境界線のその先に(5)
きれいな人。
ミストは、セネリオの母だという女性を初めて目にした時、真っ先にそう思った。
美しい女性だった。一見してティアマトとそう変わらない年齢に見えるが、おそらく実年齢はもっと上なのだろう。背中に流した豊かな黒い髪と、浅黒い肌。額の左側には、雷のような形状の赤い痣があった。
その女性は部屋に飛び込んでくるなり、その場で立ち尽くした。その目は真っ直ぐにセネリオの方を、額に【印】を持つ少年の方を向いていたが、すぐに彼女はセネリオに駆け寄ると、両手を伸ばしてその顔を覗き込んだ。その目は涙でみるみるうちに潤み、両手は感動からかうち震えていた。
それに対するセネリオの反応はというと……どういう態度を取ったら良いのか、戸惑っているようだった。いつも冷静な彼らしからぬ程に。
長年彼と生活を共にしてきたミスト達にしてみれば、セネリオがこうして誰かに身体を触られても、何も言わずにされるがままになっているのは、何とも異様な光景である。
それにしても、確かにタウロニオ将軍の言う通りだった。意識して見比べてみれば、確かに、この女性とセネリオの容貌はどことなく似通っている。
その時、アイクが無言で部屋の扉を開け、廊下に出て行った。皆がそれに続いて次々と部屋を後にする。
そうして、残されたのはたった二人になった。


部屋を退出したアイク達は、思い思いに時間を潰した。ボーレとヨファは砦内を見て回ると言ってキルロイを連れてどこかへ行き、オスカーは自分とティアマトの馬の様子を見に行った。ワユはツイハークの所へ剣術談議に赴いた。シノンはガトリーと共に無言でどこかへ行ってしまい、残ったアイク・ティアマト・ミストは、タウロニオと話をしていた。
「タウロニオ将軍、ここの解放軍の頭数はどのくらいなんだ?」
「……二十人にも満たぬ。そしてその殆どが、戦いの経験が無い者ばかりだ。兵士は皆、収容所送りにされてしまったからな……」
たった二十人では、最早、軍とも呼べないような人数である。戦闘経験のない者には、暇を見つけてタウロニオが稽古をつけているそうだが……どうしても旗頭がない今は、解放軍全体が精神面で十分に結束していないそうだった。
「……お兄ちゃん……これからどうするの?」
「それは、セネリオ次第だな。俺たちはセネリオの付き添いで来たんだ。あいつがクリミアに帰るまでは、ここにいる事になる」
すると、タウロニオがアイク達にこう尋ねてきた。
「……では、やはりセネリオ殿は、解放軍を指導する気はないと……?」
「そう言っていた。出立前の話だから、あいつの考えが変わる可能性はあるが……」
「そうか……仕方あるまいな……ならば、そなた達は出来る限り早めにここを去るべきだろう。帝国の駐屯軍に目をつけられては危険だ」
「そうだな、あいつの素性が駐屯軍に知られないうちに、クリミアに戻る」
「ですが……よろしいのですか? あなた方は、セネリオを必要としているのでしょう?」
ティアマトの問いに対し、タウロニオは首を縦に振った。
「確かに、我々は主たる方を……デインの玉座につかれるべき方を必要としている。だが今更、何も知らず平民として暮らしてきたセネリオ殿に、王族としての人生を強いることなど出来まい。最も……アムリタ様はお嘆きになるであろうな。ようやく会えた我が子と、再び別れる事になるのだから……」
「……なあ、将軍。あんたはセネリオの素性を知っているのか?」
「何の事だ?」
タウロニオの反応を見て、アイク達は察した。タウロニオは、セネリオが【印付き】であることを知らないのだという事を。タウロニオが知らないということは、他の解放軍のメンバーも知らないのだろう。アムリタが竜鱗族だという事すら、明かしていないに違いない。
「大将!」
ワユが廊下を駆けてきた。何やらただ事ではないな、と見て取った三人の身体に緊張が走る。
彼女の口から届けられた知らせは……この砦に、駐屯軍の捜索隊がやって来たという知らせであった。
それは即ち、アイク達が嫌が応でもデイン解放の戦いに参加せざるを得ない事の前兆だった。

タウロニオには逃げろと言われたが、アイク達はそれを拒んだ。ここにはかつての戦友達と、それに、セネリオの母がいるのだ。目の前で危機に瀕している彼らを置いては行けない。
無論、駐屯軍に投降する訳にもいかなかった。アイク達はデイン解放軍ではないから、その事を駐屯軍に説明すれば、国外追放ぐらいで済みそうではあった。捜索部隊の指揮官が話の分かる人物であれば。
しかしながら、グレイル傭兵団がデイン解放軍と無関係だという事を説明しようとすれば、何故クリミア人の彼らがここにいるのかをも説明しなくてはいけない。その理由を説明するという事は、セネリオを……団の仲間を犠牲にするという事だ。
いずれにしろ、アイク達には戦うという選択肢しか残されていなかった。
駐屯軍の捜索隊の目的は、勿論、反乱軍の討伐であった。どうやら彼らは反乱軍を、僅かな敗残兵と一般市民の寄せ集め程度と見込んでいたらしい。にも関わらず砦の中から打って出てきたのは、明らかに戦い慣れした強者達ばかりなものだから、捜索隊は作戦を変更する間もなく殲滅させられてしまった。
「……何人か逃げたようだね。アイク、追撃するかい?」
オスカーがアイクにそう尋ねたが、アイクは首を横に振った。
「いや。ここから他所に移る方が先だろう」
「了解」
団員たちは皆無傷で、戦い疲れた様子もなかった。そこへ、同じく無傷のツイハークが、抜き身の剣を鞘に納めて駆け寄ってきた。
「アイク、すまない。君たちを、俺たちの戦いに巻き込むことになってしまった……」
「いや、気にするな。俺たちの方も、ここに来るまでの間に、こんな事になる可能性を想定していなかった訳じゃないんだ」
なるべく回避したい可能性ではあったのだが、こうなっては仕方ない。
もう、グレイル傭兵団はデインから出る事は出来ないだろう。逃げ帰った者達からの情報を頼りに、駐屯軍がすぐにアイク達の首に賞金をかけるに違いない。
そこへ、砦の中に待機していたキルロイがやって来た。
「みんな! ここの砦を引き払うそうだよ。すぐに別のアジトに移る、って。それとアイク、タウロニオさんが呼んでるよ」
「解った。皆、撤収の用意を。俺はこれからの行動を、タウロニオ将軍と話し合ってくる」
アイクはティアマトと途中で合流し、早足でタウロニオのいる部屋へ向かった。
すると、その部屋の中ではセネリオがイズカと言い争っていた。
「……貴方は勝手が過ぎる!」
声を荒げてそう怒鳴るセネリオの肩に、アイクが手を置いた。
「セネリオ、落ち着け。一体どうしたんだ」
「あっ、アイク……」
アイクの存在に気づいたセネリオは、一瞬ばつの悪そうな表情になった。
「……アイク、外の方ははどうなりましたか?」
団員たちの中で、セネリオだけは先程の戦いに参加していなかった。参加する前にアイク達が早々に敵を片付けてしまったというのもあるが、危険だからとアムリタやイズカに止められたのが、主な理由であった。
「捜索部隊は撃退した。追っ手がかかる前に、どこか別な場所へ移ろう」
「解りました」
セネリオはもう冷静さを取り戻した様子であった。
アイク達が来るまで、イズカと一体何を言い争っていたのか……それはアイク達がデイン解放軍と共に別の拠点へ移動した後の夜になって、ようやく判明した。


その夜、セネリオは自分に与えられた部屋の寝台に腰を下ろしていた。
新しいアジトは廃棄された古城だった。セネリオが今いるのは、その中でも綺麗で、家具が幾つか残ったままの部屋である。明らかに他の団員たちと違う待遇をセネリオは嫌がったが、イズカが強引に押し切った。それにアムリタも……彼の母なる女性も、イズカに賛同した。
「イズカの言う通りにするのです、セネリオ。貴方が、他の者達とは違う待遇を受けるのは当然の事なのよ。あなたはデインの王子なのよ、セネリオ。いいえ、あなたにはデイン王家の血だけではない、誇り高きゴルドア王家の血も流れているの。だから……」
あの女性に、どこかものに憑かれたような眼差しで見つめられながらそう諭されると、セネリオは何故か反抗出来なかった。
あの女性の存在は、正直、セネリオにとって重い。けれど、何故か振り払えない。
そう思うのは、やはり血が繋がっているせいなのだろうか。これが、肉親の情というものなのだろうか。
……僕は一体あの女性に、どんな態度で接したらいいんだろう?
「セネリオ、起きているか?」 
ドアがノックされた後、アイクの声がした。セネリオは、慌てて彼を中に招き入れた。
アイクは武装していなかった。剣は、部屋に置いてきたらしい。ちなみにアイクの部屋は、シノン・ガトリーとの相部屋である。
アイクは扉を後ろ手に閉めると、すぐに用事を切り出した。
「イズカ達と話をしてきた」
「……そうですか…」
アイクが言っている話というのは、セネリオの今後についてだろう。
先王の遺児として名乗りを上げ、デイン解放軍を率いる事に、セネリオは始めから難色を示していた。そんな彼をイズカは、ありとあらゆる言葉を尽くし説得しようとしてきた。
セネリオをデインに引き留める為に、イズカは独断で解放軍の皆に、『王子が見つかった』と触れ回ったのだ。それを聞いたセネリオは憤った。自分はただ母に会いに来ただけなのに、勝手なことをしてくれたと彼を罵った。しかし、そんなセネリオにイズカは言った。
「恐れながら王子。デイン王家の血筋は先王陛下により粛清され、その先王陛下もお亡くなりになられました。今やデイン王家の生き残りは、王子ただお一人のみ。王族たる方には、生まれついての王族としての義務がございます。王子は、それを放棄されるおつもりなのですか」
確かに、セネリオにはデイン王家の直系として、滅亡した国を再興し民を救う義務があるのだろう。血筋の重みは大きい、それが貴ければ貴い程。
だがセネリオは、王族として生まれはしたが、王族として育てられた訳ではない。ましてや、デインという国自体に何の思い入れもない。それなのに為政者としての役割を科せられる、その事が、どうしても不条理だと思えてならないのだ。
しかしながら、イズカに母の事を引き合いに出されたセネリオは、逃げ出すことすら出来なくなってしまっていた。
アムリタは、竜鱗族の掟に背いて国を出た上、ベオクとの間に【印付き】の子供を設けてしまった。禁忌を重ねて破った以上、とても祖国に帰ることなど出来ないのだという。頼る者も帰る場所もない母を見捨ててクリミアに帰るのか、とイズカに詰問されてしまえば、セネリオは反論すら出来なかった。
「タウロニオ将軍は、お前の意志を尊重したいと言っていた。王子だからといって、お前を無理矢理玉座に据えるようなことはしたくないそうだ」
「そうですか……いずれにしろ、僕たちはもうクリミアには帰れませんね。傭兵団全員が、反乱軍の一味として賞金首でしょう」
「そうだな。デイン解放の戦いに、付き合わされることになってしまった」
「……アイク」
すみません、と言おうとしたセネリオの口を、アイクは一瞥するだけで塞いだ。
「セネリオ、俺たちは家族だろう。それにみんな、自分でそうしようと決めたからここに来たんだ。誰に強制された訳でもない」
「……アイク……」
「……団長としてではない、俺自身の本音を言うとな……俺は、この戦いに参加するのは、嫌じゃないんだ」
予想外の本音だったので、セネリオは赤い瞳を大きく見張った。何故かと理由を訊ねると、アイクはこう答えを返してきた。
「三年前、俺たちはエリンシアを助けてアシュナード王を倒した。俺はそこで、ようやく長い戦いが終わったと思っていたんだが……実はまだ、俺たちの戦いは終わっていないんじゃないか?」
「……アイクの中ではまだ、戦いの終焉には至っていないということですか?」
アイクはこくりと頷いた。
「クリミアが再興したのはいいが、その一方で、デインはこんな有様に成り果ててしまった。だが俺たちは、デインをこんなひどい国にしたくて戦い続けた訳じゃない筈だ。多くの犠牲を払ったあの戦いの果てが、こんな結末であっていい筈がないだろう」
「……ですがアイク。それでは、あなたの戦いは一生終わらないでしょう」
どんな国にも永久の繁栄はない。時代の移り変わりの中で盛衰を繰り返す。
だから、アイクが剣を振るって平和をもたらしたとしても、その平和は一時のことにしか過ぎない。すぐにその平和は破れ、アイクは再びまだ剣を取らざるを得なくなる。
「それでもいい。俺は、この命が果てるまで戦い続けてやる」
アイクは迷いなくそう宣言した。
一生を剣に捧げる人生。それはおそらく、安息の時が続かない人生になるのだろう。戦い続けの人生など心身が折れそうだと思うが、アイクなら、そんな人生を完遂出来るのかもしれない。
「……僕が……あなたがもたらした平和を、出来る限り長く保ち続けられたなら。でも、僕にはきっと……出来ません」
セネリオはそう言って俯いた。
「何故だ、セネリオ? お前が【印付き】だからか」
「それもありますが、僕なりに考えたんです。仮に僕がデインの王となったとして、この国をどう治めていくか。色々考えましたが……一言で言うなら、差別や腐敗のない、住みよい国にしたいと思いました。ですが、それは……あのアシュナード王の創ろうとした国と、根本的な所は違わないんです」
セネリオはアシュナードの名を口にする時、今までとは違った複雑な重みを感じた。あの狂王が父だと知った途端、名前を口にするだけで普通と違う気分になるのが不思議だと思った。
アシュナード王は生まれによる差別を厭い、実力主義の公平な世界を創ろうとしていた。セネリオが思い描いたデインの未来も、実はそれとさして違わない。
「アシュナード王は弱者を否定する姿勢だった。でも、お前はそんな事はしないだろう」
「僕は……僕なら、捨て置きます。自力で這い上がろうとする気概のない者は、それが出来る者の保護を甘んじて受けるべきだと考えます」
しかしそれでは程度は違うだけで、実力主義という点は共通してしまっている。
「……僕には間違いなく、あの男と同じ血が流れているんです」
こんなことが本当にあるものなのだろうか? 肉親というだけで、あんな狂人と思想が似通ってしまうなんて。そんな自分が、デインの新たな王になっても良いのだろうか。
戦いの果てに再びデイン王国を興したとしても、すぐに滅亡への道を辿ってしまったら、それまでに払った犠牲全てが無駄になってしまう。
王の血脈が、仄暗い鎖となって自分の四肢に絡みついているのをセネリオは感じる。
そうして思い悩んで俯いた彼の頭に、アイクは手をかけて優しく撫でてやった。
「……セネリオ、恐れるな。お前はアシュナード王じゃないんだ。同じ血が流れているとしても、同じ人間じゃない。それに……俺たちは先王の過ちから学ぶことが出来る筈だ。お前は頭がいいから、先代の政治の何が良くて何がいけなかったか、解るだろう? そこから、お前の創る国の有り様を考えればいい。そしてもし悩むような事があれば、誰かを頼れ」
「……」
「いや……お前が『誰かを頼る』のはまだ無理か。人の手を借りろ。それなら出来るだろう?」
「……はい、それなら……」

デインの新たな王として、国を再興させる。それが自分にとって、三年前の戦いの続きになるのだろう。
今はまだ、この人と共に戦い、共に生きられる。
けれど……それもいつまで続くのだろうか。


境界線はまだ、互いの間で静かに横たわっている。

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デイン解放軍にジルの姿がないのは、この頃はまだハールさんと同居中という設定だからです。