境界線のその先に(3)
まだ夜の冷たさの残る早朝、傭兵団の砦から少し離れた農道の分岐点で、馬を連れたイズカが待ち構えていた。朝の挨拶をかけられたものの、セネリオはそれをまるきり無視した。この男と、必要以上の口を利く気にはなれなかったからだ。
出立には人気のない時間を選び、容貌を隠すために自前の外套を深く被っていた。グレイル傭兵団は皆、先の戦ですっかり有名人になってしまった。だからこうして顔を隠さなければ、すぐクリミア国内では人の噂に上ってしまう。それは避けなければならなかった。今から向かう場所は、いわばクリミアにとっては敵地なのだから。
こうして人目を忍ぶ旅路は、セネリオにとっては初めてではない。思えばセネリオの人生はずっと、人目を忍び続けてきたようなものだ。おそらく、これからも。
ただし、今回の旅路は独りきりではなかった。
「おはようございます、イズカ殿」
「おはようございます」
後ろから穏やかな挨拶を述べるのは、ティアマトだ。オスカーがそれに続く。
オスカーの馬の隣には、徒歩でついて来るボーレ、ヨファ、そしてガトリー。こんな早い時間から元気のあり余るワユも一緒だ。彼女とは反対にキルロイは少し眠そうである。そして、皆の殿をシノンが務めている。
そんな彼らの中心にいるのは無論、アイクであった。
「見ての通り、こちらの準備は万端だ……出発しよう。セネリオ」
名前を呼ばれ、セネリオははい、と答えてアイクの隣に歩み寄った。

デインへ至る旅路は、独りではなかった。



一昨日、唐突に砦を訪れたイズカがセネリオに話して聞かせたのは、次のようなことであった。
……生前、アシュナードはとあるラグズの女を囲っていた。その女は自分の事を、ラグズの中でも最強と言われる竜鱗の一族だと名乗った。
アシュナードは特定の女性に興味を持たない性格であったが、その女の強さには関心を寄せた。
当時、王族の中でも劣り腹のアシュナードは、王子でありながら宮廷では軽視されていた。その為、彼がラグズの女性を側に置いていても、その事実は殆ど外部に漏れなかった。二人が正式な結婚をしなければ、尚更のことだった。
そうして時は流れ、二人の間に子供が生まれた……男児であった。生まれてきた赤子は額に【印】を持っていたが、その意味を当初は誰も気づかず、珍しい痣だとしか思わなかった。
だが……子供が生まれてすぐ、竜鱗族の娘の体に異変が起こった。
何故か、彼女は竜の姿に化身できなくなっていたのである。その時になって、彼女はようやく【印】にまつわる言い伝えを思い出した。幼い時、彼女が父に幾度か聞かされてきた言い伝え……【親無し】について。

通常、他種族間で子供が生まれることはない。それが、この世界を創造した女神アスタルテの理である。
しかしラグズとベオクの場合、稀に女神の理に反し、子供が生まれる場合がある。生まれた子にはベオクならざる寿命と異能が備わっている事があるが、その場合、子供の体のどこかには【印】がある。まるで、女神に背いた罪の烙印のように。
【印】を持つ子供は【親無し】または【印付き】と呼ばれ、ラグズ社会では存在を否定され、ベオク社会では迫害される。
それだけではない。理に反した罰は子供だけではなく、ラグズの親にも及ぶ。ラグズの親はラグズとしての能力を全て失い、ラグズでもベオクでもない存在へとなり果てるという。

竜鱗族の女は、その言い伝えをあまり信じていなかった。一族の子供たちを国外へ出て行かせないために大人たちが創作した、ただのほら話だと思っていた。
しかし、その言い伝えが紛れもない事実であったことを悟り、彼女は衝撃を受けた。彼女の夫であるアシュナードも、妻が化身能力を失ったと知るや、ラグズに詳しい学者を呼び寄せて調べさせた。
その学者が他ならぬ、イズカだったのだ。
イズカが己の知識を絞って悩み、数多の書物をかき集めて調べ回っても、女の能力を取り戻す方法はとうとう見つからなかった。
そして……アシュナードの関心は、妻から【印付き】の息子へと移った。
彼は無力となった妻から息子を取り上げると、適当な者を選んで養育を命じた。息子がどんな能力を備えているか、しばらく様子を見ようとしたのである。
そして、一年ほど経ったが…【印付き】の息子は普通の子供となんら変わりなかった。それを知ったアシュナードが、息子に失望したことは言うまでもない。
しかし、その頃になって、彼の妻の兄と名乗る者がアシュナードの前に現れた。国を出奔して以来、音沙汰のなかった妹を捜してきたという男。彼もまた竜鱗族……それもとても強い竜であった。
アシュナードは自分の息子を盾に、竜鱗族の男に服従を迫った。男は妹のため、幼い甥のためにアシュナードに屈し、【なりそこない】へと変わり果てた。
この頃になると、アシュナードは父王を殺し、デイン王としての地位を獲得していた。その上に力強い竜を従えたことで一時の満足を得たためか、彼の頭からは離宮に捨て置いた妻のことも、預けたままの息子の事も消え去っていった。既に二人とも、王にとっては無用の物であったのだ。



つまり、話を整理するとこうだ。
アシュナード王には内縁の奥方がいた。二人の間に王子が一人。
それから、その奥方は竜鱗族で、兄がいた。
そして、そのアシュナード王の息子というのが……セネリオだという。

イズカによると、現在、駐屯軍の圧政に反対するデインの遺臣たちが身を潜め、決起の機会を伺っている。しかし遺臣たちの中には、今のデイン国民の支持を一手に集められる存在がいない。デインの名だたる勇将は殆ど先の戦で戦死し、優れた文官も多くが帝国の役人にとって代わられ、地位を追われた。
そこでイズカが思い当たったのが、アシュナード王の遺児の存在である。王の寵妃は人目を忍ぶように暮らしているため、帝国の駐屯軍に未だ存在を知られていない。まして彼女との間に子供がいたことを知るのはもうイズカと、彼女の身の回りの世話をする二、三人の使用人だけだ。
イズカは帝国に感づかれないよう手を尽くし、王の遺児の行方を探し求めた。王子が、当時アシュナードに仕えていた下男の娘に預けられたところまでは簡単に解ったが、その娘は【印付き】の王子を持て余し、独断で手放してしまったというのだ。王子がガリアに住む賢者に引き取られたと知ったイズカは即座にガリアに向かったものの、その賢者は既に亡く、王子の行方も解らずじまいであった。
手がかりらしい手がかりも見つからず諦めかけたイズカであったが、その時彼の耳に飛び込んできたのは、デイン=クリミア戦争で活躍したグレイル傭兵団の噂であった。
彼ら傭兵団は、クリミア王女を助けアシュナード王を倒した、いわばデインの敵といっていい存在である。しかしながら、デインの遺臣たちの中には先の戦争や先王について否定的な立場の者もいたし、イズカ個人としては、もしグレイル傭兵団が金銭で動かせる者たちならば、帝国打倒の為の戦力として雇い入れたいとも思っていた。だからイズカは、グレイル傭兵団について簡単に調べて回った。
すると浮上してきたのが、グレイル傭兵団の軍師・セネリオの存在である。彼の額に特徴的な印があるという話を耳にしたイズカは、セネリオ個人に狙いを定めて調べた。
幼い外見の割に大人びた性格であること。
魔道に長けていること。
傭兵団に入る前の過去が不明なこと。
ラグズを嫌っていること。
これらの点から、イズカはもしかしたらセネリオは【印付き】であり、自分が探しているアシュナードの遺児なのではないかという疑問を持つに至った。そして当人と会って確かめるため、傭兵団の元にやってきたのだという。

話を終えたイズカは、半ば一方的に待ち合わせの約束を取り付け、用事があるとか言って帰って行った。
そしてセネリオは、初めて、自分の出自を団員たちに語った。それまで彼の出自を知っているのは、傭兵団の中ではアイクだけであった。団に入る際、グレイルとティアマトに説明はしたものの、その時は『クリミアの教会で魔法を習った』ぐらいのことしか話さなかった。グレイルもティアマトも深く詮索せずに信用してくれたし、二人の信用を得たことで、他の団員たちからも取り立てて前身を尋ねられる様な事もなかった。だから、特に話す必要もなかったのだ……これまでは。
とはいえ、セネリオが傭兵団の皆に語った内容は、先の戦争でアイクに打ち明けた内容とほぼ変わらないものだった。それから更にセネリオは、ベグニオンの大神殿で得た【印付き】に関する知識を話し、
「……あのイズカという男の話には色々と疑問点が残りますが、少なくとも【印付き】に関する説明には嘘はありません。僕の知る限りでは」
と注釈し、更に自分の出自や年齢が、イズカの話とおおよそ合致しているという事実     認めたくない事実ではあったが     も補足した。
セネリオの実年齢については、やはり皆驚いた。無理もない。小柄で顔立ちにも幼さの残るセネリオは、どう見てもミストやヨファと同じくらいの年齢にしか見えない。事実、団に入った時から今まで年齢をごまかして、それで通っていたのだ。
イズカの話をどこまで信用するべきか、それについては団員たちの意見は纏まらなかった。
「……あいつ、なーんか胡散臭いよな。あいつの話が全部嘘ばっかりって訳じゃないんだろうけど……いまいち信用できないんだよなあ」
ボーレのその意見には皆同感であった。イズカの話は、妙なところで曖昧だったからだ。例えば、あの【なりそこない】の薬の出所について問い質すと、『それについては知らない』の一点張りである。
先の戦争において、【なりそこない】の研究という忌まわしい行いをしていた者は、今もなお、デイン国内外で賞金首となっているらしい。グリトネア塔の惨状を目の当たりにしたアイク達としても、その者が一刻も早く捕らえられることを願うばかりだった。
セネリオ自身は、あの男の言っている事は、おおよそ真実だと考えていた。ただ、他にまだ何か、隠していることがありそうだとも思った。少なくともイズカという男は、忠節や愛国心からデインの復興を望んでいる訳ではない様だ。そんな人柄には見えない。
きっと彼には彼なりの何らかの打算があり、デインが復興する事によって、彼の目的は達成されるのだろう。そしてその為に……セネリオを利用しようとしている。
無論、セネリオはイズカに利用されるつもりなど毛頭なかった。自分がデインの王族である。それが事実であったとしても……現在のデインが悲惨な支配下にあるとしても、デインの為に戦う気など毛頭ない。その事は出立前、団員たちにはっきり伝えてある。
そもそもセネリオは先の戦で、クリミア軍の一員としてデインを滅ぼした人間だ。そんな人間が王族として名乗りを上げたところで、デイン国民の人心が集まるとは思えなかった。
ならば何故デインへ赴くのか……その理由はただ一つ、母の存在であった。
イズカも老獪なもので、彼はセネリオをデインへ来させるために、話の中で、セネリオの母だという女性が置かれている状況をちらつかせた。いつ駐屯軍に発見されてもおかしくない危険な中、手放した我が子を思いながら、ベオクの国で孤独な日々を過ごす母……そんな話を聞かされれば、いつも冷静なセネリオも、多少心を動かさずにはいられなかった。
ただし、彼の胸にこみ上げたのは、決して暖かく切ない気持ちではなかった。むしろ今更自分の人生に姿を見せた生母の存在に対し、言葉に出来ない憤りや苛立ちを覚えていた。
だから、会いたくはないかと問われても、セネリオは黙って顔を背けた。何もかもをなかったことにして、明日から元通りの、けれど限りある平穏な日々を過ごしたかった。
その考えを変えざるを得なかったのは、アイクの言葉であった。
「会いに行ってやれ」
そう言われた時、一瞬、これは退団通告なのかとセネリオは思った。だがアイクは続けてこう言った。
「会いに行ってやれ、セネリオ。デイン解放なんぞとりあえず置いといて、とりあえず、お前の母親だという女に会いに行こう。お前は気乗りがしないんだろうが……お前を生んだ母親は、この世にたった一人だけなんだ。だから、会いに行け。それが出来る今のうちに。俺も一緒に行ってやるから」
幼くして母を亡くしたアイクの心境を思えば、セネリオは彼の言葉に頷くしかなかった。
するとアイクだけではなく、ミストも同行したいと申し出た。彼女に続いてヨファ、ボーレ、ガトリーとぞろぞろぞろ。終いにはシノンも含めた傭兵団全員が、セネリオに同行することになった。
彼らはセネリオの出自を知ってなお、特別態度を改めるようなことはなかった……少なくとも表面だけは。内心はどうだか解ったものではないとセネリオは思うが、口には出さない。わざわざ揉め事を引き起こすこともないだろう……。

……昨晩からアイクが考え込んでいる。自分に、デインに行くよう勧めたことを気にしているのだろうかと、セネリオは思った。
確かにアイクの言葉通り、気乗りのしない旅立ちであった。
ただ……ひょっとしたら。

ひょっとしたら自分は、彼に背中を押されることを期待していたのかもしれない。
独りでは、とてもそんな勇気は出せないから。

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