、ミカヤに向けて次々と非難の言葉を浴びせていく。
「……兵たちに人気があるのをいいことに、好き勝手な行動をして。シフ沼でのことも……そして今も。今度もまた、取り巻きを連れて、勝手に出撃しようとしていたのでしょう? 『主君の言葉などどうでもいい、この軍で人気を一心に集めているのは自分なのだから』……そう思っていたのでしょう?」
「そんな、わたしは……」
「ならば何故、わたくしの息子に従わないのです。この軍の首将はセネリオなのよ、あなたなどではなく。それなのに……外の声を聞いてご覧なさい。兵達が待っているのは、あなたの言葉ではないの」
「……それは……」
「……あなたが主君を立てるどころか、身の程も弁えずにいつもいつもあの子を蔑ろにするものだから、他の者達もすっかり勘違いして……あなたを救世主などと言って祭り上げる始末。これでは、主君への忠誠心が欠片もないと疑われても、仕方ないのではないかしら?」
その言葉は聞き捨てならず、サザは声を荒げてアムリタに食ってかかった。
「それじゃあんたは、ミカヤが解放軍を私物化しようとしているって言うのか!?」
「現に、そうなっているではないの」
確かに……主君の指示に一度ならず二度までも背こうとした事は、不敬と受け取られても仕方のないことだ。
だが、忠義というものは人命よりも重いというのだろうか。
……少なくとも、今動こうとしないタウロニオ将軍は、そういう意見なのだろう。だが、サザはその意見には賛同出来なかった。そのせいでどんな謗りを受けたとしても、構わない。自分には、それよりも大事なものがあるのだ。
「……もういい。あんたとこれ以上話してても時間の無駄だ。行こう、ミカヤ」
流石はあのセネリオの母親というべきか、この女性と自分が口論しても勝つのは簡単ではないだろう。サザはそう思って話を切り上げ、ミカヤの腕を掴んで場を後にしようとした。
だが、サザに腕を引っ張られてもミカヤは微動だにせず、黙って俯いていた。
「……ミカヤ?」
「……サザ、わたし……」
一体どうしたというのだろうか。ミカヤはアムリタから謗られたくらいで消沈するような、そんな脆い精神力の持ち主ではない筈だ。だが彼女は明らかに、出陣を躊躇っていた。
「ミカヤ、どうしたんだ一体」
「……わたし……駄目よ。行けないわ」
サザは耳を疑った。ミカヤの口から、今苦しんでいる人々を見捨てるような言葉が放たれるなんて。
「な……何を言ってるんだ、ミカヤ!? あれを放っておくって言うのか!」
「そんな事ないわ! でも……わたしだけならいい。わたしだけなら、何と言われてもいいの。でも、他の皆をわたしの勝手に付き合わせて、危険に晒して、その挙げ句に不忠だと誹られるような事には……させられないわ……」
ミカヤは、シフ沼の捕虜救出の時の事を思い出したのだろう。
確かに……あの時と同様、今ミカヤが頼めば、暁の団の皆はミカヤについて来てくれるだろう。だが、その行動が解放軍の規律を乱すものである事は、とうに解りきっていることだ。
「ようやく自分の浅慮に気がついたようね……今更という気もするけれど」
「母上!」
突然声を荒げたセネリオに、その場にいた者達全員が驚いて身体を竦ませた。常に冷静な彼がこれ程語気を荒くしたところを、サザは見た事がなかった。
それでいて彼は、憤っている訳ではない様だった。机の上で堅く握られた拳が戦慄いていて、傍目にも判る程動揺していた。
「母上……これ以上はおやめ下さい。ミカヤの事については……僕もそう仕向けたところがあります。彼女一人のせいではないんです」
「けれど、セネリオ。この娘は作戦会議に列せられるような責任ある立場でありながら、あなたを軽んじる振る舞いをしたのよ。それも、二度も……」
「それについては……母上の……ご意見は、必要としていません……すみませんが、今は席を外していただけませんか」
遠回しに息子に邪魔だと言われ、アムリタが明らかに動揺した。彼女にしてみれば息子の為を思ってした事なのだろうが、その好意を当の息子から撥ね付けられるとは思ってもみなかった筈だ。
セネリオは兵士を呼び、アムリタを天幕に送るよう言いつけた。追い払われた事に傷ついた表情を浮かべたアムリタがセネリオを見るが、セネリオは母からふいと視線を背ける。
アムリタが息を飲み、戸惑いの色を顔に浮かべたまま視線を彷徨わせる。だが、その視線がセネリオの背後に立っていたアイクにぶつかると、アムリタは凛然とした表情を一応取り繕った。
それから彼女は、天幕へ自分を送ろうとする兵士を引き下がらせて、何も言わずに一人で会議の場を後にした。
ミカヤは彼女に同情するような目線を送っていたが、サザはそんな気にはなれなかった。アムリタの方もまた、ミカヤに同情などされたくはなかったのではないだろうか。
「王子、よろしいのですか」
タウロニオがそう尋ねると、セネリオは、
「構いません。それよりも、話を元に戻しますが…」
と言って、タウロニオとミカヤに目を向ける。そして彼は、二人にこう告げた。
「出撃します。部隊は駐屯軍の制圧部隊と市民の救出部隊の二つに分けて、制圧部隊の指揮はタウロニオ将軍に。救出部隊の指揮はミカヤ、あなたに取ってもらいます」
「わたしが、ですか?」
ミカヤが己の胸に手を当ててセネリオに尋ねる。
「あなた方【暁の団】は、ごく最近までネヴァサで暮らしていたのでしょう? ならば、市街の地形に慣れている筈」
「確かに……はい、解りました」
「救出部隊の目標は市民の救出と、市街の混乱の鎮圧。制圧部隊は、ジェルド将軍を始めとする駐屯軍残党の捕獲です。出来うる限り虜獲するように」
デイン解放軍だけで駐屯軍を殲滅させてしまっては、視察団の派遣を決定した神使の顔を潰す事になる。よって、彼らの最終的な処断は視察団の手に任せなければならない。
「俺はどうすればいい?」
アイクが口を開いた。その背に負っている剣が、つい先日まで使っていたものと違う事にサザは気づいた。新しく買い替えたのだろうか? いつ買い替えたにしろ、それを使わないでおくのは非常に勿体ないことだと思う。
「アイク、あなたは……タウロニオ将軍の指揮下に入って下さい」
「了解した。将軍、よろしく頼む」
アイクはそう言うと、タウロニオの後をついて天幕を出て行った。おそらく、アイクはグレイル傭兵団の直接指揮を任される事になるだろう。
これなら、制圧部隊の方に不安はないとサザは思った。アイクがいれば負ける事はない。誰に対してもそう断言出来る。
「王子……本当によろしいのですか? 視察団の命令に逆らう事になるのでは……?」
ミカヤが念を押すように問う。
「確かに。ですが、停戦命令を先に破ったのは駐屯軍の方です。それに駐屯軍のデイン国民に対するこれまでの酷遇もあります。その辺りを突いて、僕が交渉してみせましょう」
それから少し後のこと。
救出部隊の整列を待つ間、ミカヤがぽつりとこんな事を呟いた。
「王子は大丈夫かしら……」
何を心配しているのだろう。セネリオは王都から遠く離れたこの本陣に待機する筈だ。きちんと守備隊は構えているし、これから王都に向かう自分たちやアイク達に比べれば、危険性はずっと低い筈なのに。
サザがそこを突っ込むと、ミカヤはそうじゃなくて、と言った。
「わたしが言っているのは、アムリタ様の事よ」
「それは……俺たちが心配するような事か? あれはよくある親子喧嘩だろ。大したことじゃない」
「大したことじゃない……と、いいのだけれど……」
「ミカヤ……ちょっと人が好すぎないか? あれだけ好き勝手に言われて、よくそんな風に心配出来るな」
俯いていたミカヤが、驚いたような表情でサザを見上げる。
何を驚いているのだろうかとサザは思った。こんな風に言う自分がおかしいと言うのか。否、そんな筈はない。これまで兵士たちの期待を背負いながら命を懸けて戦ってきたミカヤに対し、アムリタの言葉はあまりに辛辣だった。憤慨しない方がおかしい。
「サザ……でも、わたしは……」
「でも、なんだよ? あそこまで言われて、ミカヤだって腹が立ったろ。何であそこで言い返さなかったんだよ。あの人はあんたに嫌味を言いたいだけなんだろうが、だからってこっちが黙ってたら、ずっと言われたい放題なんじゃないか?」
サザは次第に自分の口調が荒々しくなっていくのを自覚しながら、しかしそれを自分で抑えることが出来なかった。更に言い募ろうとしたところに、誰かの呼びかけが割って入ってくる。
「あ、あの……」
「何だ!?」
邪魔するなと言わんばかりにサザが出した声は、自分で思っていた以上に大きかった。声をかけてきた兵士がびくりと身体を竦ませる。癖のある髪をした大人しそうな青年……確か、名前はペレアスだったか。この軍でも珍しい闇魔法の使い手なので、顔と名前だけは覚えているが、それ以上はよく知らない。
「どうかしたの?」
ミカヤが前に出て話しかけ、ペレアスの用向きを尋ね始めた。そこへまたトパックがサザに声をかけてきたものだから、話は有耶無耶になってしまった。
兵たちの手前、あれ以上言い争うべきではなかったと後で反省したが……その一方で、あの時、勢いに任せて言ってしまうべきだったかもしれないとも思った。
いつもいつも言いたいと思っていたのだ。
理由の察しはつくが……いい加減、自分に負い目を持つのはやめてほしい、と。
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境界線のその先に(14)
ペ様はデイン出身の孤児の魔道士。解放軍の決起を知って集まった志願兵の一人です。それだけ。
設定が決まっていながら、これまで登場させる機会がありませんでした。
というか…出番は多分ここだけです。ファンの方、すいません。
設定が決まっていながら、これまで登場させる機会がありませんでした。
というか…出番は多分ここだけです。ファンの方、すいません。