You won't leave my mind.(5)

『同居人が1人増えた』という点は何ら変わらないのにも関わらず、怪我人だったジストより遙かにユアンはサレフの手を焼かせる存在だった。
ユアンは魔道に関しては何より熱心で、教えられた事を良く学び、柔軟な思考で良く考える。それはいい。問題はその他の生活において、だ。好奇心が人一倍強いのか、黙って外に出たり研究室の危険な道具に触ってみたりと、浅慮な行動を起こしがちで、危なっかしい事この上ない弟子だった。山で迷う、川には落ちる、魔物には遭う。ポカラの里に連れて行った時もそうで、いつの間にやら里を出てしまったので捜索すると、崖から突き出た木一本にぶら下がったきわどい状態で見つかった。
そんなユアンを、祖母は利発で聡明そうな少年だと笑って評した。


半年くらい経過したのではないかと思われるような、目まぐるしい2週間が過ぎた。
「…」
ユアンが(珍しく)沈黙し、じっとして家の外に座り込んでいた。
「…何をしている」
「…」
一切反応なし。
何をしているのか想像がついたので、サレフはそのまま彼の後ろに立って考え事をした。
この近年、明らかに魔物としか思えないような異形の怪物が各地で見られるようになってきた。辺境で年に一度見られるか見られないかが、半年に一度になり、4ヶ月に一度になり…確実に数が増えてきている。異常だ。この件についてはそのうち、祖母の元に出向いて尋ねてみるべきか。
と、ユアンが立ち上がって背伸びをした。
「ユアン?」
「うーん…やっぱり良く分かんないや」
ユアンはそう言ってすくっと立ち上がり、背伸びをした。
「ポカラの里でみんなやってた、…えーとー、何だっけ」
「…『パレガ』か?」
「そう、それ。やってみたんだけど難しかったよ。難しいって言うか、良く分かんなくて。解釈…みたいなのは一応何度も聞いて、どんなのかなって考えてみたんだけど、実践しないと分かんないって思ってやってみたんだ」
でも分からない、と、ユアンは肩をすくめた。サレフが口元を綻ばせる。すると、ユアンが妙な表情をした。
「…どうした?」
「あれ…」
指を差す。
「誰か来るよ」
「…」
ユアンの言う通りで、誰かが山を登ってくるのが見えた。遠目で明確には視認出来ないが3人連れだ。
「…お姉ちゃんじゃないかなあ、あれ」
「…」
「そうだよ、お姉ちゃん達だ!」
ジストだ。
遠目だが直感でそうだと判った。隣にいる紫の髪は、マリカだろう。反対側の女性らしい人影がユアンの姉らしい。名前はテティスと聞いているユアンがぶんぶんと大きく手を振ると、それらしき人物が手を振り返した。
ジストが来た所で何ら不自然ではない。普通、女性が1人でジャハナからここまで来る筈がない。誰か連れがあって然るべきだ。だが予想していなかった。予想外だっただけに、サレフはひどく動揺した。
「お師匠さま?」
ユアンが小首を傾げる。
「どうかした?」
「いや…」
「ん?…うえ、隊長が一緒だよ」
ユアンのその言い方には、明らかに不満の色がある。
「…それがどうした」
「どうもしないけどー、別に隊長キライじゃないけどー…」
ユアンの姉らしき女性が坂を駆け上がってきた。
「ユーアーンっ!貴方ったら!」
どうやらこの女性、まず始めに叱ろうと決意していた様だ。テティスは少しかがんでまだ背の伸びきらない弟に目線を合わせ、厳しい顔で叱りつけた。
「どうして勝手にいなくなるの、お姉ちゃんに相談もしないで!魔法を学びたいならせめてお姉ちゃんが帰ってくるまで待って、それから相談してからでしょう!」
「そうだけど…待ちきれなかったんだもん。…ごめんなさい」
しゅんとうなだれて、ユアンは姉に謝った。踊り子だという話は彼の口から耳にしていたが、それでもユアンの姉と言うからにはまだ10代だろうと何となく思っていたが、明らかに目の前の女性は20代の大人の女だ。歳の離れた姉弟である。
彼女は弟をまず叱り終えると立ち直し、サレフに挨拶した。
「弟がお世話になりましたそうで、ありがとうございます」
しっかりとした挨拶だった。これまで何度かユアンは姉の話を口にしていたが、彼女の一見派手な美貌には、これまでの辛苦の影も忍ばれた。
サレフは無言で頭を下げただけだった。返事をしないのは失礼に当たるのは分かっていたが、ユアンがここに来る事を許可したのは自分である為、この場合感謝されると返事に困る。
後ろのマリカも無言で頭を下げた。
「よう」
ジストが口元を僅かに緩めて手を上げ、挨拶する。やはり返事に困った。
彼がやって来た理由は理解出来る。だがこうして目を合わせていられる理由が解らない。解らなくて、サレフは視線を逸らした。
「…中に入れ」
「ねえお師匠さま、1回、お姉ちゃんに僕の魔法見せてもいい?」
「…今日は、既に4回行った」
「午前にだよ、午前。今は午後だもん、十分身体は休めたよ。ね?」
ね?と更にもう一押ししながら詰め寄るユアン。今日テティスが日帰りで帰るというならともかく、夕方間近に来てそれはないだろう。明日でもいいと思うのだが、それを言ってもきかないに違いない。
「…中に入れ。その後で、一度だけだ」
「やった!」


その日の夕食の席は賑やかだった。以前は勿論独りであったし、ユアンが来てからはユアンが喋ってサレフが短く返答するぐらいだったのだが、それに3人加わると食事の席が賑やかな事賑やかな事。大した物は出せなかった。手紙をくれれば何か用意したのだが、どうやら3人は仕事が終わってすぐこちらに来たようで、そんなものを出す暇がなかったらしい。キリィスラ酒も用意出来なかった。
夕食の話題の中で明日ポカラの里に行く事がいつの間にか決定した。
「岩ゴケがすごくて慣れないと登りにくいんだけどね、コツをつかめばすいすい登れるよ。ちょっと遠いけど。ね、お師匠さま」
「…」
「僕、一回結構急な所でツルって転んじゃって、下までだだだーって落ちちゃった事あるんだ。でも大丈夫だったよ」
けろりとした顔で本人は体験談を話す。かなり危険な体験談だ。聞く者をぞわっと震わせる。テティスが真っ青になった。ユアンは笑っているが、とても笑えない。
「…あれは運が良かった」
「怪我っていえば、お師匠さまのここ、どうしたの? ずーっと気になってたんだけど」
隣のユアンが自分の左頬を指さした。そういう事は気にしていても構わないから、別の機会に尋ねてもらいたかった。
「…軽傷だ」
「ふーん」
答えになっていない答えを返したサレフは、この話題を中断させる目的で席から立った。
「何処行くの?」
「今夜は風が強い。先に雨戸を閉めてくる」
サレフが部屋を退出した後、テティスも席を立ってそれを追った。
「ユアン」
「何?隊長」
「いや…何でもない。何話そうとしたか忘れた」
ジストは水を飲んだ。酒がない夜は久しぶりだが、どうやら、今夜の寝付きは悪そうだ。
酒場のマスターからサレフが来たという話を聞かされた時には驚いた。いずれは彼から話しに来る、うち明けてくれると思っていたが、まさかたった3日でその決意を固めてくるとは予想しなかった。
対する自分はまだその準備が出来ていない。やっと落ち着き始めて冷静に考えられるようになったばかりだった。
…サレフが理解出来ない。

テティスが後を追ってきたのでサレフは少々驚いた。彼女は雨戸を閉めるのを手伝ってくれながら、ユアンの様子を色々尋ねてきた。
「迷惑をかけていたりしていない?どうも、落ち着きのない子だから…」
「…利発な子だ。己が求める力について良く理解している。素質もある。浅慮な行動は、じきに自ら改めるようになるだろう」
そう?と尋ねるテティスにサレフが再度念を押す。
「…1つ聞くが」
「何かしら?」
「ジストの具合はどうだ…?」
「もう大丈夫だって本人は言ってたわ。無理して我を張るような人じゃないから、多分本当よ。この間の仕事も別段変わりなかったもの」
「…」
「そういえば…貴方、隊長の恩人なんですってね」
「…」
「傭兵団のみんな、本当に感謝してるわ。隊長は私達になくてはならない人だから」
「…」
「実を言うとね、ちょっぴり、別な意味では不安だったのよ」
「…?」
「だって隊長ったら、何処でどういう風に看病してもらったとか、そういう事を全く話してくれなかったんだもの。看病してくれた人が男か女かすらもね。だからイヤーな予感がしちゃったんだけど、取り越し苦労だったみたいね」
サレフはテティスの言っている事の意味が解らなかった。何故、彼女が不安に駆られるのだろうか。
「あ、今のは、ここだけの話よ?」
形の良い唇に指を当ててテティスが婉然と微笑する。何となくサレフも頷いておいた。



昨夜は眠れなかった。やっと寝付いたかと思えばひどい悪夢。つい先程目覚めたばかりなのに、何故か具体的な内容までは思い出せなかった。恐怖だけが身体に後を引いていた。

井戸から水を汲んで、桶に晒しを浸して顔を拭く。今日は少し頭が重い。
空は晴れていていい天気だった。山が頂まではっきり見える。
布を洗って水を捨て、もう一度水を汲んだ所にジストが起きて出てきた。続けてユアン。
「お師匠さま、おはよう!その水僕が持ってくよ」
両手で水の入った桶を抱えてよたよたと歩いていくユアン。
…後に残った2人の間に、沈黙が降りてきた。
「…具合は?」
「? あ、ああ。もうどうって事ないさ」
顔についていたかすり傷は、もう塞がっている。顔を横に走る古傷よりずっと目立たない痕になりそうだ。
ジストの笑顔を見ていると、何もかもが分からなくなってくる。理解出来ないが、彼を忘れる事は出来そうにない。状況からしても、感情からしても。
「…ジスト…」
「…」
「君は…」
ジストが上を見上げた。
「今朝はいい天気だな」
「…」
「…飯にしようぜ。今日はあっちの山を登るんだよな?」
「…ああ」


それからの数年間、度々顔を合わせる機会には恵まれたが、例の件について話す事はないままだった。ジストはあの朝と同じく『聞きたくない』とサレフに無言で告げ続けた。
今更、直接聞かされたくはない。
ザッパーが目の前で死んだあの瞬間のように、サレフを心底憎めるならば、こんな事にはならなかっただろう。怒りに自我を任せて、それで終わりだ。躊躇なく仇を討っていた。相手が何処の誰でどういう状況下であれ、次の邂逅でその命を奪うつもりでいた。
それでいて、すっかりサレフを許した訳ではなかった。しかし猜疑心深くはなかった。信頼と迷いの中間で動く事が出来ない状態だった。矛盾が心の中で不可思議な同居を続けていたのだ。

一時期、全く会わない期間が続いた。ユアンを連れて修行の旅に出たという話だった。旅先からサレフは手紙1枚文字1つすら送らなかったが、彼の様子についてはユアンが寄越す手紙から察する事が出来た。

そして、ある日を境に、ばったりとサレフが姿を見せなくなってしまった。

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