昼間とはうって変わって態度を変えた冷えきった風が、ヒーニアスの頬を撫でた。
「夜はいやに冷えるのだな…」
ヒーニアスはそう言って、左手で自分の襟をかき合わせた。
「いつもこんなものさ」
ヨシュアがそう言って笑い、己の帽子を手で直す。
昼間の酷暑と喧騒が嘘のような静けさだった。ざわついているのは心だけだ。日が昇ればまた、グラドの大軍が自分たちを捜索しに来るのだろう。
「ヨシュア王子。やはり、夜中のうちに遠くへ向かった方がいいのではないか? それは、この寒さをおして歩けば体力を消耗するだろうが…」
しかし、ヒーニアスの提案にヨシュアは首を横に振った。
「やめておいた方がいいだろう。確かに今夜は明るいが、それでも、夜の砂漠では迷う可能性の方が大きい」
「…」
「それより、その『王子』ってのはやめてくれないか? 今までどおり、呼び捨てでいい」
「分かった。君がそう言うのならば、そうしよう」
彼らが潜んでいるのは、ジャハナ王宮からかなり離れた地点にある岩場だった。昼間は結局追っ手を完全にまく事が出来ず、やむなくここに隠れたのである。
「…すみません、皆さん…」
エイリークはそう呟くように言うと、唇を噛んだ。
…これ程の危機的状況に陥ったのは、自分の判断ミスが原因だと彼女は思っていた。
ジャハナ城で火事が起こっていると気づいた時、周囲の混乱を鎮めるどころか、彼女自身も狼狽えてしまっていた。炎の恐怖から判断力を失って逃げまどい外に出てしまった者達は、待ちかまえていたグラド軍の迎撃を無惨に受けた。
そして、今、エイリークを含めて四人しか残っていない。たった四人だ。ヘイデン王から借りた護衛を全て、あっさりと失ってしまった。…自分の判断が遅れた為に。
「何を言う、エイリーク。君のせいではない。君が謝る事はない。だから、そんな目をするのはよせ」
「…」
しかし、愁然たるエイリークの表情は晴れない。
「…君は明日に備えて少し休め。疲れただろう」
「はい、ですが…」
とても、落ち着いて眠れそうにない。
死が、そのの鎌の切っ先を自分の喉へと近づけているのを彼女は感じていた。『屠所の羊』という気分をこれ程切々と味わった経験は、今までにない。
一応こちらから伝令をエフラムの所へと派遣したが、伝令がグラド軍の目に留まらず無事辿り着いたかどうかは定かではない。
サレフがヨシュアの左腕に包帯を巻いている。手当をしている彼自身もまた、肩を負傷している。エイリークはそれを見て、自分の右膝の上周辺に触れた。かすり傷程度だし、傷薬を塗ってあるが、やはり、まだ痛んだ。
現在、彼らの手元に怪我の手当に用いる道具は殆どなかった。せいぜい傷薬だけである。
王宮での戦闘と昼間の激戦の中、四人の中で唯一、ヒーニアスだけは無傷で戦い抜いてきた。だが彼が戦う上で必須品である物…矢にはどうしても限りがある。それが無くなると足手まといになりかねないという事を、本人が最もよく承知していた。
「諦めるな、エイリーク。もし死ぬ覚悟をしているのなら、そんなものは無用だ。君を死なせればエフラムの奴に顔向けが出来ない」
「それに、ジャハナとグラドは近い。エフラム王子の軍が来るのはすぐさ」
「現在エフラム達はグラドと交戦中という話だが、君も知っている通り、あいつは滅多な事では死なん」
そう言ってヒーニアスとヨシュアが何とか捻り出した励ましの言葉の効果があったのか、エイリークがようやく笑顔を見せた。彼女の可憐な笑顔によって、空気が僅かに和む。彼女の表情一つで場の空気が一変するから不思議なものだった。
「エフラムは必ず君を助けに来る。それまでは、這ってでも何をしてでも生き延びる事だけを考えよう」
「…はい、そうですね」
エイリークは二人の言葉に励まされて、そして改めて自ら奮起した。
…エフラムとは、生きてまた会おうと約束した筈だ。
それに、リオンはこの戦を止めたいと願ってくれている筈だ。国同士争い合う事になった今でも、彼は自分達の味方であると言ってくれたではないか。
兄も彼も戦っているのに、自分だけがここで倒れる事は出来ない。
「ヒーニアス王子、周辺にグラド兵の姿は…?」
「ない。奴らも我々と同じく、この寒気をおして無理をする気はないらしい」
実際の所、グラド軍の兵の数も、また何処に陣を構えているかも、彼らには分からない。夜の内に城の東にある町へと逃れる手もなくはなかったが、その町もグラド軍に占領されている可能性があった。砂漠での戦において、水の補給ルートの確保を行わない筈がないから、決して低い可能性ではない。
「ヴァルター将軍は残虐な性質だと聞いている。今度の戦いも『狩り』だとでも思って、のんびりと遊んでいるのだろう。我々の手勢がごく少数である事も、あちら側には知られているだろうな…」
「明日はどうなるでしょうか?」
「おそらく、早朝から我々の捜索を再開するだろう」
ヒーニアスは自分の考察に絶対の自信を抱いてはいなかったが、実はこれは的確に真実を捉えていた。しかし、それをエイリーク達が知るよしもなかった。
明日は危険な賭けの連なりのような一日になりそうだ…ヨシュアがそう思いながらごつごつした石に頭を預ける。彼が左手を下ろすと、すぐ側に置いてあった剣に手が触れた。
「ああ、エイリーク王女。そう言えば…これを」
「はい?」
ヨシュアが彼女に差し出したのは、彼が亡き母親から臨終の際に譲り受けた、二つの双聖器だった。
「あんたに。誰が使うか、あんたが決めてくれ」
「しかし…それは、貴方が亡きイシュメア様から譲り受けられた物ですし、ジャハナの王族が…」
「指揮官は君だ、エイリーク」
ヒーニアスが脇からそう声をかける。ヨシュアの顔を見ると、彼も頷いた。
彼女にはまだ、こういう決断すら重いものに感じられる。エフラムもこんな場面を乗り越えていったのだろうか。
「…分かりました」
そう言って一旦受け取った双聖器のうち、【氷剣アウドムラ】の方をヨシュアに戻した。
「今の所、こちらは貴方がお持ちになっていて下さい。私よりも貴方が扱う方が良いように思いますし、これはやはり、ジャハナの王族である貴方が振るうべき物です」
ヨシュアが刹那目をぱちくりさせる。だが次の瞬間にはふっ、と笑ってそれを受け取った。
「サレフ殿、こちらは貴方に…」
エイリークはもう1つの双聖器である、【風刃エクスカリバー】の魔道書をサレフに差し出したが、彼は無言だった。受け取る事を戸惑っているようにも渋っているようにも見えた。しかし他に魔道士はいないというヨシュアの指摘を受けて、ようやくそれを受け取った。
再度沈黙が漂う。エイリークが小さくくしゃみをした。ヒーニアスが彼女の外套の前をかき合わせてやる。
今夜は四人で寄り添って寝た方が良さそうだ…少々、寒さが厳しそうだから。
この夜をどう思うか。長いのか、短いのか…エイリークにはその両方が正しいように感じられた。
冷たくて重い闇夜だった。
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I promise, eternally.(12)
2007/02/11:加筆修正。