You won't leave my mind.(3)

水の音が聞こえたのだ。
国土一面が、砂の一粒一粒までが真っ赤に灼けたような灼熱の大地には、まるで縁のない音だ。周囲の木の葉の擦れる音や、鳥の鳴き声…こうしてただ何もせず、耳だけを澄ましているのは、初めてかもしれない。
その音の中にせせらぎを聞いた。光のようなものも瞼の裏に感じた。何となく心を惹かれて、ジストはその方へと歩いていった。道を外れ、土手のような急斜面を下らなければならなかった。大した角度もないのに、いやに降りるのに手間がかかった。
最近は周りの明暗がはっきり分かるようになってきている。もしかしたら、もう、見えているのかもしれない。しかし包帯を解いてみるのが何となく躊躇われる。
いい加減仕事に戻らないとかなりまずい。が、躊躇われた。目が治ればここにいる理由…サレフの元に留まる理由がなくなる。
…何故、彼と寝たのか。
酒の勢いで、という言い訳はかなり苦しい。飲んだ量からしてまず考えられない上…第一、そうしたら自分はただの変質者ではないか。今までそんな嗜好はなかったと断言出来る…少なくとも、あの夜までは。…今は、どうだか。
サレフは何も言わない。態度も全く変わらない。その方が彼らしいように思われるが、しかし、常識的に言えばやはり不自然だ。もしや、努めてそう振る舞っているのだろうか…自分のように。
…彼は、どういう風に笑うのだろうか。
…どう思い描こうとしても、想像しようがない。
あの夜、伸ばした手に触れた唇は少し乾いていて、そして指に息がかかった。自分を呼んだその声を聞いたら、何故か無性に触れたくなった。自制心が働かず、ふつふつと湧き起こった衝動を形にしてしまったのは、それは、やはり酒のせいだったかもしれない。
眦が少しむずがゆくなったので包帯を解いた。瞼の端の辺りがひくつく。妙に目を開けるのが重い動作に感じられる。久しぶりに物を見てみたいという誘惑もあって、瞼を上げた。
目の前に川があった。小さい川だ。水が流れている。
…はっきりともう物が見えるような気がするが、顔を上げて太陽を直視するのは止めておく事にした。サレフに一度聞いてみるべきか…もう目を開けていても良いか悪いか、と。
「ジスト」
サレフの声だ。反射的にジストは振り向いた。



…動けなかった。言葉も出なかった。
「…お前…サレフ…?」
ジストがこちらに一歩足を踏み出すと同時に、反射的にサレフが一歩退いた。何故もうその目が見えるようになっているのか、などという事は問題ではなかった。治りが予想より早かったのか。ジストが自分で包帯を取ってしまったのか、もしくは何かのはずみで解けたのか、それは分からない。分からないが、その疑問の答えを出しても、この状況の打開策のようなものにはならない。
「…お前…」
かすかな呟き。
「…ジスト…」
ゆっくり呼吸をして彼を呼ぶ。声で、自分が何者であるか彼に告白する。
彼が自分の顔を忘れている筈がない。激しく憎悪し、殺してやると叫んだ相手の顔を。
伝えたい事と知られたくない事とが頭の中で複雑に入り組んで区別出来ず、何も言えなかった。この問答は予想の範疇だった筈だ。覚悟もしていた。だが、決して聞きたくないジストの反応を待つのみしか出来なかった。
また、その口から殺意のある事を告げられるのか。腰の剣で自分を斬りたいと思うのか。
「サレフ…どういう事だ…?」
「…」
「お前…どういう事なんだ!!」
ジストを見ているつもりだった。この時が来たら、目を背けずにいる覚悟を決めていた筈だった。だが今の自分の視線はジストを直接捉えていない。
真実は自分の心の中にあって、それは、自分が伝えないと分からない種類のもので。なのに、察してくれる事を相手に求めているのか。
無言のまま唇を引き結ぶサレフに業を煮やし、ジストは斜面を駆け上がって彼の胸倉を掴んだ。
「っ、答えろ!!」
つい数秒前まではもう戻れない。ここまで来た以上、答えなくてはならない。真実は消えない。どれ程消そうと足掻いても、人の心からは消え去らない。
…頬が灼けた。
口の中で血の味がした。










夜、無言でジストはサレフの研究室に入った。壁についてゆっくり歩いた時より、ずっと早い足取りで。マリカはこの足音を聞いて一瞬起きただろうが、すぐ寝入っただろう。
サレフは深夜になっても研究室にいた。こうして見ると、本当に物が多い。本棚、杖、何だか良く分からない、置物とも何ともつかない妙な物体の数々、小さい部屋にランプが2つあるので明るかった。
「サレフ」
一生知らないままの方が良かったと思いたいが、思えない。いつかは分かる事だった、という諦念じみた心境にもなれない。
ジストは昼間の話の続きをしに来たつもりはなかった。昼間と同じでサレフは口を割らないだろうし、こちらとしても聞きたくない。最早分かり切った事を二度も重ねて知らされたくはない。
しかし、それならどうして来たのか自分でも分からなかった。ただただ何かに促されるように来た。親友の仇への殺意のかもしれないし、そうでないのかもしれない。どうしたらいいのか分からない。
振り向いた、仇にして恩人の顔。目が見えない間の想像よりずっと整っていて、しかし、この顔だとは思わなかった。今こうして見据えるその顔の左頬には、左の目元まで届きそうな程大きく赤黒い痣があった。表情を滅多にたたえないだろう端正な顔立ちが台無しだ。
「…ジスト」
机の上に広がっていた本が、サレフの手が離れると自然に閉じた。ジストは歩み寄り、唐突に首を掴んだ。どうしたらいいのか分からない。殺したいのか、それとも。
僅かにジストが手に力を入れた。だがその手はすぐまた力を失う。ここでジストがするべき行動と言えば、自分を殺す以外にないだろう…サレフはそう感じた。そしてふと、今のこの状況をあえて受け入れようとしている事に気づいた。
どれ程乱暴に扱われても、特に抵抗や抗議はしなかった。されるがままに任せていた。ジストの優しさに甘えたくなかった。
…首にかかった手が震えていた。
もう辛くはなかった。辛いのは自分よりも彼の方だったのだろう。
そう、辛くはなかった。
ただ、せめて今日の朝に戻って何もかもやり直せない事が、哀しかったのだ。



翌日、自分を見送るサレフの顔をジストはあまり直視しなかった。昨日見た時から頬の痣は全く薄らいではいなかったが、内出血が少し下へと沈下していて、痣の位置が少し下へとずれていた。
「すっかり世話になったな。…感謝してるぜ」
「…気をつけて行け」
互いに、それしか言わなかった。





しかし3日後、サレフはジストを訪ねて山を下りた。

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