小さく耳に届いた。戦闘の喧騒の中では、それは一瞬幻聴なのではとこちらが錯覚するような声量だった。
だが、幻ではなかった。
声の主は、己の前方に立ちはだかっていた敵兵士の槍をかわし、馬の足で蹴り飛ばして突き進む。実に彼らしい突貫の方法だった。隣のフォルデから槍を借りると、進路を遮る者をうち払ってこちらに馬を疾駆させる。
…兄上。
「無事か、エイリーク!」
「兄上…兄上なのですね、本当に…」
それ以上、エイリークは上手く言葉が出せなかった。
「ああ、俺だ」
足だってあるぞホラ、とこんな時に冗談を言う兄に、妹は笑うと同時に泣きたくなる。
フォルデがエフラムの槍を取ってきて、貸した自分のと交換する。それから彼はエイリークに向かって敬礼すると、カイルの手助けに向かった。
「エフラム様!」
そこへ、あらかたの敵を倒したゼトがやって来る。エフラムは彼に気づくと、
「ゼト、お前も無事か?」
と言って、額の汗ばんだ顔で笑いかけた。
「はい。王子もよくぞご無事で…」
「ああ。積もる話はあるが、話は後だ。先に行くぞ!」
そう言うと、エフラムは馬を駆って先方へと疾走した。
話すのも泣くのも後でだ…そう、心がエイリークの背中を押す。
彼を帰してくれた、自分の目に見えない何者かに心から感謝した。
だが、そうして互いに無事で再会出来たというのに、エイリークときたら。
ヘイデン王やヒーニアスらを交えた話が終わり、自分のロストン行きについて説明を受けた後、エフラムの話が終わるより先に、一人で早々に何処かに行ってしまったのだ。
何かあったのかとエフラムはゼトに尋ねたが、彼によるとエイリークは城を脱出してから気が沈みがちではあったものの、しかし自分との再会を待ちわびていたそうだ。
それにしても…迷いそうだとエフラムは思った。彼はフレリア城にはあまり来た事はなかった。ターナ達と会う時は、いつも彼女達の方から訪ねて来たからだ。その辺りにヒーニアスでも歩いていないだろうかと思うものの、そんなに都合良く彼が歩いている筈もない。
やがて歩いていくと中庭に出た。エイリークの姿はない。ぐるりと回廊を回って別の場所に探しに行こうかとエフラムは思ったが、ふと、中庭の中央にある噴水が目についた。
ミルラがそこにいた。噴水の淵に登って、水面を覗き込んでいる。
「ミルラ!」
「!」
そんなつもりはなかったのだが、何か咎めるような調子で声をかけてしまったらしく、ミルラはびくっとして身体をすくませ、エフラムの方を向いた。
「ああ…いや、怒ってる訳じゃない」
エフラムは中庭に降りて、ミルラに歩み寄った。
「だがミルラ、あまり乗り出すと危ないぞ」
「はい…すみません、エフラム」
ミルラは噴水から降りた。
「俺も怒鳴ったりして悪かったよ。…なあミルラ、エイリークを見なかったか?」
「エイリーク…エフラムの、妹さんですか? さっき王様の前で会った…きれいな」
「そうだ」
綺麗かどうかは知らないが。
「その人ならさっき、ここの近くを通りました。あっちへ行ったみたいです」
ミルラがその小さい手で示したのは白い建物…教会だった。
何故エイリークがそんな所へ向かうのか理解不能だが、エフラムはとりあえずそちらの方へと行ってみる事にした。
「分かった、ありがとう」
「エフラム…もう行ってしまうんですか?…もっとお話したいです」
「うー…ん…」
思いがけないミルラの懇願に、エフラムは困ってしまった。どういう訳か、ミルラは自分にしか懐かない。エイリーク達と合流する前も、自分以外の者の前に立つとすぐ自分の後ろに隠れてしまっていた。こんな知り合いのいない場所で、さぞ心細い思いをしているだろうとは思う。
「ミルラ、悪い。後でな」
「本当ですか?」
「ああ、後で必ず来るから、いい子にしていてくれ」
「分かりました」
そう言うと、彼女は近くに咲いている花に視線を移す。エフラムも教会の方角に視線と足を向けた。
独りになって何もせず、こうしてただ歩き回っていると、途端、一度に物思いの連続が始まる。
これからのこと、リオンのこと、ルネスのこと…と移り変わり、父のこと、兄のことと来て…エイリークは頭に手を当てた。かっとある感情が湧いた。羞恥心に似ているが、少し異質な感情だ。それが何という名前なのか、説明は付けがたい。
エイリークは教会の後ろの席についた。今は説法の時間も近くないのだろう、教会には信者もいなければ関係者の姿もない。極めて静寂たる空間に、昼の光が色硝子の窓から差し込んで、白い床を斑な色合いで照らしていた。
つくづく自分に嫌気がさしてくる。ヘイデン王の前で兄がミルラを紹介した時、自分自身も目を背けたくなるような感情を抱いた…彼女を嫉視してしまった。
…兄の隣は自分の物ではない。いずれ、お互いに自分の隣に他人を置くようになる。
だが…自分は、隣にエフラム以外の人物を置けるだろうか?
肯定は出来ない。さりとて、それを明確に否定する勇気は彼女にはなかった。
「…エイリーク」
どきりとし、エイリークは立ち上がった。
「ここにいたのか」
「…兄上…」
エフラムは槍で肩をとんとんと叩きながら入ってきた。何も四六時中槍を持ち歩かなくてもいいだろうに…と、ついエイリークは苦笑してしまう。
「ここで何をしているんだ?」
「少し…考え事をしていました」
そう答えると、エイリークは前で両手を組んで俯いた。
「…元気ないな、大丈夫か?」
「あ、はい」
とてもそうは見えない。エフラムはそう感じた。
「何かあったら言えよ。俺に出来る事なら、何でもしてやるからな」
「…はい」
気落ちしたような表情の妹を見たエフラムは、彼女の頭を撫でようかと手を伸ばした。だがその碧い髪に指が触れた途端、エイリークはびくっと身体を竦ませて身体を退いた。
平常と異なる、含みのある反応にエフラムは目を丸くした。
「あ、あの…やめて下さい。もう子供ではないのですから…」
「あ、ああ…」
気を取り直してエフラムは笑ってみたが、その場に気まずい空気が漂った。
「…そうだ、エイリーク。お前から預かった指輪なんだが…」
話題を逸らすのにうってつけな用事があったのを思い出して、エフラムは首の後ろに手を回し、鎖を外そうと指を動かした。
「すまん」
「はい?」
唐突な謝罪に、エイリークは首を傾げた。
すまない、とは、どういう事だろうか。よもや紛失したと言うのではあるまいか。いや、エフラムが帰ってきた以上、あってもなくても構わないのだが。
「傷がついてしまった」
エフラムがそう言って外して見せた鎖には、渡した指輪がなくなる事なく下がっている。だが、確かに兄の言う通り指輪の内側に傷がついていた。向かい合って二ヶ所、深い傷がある。
「グラド軍の追っ手から逃げる途中に、一矢喰らってな」
「ええ!?」
「だが、ちょうど矢尻が指輪にはまるように刺さったから、矢尻の先端がほんの少し刺さっただけと、衝撃による痣くらいで済んだ」
喰らった瞬間は息が詰まった。手綱を取り落としかけたものの、エフラムは強く握りなおして上体を起こした。その間はたった数秒だったのだろうが、非常にゆっくりとした時間経過だった様に、彼には思われた。
妹のおかげで助かったが、もしも毒が塗られていたら危うかったかもしれない。
「痣とは…だ、大丈夫なのですか?」
「今はもう、押せば痛む程度だ。心配ない」
そうエフラムが答えると、エイリークが言葉通り自分の胸をなで下ろした。
「そうですか、良かった…」
「借りた物なのにこんな風になってしまって、すまないと思っている」
「いえ…構いません」
兄上さえご無事なら、と付け足しそうになるのをエイリークは押さえた。口にしたとて何ら不自然でない筈の言葉を、過剰な意識のせいで、発する事を躊躇ってしまう。
「しかし、これ、気に入ってただろう?」
「いいのです」
エイリークはそう言って微笑み、エフラムが差し出した指輪を受け取り掛けた。が、
「あ…」
「?」
「やはり、これはまだ兄上がお持ちになっていて下さい」
そう言って、彼女は手を引っ込めた。
「しかし…」
「…また、兄上の助けになり得るかもしれませんから。兄上は兵を率いて、再びグラドとの戦に赴かれるのでしょう?」
「ああ」
再会した時からこうなるだろうと予感はしていた。
だから、以前と同じような事を口にしてエフラムを困らせるような真似はしないでおこうと、最初からエイリークは決意していた。
「…すまない」
「何をですか?」
「お前にまた心配をかける」
「…ですから、その指輪を…お持ちになって下さい」
「…分かった」
エフラムは再度首に鎖をかけながら、ふと思いついてこう言った。
「俺がやったあのナイフ、あれも、お前の助けになればいいんだが」
あんな小さな物が、どのように妹の助けになるのだろうか。
自分が独り行く彼女ににしてやれるのは、その程度の事だけなのか。
「私は大丈夫です。ロストンへ海路で向かうだけですし、それにヘイデン様が兵を貸して下さいましたから」
「だが…一人では心細くないか? 何ならゼトを…」
だが、エイリークはその申し出に対して首を横に振った。
「ゼトには、兄上の事を頼みました」
「…」
「私は大丈夫です」
そう言って、エイリークは微笑んでいた。
心細くない筈がない。だがエイリークときたら、一度言いだしたらテコでも曲がらない程の頑丈さでそれを貫き通す。
…彼女にこのような無理をさせる原因は、自分の力量不足にあるのだ。
「兄上…ご無事で」
「…ああ、お前もな」
それからエフラムが黙りこくったので、エイリークは首を傾げた。
不自然な沈黙の中、彼女が奇妙な居心地の悪さを感じていると、エフラムは彼女の頭を両手で抱いて、そして額を合わせた。
「…兄上…?」
「…無理はしないでくれ。お前は、俺の生きる全てなんだ」
それは、まるで懇願だった。
…そこへ、教会のドアを両手でそっと開いて、フランツが顔を出した。エフラムがそれに気づいて両手を放す。
「フランツ」
「エフラム様。ここにいらっしゃったのですね。お話の最中でしたか?」
「いや、構わない。どうした?」
「ゼト将軍が、明日の行軍に関する話し合いを行う時刻なので、エフラム様にご足労願えないかと」
「ああ…そうか、分かった。行こう」
それからエイリークの方を向いて、いつもの表情で、
「悪い、また後でな」
と言って、別れた。
…ひょっとして、自分が思った以上に、エフラムは自分を愛してくれているのではないだろうか。
今までも愛されているとは思っていたが、その感情は自分の予想よりも遙かに強いのではなかろうか。
無論、その気持ちが自分のそれと同じ類の感情であるとは言えないだろうが……。
翌日、いち早く準備の整ったエイリークは、先だってロストンに向けて発った。
ヘイデンやターナ、準備中のヒーニアスには挨拶をしたが、肝心のエフラムは見つからなかった。時間が差し迫っていた為、彼女はゼトに伝言を頼んで出てきた。エフラムはこういう事については意外と気にするので、顔くらいは出しておかなければ、後で合流した時に文句を言われるかもしれなかったが。
エイリーク達の一行が王都を出て一時間程経過し、町を離れて森の付近を行っている頃だった。
「エイリーク王女、後ろから早馬が来ます。ご注意を」
側にいるフレリアの将軍が、彼女に声をかける。足音からして単騎の様だった。エイリークは少し後ろを振り返ったが、バランスを崩しかけ、また前を向いて持ち直す。落馬に用心しつつ再度振り返った時、早馬はエイリークのすぐ隣について止まった。
「…ヨシュア殿?」
セレフィユの街で彼女の軍に加わった傭兵。直接彼女が引き入れた訳ではなかった為、どういう経緯で彼が軍に参加したのかはエイリークも知らないが、彼の腕の立つ事は良く知っている。
「どうかしたのですか?」
「俺はあんたの元につく。エフラム王子から、こっちに行くように命令されたんでな」
「兄上が? しかし、それでは兄上の方の戦力が…」
「だから俺一人なんだとさ。魔道士は戦力を左右するから同行させられないし、他の連中は色々理由があるだろう?」
確かに言われてみればそうだ。ルネスの騎士は全員エフラムについて行ってもらったし、フレリア騎士はヘイデンから借り受けた兵なのでエフラムの一存でこちらに行かせる訳にもいかない。それから魔道士系を除けば、残るのはガルシア親子にネイミーとコーマ、そしてヨシュアなのだ。
「しかし、よろしいのですか?」
「ああ。俺はどっちでも構わない。むしろ、元々あんたの下についていた分、こっちの方が向いているかもしれないしな」
それだけではなく、彼女が向かう方角
エイリークはヨシュア自身が自分に同行する事に納得しているならばと、笑って彼を受け入れた。
「…それにしても」
「ん?」
「ヨシュア殿は乗馬が似合いますね。風格があります」
「…褒めたって何も出ないぜ、王女様?」
エイリーク・ヒーニアス・エフラムのの出発が済むと、城には一気に静けさが降りた。
夜になり、夕食を終えたターナは人通りの減った廊下を通って自分の部屋に戻った。ドアを後ろ手に閉めて椅子に座るが、何もしないでしばらく座ったままだった。
「…」
やがて立ち上がって、彼女は窓の外を見やる。
…今頃、三人は何処まで行ったのかしら。
侍女が断りを入れてから部屋の中に入ってきて、部屋に暖を入れ、そして出ていく。ターナはその短い間、ずっと窓の外を見ていた。
そして、卒然とこう思った。
…自分は、ここで何をしているのだろうか?
彼女は部屋を出ようとして…ドアに手をかけた所で思いとどまった。
いくら何でもこんな事、父が許す筈がない。それに今は、ついこの間無断で外出して危機に遭ったばかりなのだ。
「…どうしようかしら…」
独り言を呟きながらぐるぐると部屋を彷徨して思案に耽る。
あれこれと考え迷った結果、ついに彼女は一大決心をして隣室へ駆け込み、支度を始めた。
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