ヒーニアスはあれから色々と自分なりの意見を抱えつつも、しかし、それを当のエイリークに対して加える事が出来ずにいた。あの夜、彼女に気圧されたのをまだ引きずっているようなものだった。
他人の心の領分に土足で踏み入るような真似は好まないし、人の感情に細かく意見する真似など差し出がましい事極まりないが。さりとて高貴なる者に伴う義務を常日頃意識している彼にとって、こればかりは黙っておく事はしかねる問題だった。
しかしエイリークの方はというと…どうもこちらが何か胸に一物持っているのが手に取るように解るらしく、エイリークはヒーニアスと話をする機会を避けていた。
彼らの一行はジャハナに向かう途中で、ポカラという名の山里を通過する事となった。険しい道を弱音を吐かずに登るエイリークの、その意志の強靱さにヒーニアスは驚いた。彼女の第一印象は『大人しく物静か』で、兄エフラムに比べて意志の堅固さを感じさせない所があったからだ。
「大丈夫か」
前を行っている魔道士―――――サレフと言って、エイリークとは面識があるらしい―――――が、立ち止まってこちらを振り返った。流石は現地の者というべきか、同じ男のヒーニアスやヨシュアにすら過酷な高山地を、息も切らさず登っていく。だが、こちらを気遣って、多少歩くペースを落としているようにも見受けられた。何を考えているのか読めない男だとヒーニアスは思っていたが、今でもよく解らない。彼がこちらの一行の事をどう考えているのか。
ある程度登った所で、エイリーク達は後方にいる遅れがちな部隊が上がってくるのを待った。途中で馬返しせざるを得なかった為に手ずから荷を運ばなくてはならないので、彼らは非常に時間を要するのである。
座れそうな岩があったので、ヒーニアスは岩についていたコケを手早く落としてエイリークを座らせた。
「…顔色が悪いな、エイリーク。大丈夫か」
「…息が、苦しいです…」
「この辺りは平地より空気が薄くなっているからだ」
サレフがそう言い、彼も無理をせず休むようにと彼女に言った。
エイリークは我を張る事なくそれに従う。この辺りは、女性の足には酷すぎる地形だといヒーニアスは思った。
「…王子」
サレフが寄ってきて、静かに、
「ここで一度休憩した方がいい」
と言った。
ヒーニアスはその通りにここで一旦休む事にし、その旨を上がってきた者に伝え、後方へと伝達していくよう指示した。
休んでいたエイリークだったが、唐突に何か顔色を変えて立ち上がり、周囲を見渡し始めた。
「エイリーク、どうした?」
「王子、その辺りに小さな短剣は落ちていませんか?」
「短剣…?」
「こう、かなり小さいものなのですが」
エイリークはヒーニアスと二人で足元を見下ろしながら付近を歩き回るが、それらしき物は見当たらない。あるのは苔むした岩と、その上に散った葉っぱと小石だけである。
「登ってくる途中で落とした可能性はないか?」
「そうかも…しれません…」
あれは大事な物だ。だが、あれを捜索する為だけにここで時間を割く訳にはいかない。
しかし…諦めよう、との言葉が彼女は口から出せないでいた。
そこへサレフが戻ってきた。エイリークが事情を話すと、彼が思いがけない発言をした。
「私が探してくる。貴方がたはここで休んだ方が良いだろう」
「えっ? しかし、サレフ殿。日が落ちる前に登らなくてはならないと…」
「難所はここからだ。…休まねば続かない」
すぐ戻る、そう言い残して彼は一人で下に降りていく。疲れを全く感じさせない足取りだったが、実際どちらなのかは判別しかねる。
ヒーニアスは兵達の元に向かい、彼女の短剣とおぼしき物を拾得した者がいないか一応尋ねてきた。が、望ましい返答は無かった。
…やがて、サレフは本当にすぐ戻ってきた。エイリークの短剣を携えて。
「…これか」
彼が差し出したそれは、ヒーニアスの記憶にもある物だった…エフラムの物だ。以前、ターナを含めた四人で遠出した際、些細な用で貸してもらった事がある。一度この手に握りすらしたのだから、見間違える筈はない。
エイリークはサレフに礼を言ってそれを受け取ると、短剣についた微少な泥を丁寧に払い、落とさないようにしっかりと腰に下げ直した。慎重な手つきだった。
そして、彼女はヒーニアスの視線に気づいて彼を見上げた。
だが、すぐ目を背けた。
その時と同種の雰囲気の元で話をする機会は、思いがけずその日の夜にやってきた。
夕食後、何の気無しにヒーニアスは外へと出た。山地だけあって月が近く見える。
エイリークの目的は偶然にもヒーニアスと同じで、ただ外に出てみただけだった。彼女はヒーニアスの足音に気づくと、一瞬身体を硬直させた。
「…エイリーク。早めに休んだ方が良くはないか? 君は昼間の登山と戦闘で随分と疲れただろう」
「はい。でも…夕食前に少し休んだので大丈夫です。お気遣いに感謝します」
「…」
ヒーニアスはそのまま彼女の傍らで月を見上げた。
しばらく沈黙が漂った。実に長い、長い時間だった。その間、二人とも殆ど微動だにしなかった。
が、その沈黙をエイリークが破った。
「王子」
「…?」
「私は、馬鹿な女でしょうか…?」
「…エイリーク」
「先日…王子は、私の事を心配する気持ちから、あのような事を仰ったのですよね?」
「…」
「ですが…」
エイリークがこちらを向いた。ヒーニアスも目を合わせる。
「…その事については、もう、何も仰らないでいただけませんか?」
「…」
お願いです、とエイリークはもう一押し加えてきた。しっかりとした、そして穏やかな態度だった。
愛の為なら敢えて不幸にも踏み込む…そういう女性の性は、男性の自分の理解の域を超えている。
「…本当に、君の感情は恋なのか?」
一応、そう尋ねてみた。するとエイリークは笑った。
「私だって、恋をした事はあります」
「…」
余計な質問だったらしい。ヒーニアスは自分を恥じた。
「…すまない」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
…ヒーニアスに言われるまでもなく、自分の感情の過ちをエイリークは自覚している。
しかし、己で自制し得る感情の筈だ。兄を、これまでした以上の我が侭で困らせたくはない。
好きでいさせてくれて、隣にいさせてくれて、笑って頭を撫でてくれたなら…それで良いのだ。
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I promise, eternally.(10)
2007/02/11:加筆修正。
『馬返し』...あまりに険しい山地を越える場合、馬を連れては登れない為、それらを野に放つ事。
『馬返し』...あまりに険しい山地を越える場合、馬を連れては登れない為、それらを野に放つ事。