カルチノの内乱を平定後、彼女達はクリムトの屋敷に一泊する事になった。その、なまじの貴族を凌ぐ建物は圧巻たるものだ。あのヒーニアスが正直に感嘆の感想を述べた程だった。
夜半、エイリークとヒーニアスは二人でヨシュアの部屋に来ていた。奇妙な話だが、こうして話す機会が出来た途端、一介の傭兵のヨシュアは二人に実に良く溶け込んだ。身分の違いを意識しない雰囲気は穏やかで心地いいものだった。
三人でテーブルを囲み、カードを楽しんだ。最初、ヒーニアスはヨシュアが不正を働くのではないかとの懸念を抱いたが、金銭を賭けない勝負においては、その可能性は皆無な様だった。
「…ところで、エイリーク」
「はい」
向かいのヒーニアスがカードを引きながら話しかける。
「私が雇った傭兵団なのだが…エフラムの所に派遣しようと思うのだが、どうだろうか」
「え…?」
「こういう事は、指揮官の君に話を通しておくべきだろう? 傭兵達の方は、それで構わないと言っている」
「そうですか……分かりました。では、そのようになさって下さい」
「分かった」
ふと、ヨシュアのカードを広げた片手が震えているのにヒーニアスは築いた。口元を隠している。
「…君は何を笑っているんだ?」
「いや…悪い悪い。ふと、昼間の事をちょっと思い出したんで」
「…?」
「あんたが子供ギライっていうのには笑ったよ」
それを聞くなりヒーニアスが眉をひそめる。あの口達者な魔道士の少年に一言でやり込められたのを思い出したのだろう。
明日、エイリーク達はあの少年の書いた地図に従って、彼の師匠の元をを訪ねる事になっている。当の少年が姉についてエフラムの元に行くか、それともこちらに残るかはヒーニアスの知った事ではない。だが、出来ればあの少年もエフラムの所に行ってくれまいか…などと彼は考えていた。
「お、王子?」
彼の機嫌の低下を感じ取ったらしく、エイリークがおずおずと声をかけてくる。
「…何でもない。私の上がりだ」
そう言ってテーブルにカードを広げて手を見せ、嫌な事を思い出させたヨシュアをじろりと睥睨した。
「悪い悪い」
ヨシュアは笑いをかみ殺しながらカードを集め、また切り始める。慣れた手つきだ。
ヒーニアスは話題を変えた。機嫌の良くなりそうな話題ではないが、しかし、いずれは彼女に尋ねたい事柄があったのだ。
「エイリーク、一つ尋ねたいのだが」
「はい、何でしょうか」
「エフラムの奴とターナはどうなっている?」
刹那、エイリークは意識が凍った心地がした。表情まで硬直させてしまったのだろうか、ヒーニアスの視線から不機嫌なものが消え失せ、怪訝さが表に登ってくる。
「…『どうなっている』とは?」
問いに対して問いを返す。彼女はその声の震えを必死で抑制した。
ヒーニアスはヨシュアを交えた席でする話としては、些か個人的すぎるかとも思ったのだが、ヨシュアは全く関心ないと言わんばかりの顔でカードを切っている。どうやら、他人の色恋沙汰に首を突っ込む気はないらしい。
なので、エイリークの反応が訝しいものの、ヒーニアスは話を続けた。
「君から見て何もないようなら、それで構わない。…どうも、エフラム本人には聞き難かったものでな」
ついでにヒーニアスは本音を付け加え、そう言った。
誰もそこまで言っていない、例え話に過ぎない…そう何度もエフラムは言ったのに、ヒーニアスはしつこく絡んで突っ込んできた。
いずれにしろ、あの時の様子からして、ヒーニアスは自分の質問を肯定していた。
あの頃は…自分の抱く感情の全てに、何かしらの正当性や普遍性を求めていたのだろう。
今は、エイリークに対して己の抱える心のその純粋であること、強堅であることをエフラムは信じていた。確信に近かった。その心と『嫉妬』という存在とは、カードの表と裏のように決して切り離せないものなのだと思う。
エフラムは船縁に両肘をついて上空を見上げた。今夜は下弦の月だ。航行には悪くない程度の明るさをこちらにもたらしてくれる。潮風が彼の頬を冷たく叩いた。
エフラムにとっては初めての船旅だったが、内心では意気消沈気味だった。無論、それを面に出しはしないが。
こちらにエイリークが来なくて良かったのかどうか、解らなくなってきている。リグバルド要塞でグラド兵士から聞かされた話は、少なからずエフラムに衝撃を与えた。リオンがこの戦を起こした…嘘偽りとしか思えない噂であっても、そんな話をエイリークの耳には入れたくない。
『皆が幸せになれるように』という、あの幼なじみの祈りの言葉に嘘はなかったとエフラムは信じている。
彼が、多くの人々が…エイリークが傷つくような事を望む筈がない。
「…エフラム」
ターナが船底から甲板に上がってきた。
「隣、いい?」
「ああ…」
ターナが彼の隣に立つ。エフラムはくるりと反対を向いて、顔を海面の方に向けた。
「…エフラム、考え事をしているの?」
「…」
「エイリークの方なら、きっと大丈夫よ」
ターナの励ましが純粋な好意から来るものである事は良く解っていたが、あまりの根拠の無さに、効果は殆どなかった。
妹が安全だという根拠が欲しい。そうすれば安く眠りにつく事が出来るだろうに。
…最も安全な道を行かせたつもりで安心していた。だが、実はとてつもなく危険な袋小路に行かせてしまったのではないか…との、恐ろしい予感が絶えずエフラムの頭を過ぎる。
「…エフラム」
ターナは更に何か声をかけて彼を元気づけようとしたが、そこへゼトまでもが甲板に上がってきたのに気づき、ターナは彼の方に目を向ける。
「あいつが…」
ふと、エフラムが呟くように言った。
「あいつが…俺の全てなんだ」
それは、平生の彼からは想像も出来ない程に弱々しく、不安に苛まれている背中だった。
本心を開け放って二人に向かって晒しているも同然であった事に、エフラム本人は気づかなかった。その時の彼の全ては、ゼトとターナの直感に対し、殆ど疑いようのない程直に突っ込んできた。
「…エフラム様」
ゼトの心中における驚倒が表に現れる事はなかったが、声音まではそれを隠す事が出来なかった。
「ああ…ゼトか」
やっと彼がいる事に気づいたエフラムは、意味もなく前髪をかきつつ振り向いた。
自分の端的な述懐が、彼や傍らのターナにどれ程の衝撃を与えたかなど、彼はまるで気づいていない風だった。
エイリークは二人との会話を切り上げて部屋の外に出た。が、何故か数秒後にヒーニアスが後を追いかけてきた。
「エイリーク」
「王子…まだ何か?」
もう、今日はあまり彼と話をしたくなかった。
無論悪気はなかったのだろうが、不意に衝撃的な質問をしてきた彼に対する憤りと、それに対する自己嫌悪で、自分の表情は脆くなっているのが解っていた。
「…エイリーク」
まるでヒーニアスは談判に来たような様子だった。否、実際そうであるとも言えた。
「私の愚かな勘違いなら、後で謝罪するが…」
「…」
そこでヒーニアスは一刹那、発言に躊躇した。
「…君は、エフラムを愛しているのか?」
エイリークは彼の質問の真意を探った。返答の定まっている筈の質問をわざわざしてきた意味を考えた。すぐに気づいた。返答も一瞬で決定した。
「それは、妹ですから」
「…エイリーク」
「王子、貴方だってターナを愛しているでしょう? ご自分の妹ですもの」
「…」
二人はしばしそのまま無言で向かい合っていた。奇妙な話だが、ヒーニアスの方がエイリークに気圧されていた。それ以上の批判に類される様な発言は、一切許されない雰囲気だった。
エイリークの眦に微かに涙が浮かんでいた。だが、それでも彼女はヒーニアスから目を背けなかった。
「…お話は、それだけですか?」
「あ、ああ」
「では、私はこれで」
彼女が毅然とした態度を崩さないまま踵を返すと、ヒーニアスはそれを追う事が出来なかった。
結局、彼は無言でヨシュアの部屋に舞い戻った。
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