I promise, eternally.(5)
国境付近における戦況は伝聞である以上、朧気で不正確なものしか王都には伝わって来ない。
兄が出陣した後でもエイリークは剣の訓練を続けていたが、その相手はゼトだった。ただしゼトには王都の守備という大任がある為、彼がエイリークへの指導に割ける時間はごく僅かなものだった。
ゼトの指導は兄よりある意味正当な内容だった。エフラムの腕はやはり槍術のものだから、同じ指導でも、そこから吸収出来るものの割合が違うのをエイリークは感じた。
ある時、ゼトは訓練の終了後、彼女の手を看て顔色を変えた事があった。
「ゼト…何か?」
「いえ…何でもありません」
言葉を濁したゼト。エイリークは首を傾げるだけで深く追究しなかった為、彼が、こちらの剣を振る手が傷ついている点に心を痛めた事に気づかなかった。
「ゼト」
「はい」
「兄上は…今頃、どうされているでしょうか」
「こちらに入ってくる情報はいずれも正確とは言いかねるものばかりですが…若干、グラド軍の前線が後退したと聞きます」
「それでは…こちらが優勢と考えて良いのでしょうか」
兵法などの心得のないエイリークには、僅かな情報だけで自国の優勢劣勢を判断する事は出来なかった。
「…それは、一概には優勢とは申し上げかねます。後退したのはあくまで作戦の一環、という可能性も考えられますので」
将軍としてのゼトはあくまで客観的で冷静で、場合によっては冷徹にさえ成りうる覚悟を秘めている。だからこそ信頼が置け、兵を任せられるのだと父が幾度か漏らしていた。
「ゼト。剣の手入れというのは、どうすれば良いのでしょうか」
「は…それなら、城の職人らにお任せ下されば…」
「いえ、自分でしたいのです。剣と言っても短剣…かなり小さい短剣ですから」
短剣というのは無論、エフラムから渡された物の事だ。あの時は咄嗟に自分の指輪を指から抜いて、フランツに渡しに遣らせたが、エフラムの方から何か返して来るとは思わなかった。
…結局、彼女は訓練が終わった後、ゼトの提案を参考に、城住まいの鍛冶職人らの所に赴いた。彼らは何の前触れもなく王女が仕事場に訪れた事に驚いたようで、彼女が剣の手入れをしたいと言うと、場所と道具を貸し、方法を教えてくれた。
短剣というには小さく、ナイフと言うには大きい。エイリークにはよく分からないが、縄などを切るような用途には持ってこいなのかもしれない。柄に巻かれた革は少しすり切れていた。これを兄が寄越した理由は、大方、他に何も無かったからといった所だろう。
…エイリークの目尻に涙が浮かんだ。少し泣きそうになった。
あれから自分がおかしい。あり得ない事を――――明日にでも、今にでもエフラムが帰還する事を――――切望している。
会いたいのだ。
その感情が、自分のこれまでの平生と明らかに異なるものだという事は自覚している。それについてエイリークはひどく悩んだ。
あれは、ただの抱擁だ。深い意味などある筈がない。
だがその単なる抱擁が、過剰に自分の心を動かした事実は否めない。
兄の方がそれに気づいたとは思わないし、気づかれたくもない。
一笑に付せる問題に出来ればそれで終わりなのに、そうは行かないからこそ、無性に顔が見たい。
今夜も寝付きが悪くなりそうだ―――――。








半ば確信にすら変わりかけていたものが、何の前触れもなく砕けた。
ぬばたまの闇の降りた森を駆け抜ける。馬の蹄の音が必要以上に大きいように思われ、追っ手に気づかれまいかと苛立った。
背後を振り返ると、砦の上に小さい火が浮遊しているように上がっている。砦と夜空の境目が橙色に染まり、その頂点で旗が燃えていた。
口の中に、鉄錆びた味が広がった。








敵軍からの奇襲を受けて生き残った部下は、結局、二十騎にも満たなかった。
グラド軍の執拗な追跡の目をかいくぐり、エフラムらはとある村へとたどり着いた。
村といっても、既にそこは無人だった。ただし、どれもつい最近まで何者かが生活していた様子が見られる家ばかりだった。
その光景を見てオルソンが、
「…我々の敗北を耳にするやいなや、村一同で逃げたのでしょう」
と、静かに言った。
愛する妻を亡くした後、オルソンの挙動からは感情が消えた。それまでも感情をむやみに表す男ではなかったが、今は一切の情熱を失い、穏やかな表情は仄暗く冷めている。
それでも、オルソンは騎士としての本分に忠実だった。エフラムが彼に感情を求める理屈はない。
「…」
この村の住人の内の何人が逃げ、何人がグラド軍や山賊などの手にかかってしまっただろうか。逃げた者のうち、その行く末が無事であると断言出来る者が、どれだけいるだろうか。
「エフラム様…」
フォルデがエフラムの背中に声をかけた。
「今日は、ここで休みません?」
「…ああ、そうだな」
まだ立ち止まる事は出来ない。
自分はまだ歩ける。
まだ戦える。
まだ前を向く事が出来るる。
まだ、守るものが残っている。


エフラム達にとって幸運だったのは、畑に野菜が植えられていた事だった。村に勝手に入り込み、畑を荒らす…夜盗とそう変わらない真似をすることには抵抗があったが、それに対する、
「グラド軍がここに来たら、畑も踏み荒らされてしまいますよ」
というフォルデの言葉は、なるべく自分の罪悪感を払拭してくれようとしているのだと解った。
夕方になった頃、全員で以後の行動を話し合った。
エフラムは一時後退する意向だったが、このまま王都まで撤退するつもりはなく、国境突破の報によって出陣してくるだろう王国軍と合流するつもりだった。
ただそれだけの事を話し合う場だった筈が、場の空気は、ある者の発言で不穏な空気へと一変してきた。
「おい、よさないかウェイド」
隠れ潜んでいるという状況下にある事と、一同が感情的になるのを避けようとして、カイルは出来るだけ穏やかな口調で同僚を諫めようとした。だが。
「しかし、あの火の手の回り方はどう考えても不自然だった! 内通者がいたと考えれば、タイミングを計ったような砦の急襲にも納得がいくではないか」
「だが、証拠もないのに憶測で物を言うのはよせ」
エフラムはそのやり取りを聞きつつ、黙って一同の表情を順繰りに眺めた。オルソンはやはりというべきなのか落ち着いていたが、他の者達の中にはありありと不安や猜疑の色を露わにしている者もいる。この中に内通者がいるのではないかと、お互いの腹を探り合おうとしているのだろうか。
「…カイルの言う通りだ。何も証拠はない。この話は止めだ」
早めにうち切るべきと判断してエフラムがそう言うと、カイルもウェイドも議論を止めた。
それぞれが自分の休む家へと散っていく。灯りは点けるなよ、とのオルソンの指示を耳にしながら。
「あの…エフラム様」
「?」
ふと、エフラムの名前の知らない新人兵士がこちらに寄ってきた。
「申し上げたい事があるのですが…」
「何だ?」
「その…」
その兵士が何か言いかけた所へ、オルソンが寄ってきた。
「どうした、リー?」
「あっ…いえ…何でもありません、王子、将軍」
「そうか。ならば早々に休め。明日は早いぞ」
「はっ…」
何故かリーという名前らしいその兵士は、急に口をつぐむと、足早に外へと出て行ってしまった。
「エフラム様、リーがどうかしたのですか」
「俺に何か話があるとか言ってたんだが、何も言わずに行ってしまった」
「…そうですか」



そして夜半、エフラムは目を覚ました。やや遠いが、はっきりと特有の物音…剣を振る音がした筈だ。それも、素人のものではない。
隣で休んでいたフォルデも反応して目を開け、すぐ側に置いてあった己の剣を掴む。
「? オルソンはどうした?」
「そういえば…」
フォルデの隣にいるべき彼の姿がなかった。
二人が様子見に外に出ると同時に、他の家屋で休んでいた者達もぞろぞろと出てくる。同じ物音を聞きつけたのだろう。
とある家の側に、小さな柵がある。その家は何かの家畜を飼っていたのだろう。今は何もいないが、その柵の側に騎士が一人倒れていた。剣を握りしめたままで俯せに倒れている。
いや、一人だと思ったのは暗いからで、その奥に更にもう一人…こちらは仰向けに死んでいた。エフラムは一目見て、それが昼間に自分に話しかけてきたリーという兵士だと気づく。
それらを見下ろしているのはオルソンだった。彼は顔に返り血を浴び、剣は血で濡れていた。だが彼は不自然な程冷静で、そして粛然とさえしていた。
エフラムは一瞬、その横顔を見て息を呑んだ。
「…オルソン」
「…」
エフラムに呼ばれると、ゆらりとオルソンは面を上げた。一同を一瞥するその瞳が心なしか笑っているように見えた者は大勢いたが、全員それを己の目の錯覚として片づけた。
「リーと…ウェイドだな。何があった?」
「はい…私が夜半にふと目を覚ましますと、彼らがここで何か話をしておりました。諍いをしている様に思われたので私が仲介に入ろうと思いました所…逆上したのでしょうか、ウェイドがリーを突然斬ったのです」
「では…ウェイドを斬ったのは、お前か?」
ようようエフラムも冷静になってきた。否、冷静になろうと必死で努めていた。
「はい」
オルソンは頷いた。
「…理由を聞こう」
「部隊内での私闘を行い、その上、仲間を殺めた為です」
「…確かに、このような状況で騎士同士が私闘を行うのは好ましくない。だが、その事による罰則を独断で決定し、施行する権限はお前には無いぞ、オルソン」
「騎士同士の私闘であればそうです。しかしリーは騎士ではなく、一般兵でした。その彼を殺めたウェイドの罪は、一般民衆を殺めた際のそれと同じ事。戦時中でそのような事がありました場合…確か、直接の上官に一切の罰則を科す権限があったものと記憶しておりますが」
「…」
オルソンの論理には異論を挟む余地がない。
「解った。お前の主張を認めよう。だが…以後、こういう事は二度と無しだ。そのような義務はないが、俺に報告してくれ」
「承知致しました」
オルソンはそう言うと、自分の剣の血を拭ってそれを鞘に収め、ウェイドの骸を抱き起こした。他の者達も我に返ってそれを手伝いにかかる。二人の遺体をここで土に葬るのだ。
エフラムは黙っていた。自分の指示は不要な筈だ。
…歯噛みした。

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2007/02/13:加筆修正。