グレルサイドの南門では非常警戒措置が取られていたが、リチャードが彼らと少し話しただけで、すぐにアスベル達はデール公の屋敷に丁重に通され、そこで公爵と対面する事が叶った。
デール公は頭髪のすっかり白んだ老公だったが、その言動は矍鑠としていて慧敏であった。公爵はリチャードの無事を喜び、一も二もなく王都奪還に尽力すると答えた。そんな公爵の態度に、忠節と共に恵愛の念が込められているのをアスベルは見て取った。そして、リチャードがデール公を信頼する理由を何となく理解した。
デール公によれば、現在のウィンドル諸侯の内、セルディク大公側に靡いたのはごく僅かで、残りは旗色を見守っている段階らしい。逆臣討つべしと謳って起つ者が現れる気配がないのは、やはり相手が王弟であるからか、それとも大公が騎士団を抱えている為か。或いは、ストラタとの同盟がある為かもしれない。
しかしながら、大公側が先王とリチャードの死を喧伝した割に諸侯の支持を未だ得られていないのは、リチャード側にとってはむしろ喜ばしい事であった。先王はともかく王子その人の棺を見せられない以上、諸侯の中でも未だ、王子の横死を怪しんでいる者が多いのだろう。それでもこの状況が続けば、月日の経過と共にリチャードの死は真実として受け入れられ、大公が王位を簒奪したという事実すらもねじ曲げられる可能性があった。
それに、ストラタ軍の問題があった。彼らがラント近隣のW石鉱脈を押さえている為、ウィンドル国内のW石流通が危ぶまれつつあった。そうなれば国民の生活が逼迫するばかりか、国力の低下と共に、フェンデルに侵攻される危険性を招くだろう。その為、リチャード達は成る丈早期に行動を起こす必要があった。
デール公がリチャード救出の為に編成していた部隊を主戦力として、王都に進撃する作戦が立てられた。幸い、リチャードは国民に人気がある方だったから、王都に攻め入る際は騎士団と大公の抱える兵隊だけを敵戦力と数えればいい。民意はおそらくリチャード側に寄るだろう。
しかしそれでもやはり、相手との戦力に開きがあった。静観を決め込んでいる諸侯やストラタ軍がどう動くかも問題だったが、何よりも大きな一番の難題は、グレルサイドと王都バロニアの間にあるウォールブリッジだ。そこを突破しなければ王都には進撃出来ない。当然ながらセルディク大公側はデール公の動きには警戒している様で、ウォールブリッジには厳重な守備が敷かれており、しかも跳ね橋が内側から上げられていた。
その守備を突破する為に提案されたのが、地下遺跡を経由して砦内部に潜入し、昇降装置を操作して橋を下ろし、兵を引き入れる……というものだった。立案者はパスカルである。地下遺跡の出入りに使う移動装置は彼女にしか操作出来ない為、パスカルにもウォールブリッジ攻略作戦に参加してもらう次第になった。リチャードは彼女と同行する事になり、アスベルも迷わずそちらに加わる事を希望した。
作戦決行を明日に控え、日がすっかり落ちた深夜の事、リチャードは屋敷の外に出た。一人で夜風に当たりながら考えたい事があったのだが、屋敷を出て間もなく、アスベルが追いかけてきたのに気づいた。早く床に就けばいいものを、彼はリチャードを守るという決意を、どこまでも貫くつもりなのだろう。リチャードとしてもその気持ちは嬉しいのだが、親友に負担をかけてしまうのはやはり辛い。
「アスベル……眠れないのかい」
「お前の方こそ」
「僕は……」
リチャードは何かを言おうとしたが、今の心境を上手く言葉に出来ず、言い淀んで口を噤んだ。そうしてふと、昼間の作戦会議中のある出来事を思い出した。やはり、今のアスベルにははっきり説明しておいた方がいい。
「アスベル。昼間の事だけれども……君には、とても言いにくいのだけれど……デールは君を、まだ完全には信用した訳ではないんだ」
「ああ……」
その事にはアスベルも気づいていた様だった。昼間の作戦会議の時、デールがアスベルの同席にはっきり難色を示していたからだろう。
「……デール公が俺を信用していないのは、俺が、騎士学校の学生だからか?」
リチャードは首肯したが、これではまずいと思い、すぐに頭を振った。アスベルをこれ以上誤解させてはいけない。
「アスベル、誤解しないでくれ。デールは、君の僕に対する好意を疑っている訳じゃないんだ。ただ、彼が言うには……君はまだ若い。騎士団や騎士学校の関係者と剣を交える事に、迷いや躊躇いを覚えるのではないか……と、いう訳なんだ」
アスベルはそれを聞くと黙りこくってしまった。彼にしてみれば、やはり衝撃的だったのだろう。彼が騎士学校で積んだ七年間の努力も、老齢のデールにしてみればずっと短い経験だ。間接的には、未熟な若造と侮られたのに等しい。
「すまない、アスベル……」
「お前が謝る事なんて無い。大丈夫だ、デール公の言いたい事は俺も解ってる。あの方が、信頼に値する人物だという事も」
「そうじゃない」
リチャードは首を横に振った。
「君が僕と共に戦うという事は、君が騎士団に剣を向けるという事だ。僕は……君に、とても辛い事を強いている。そう自覚している。それなのに……それでもなお、君に傍にいてほしい。そう頼まずにはいられないんだ」
リチャードはアスベルの視界に入りながら、体の震えを隠しきれなかった。それでも口調だけは精一杯強めて、はっきりとアスベルに告げる。今、ここでアスベルに話しておきたい事があった。今こそ話しておかなければ、アスベルはきっと一人で思い詰めてしまう。
「……正直な事を言うと、僕は、明日が恐ろしい。本当は……僕は、戦争なんてしたくないんだ。それでも他に道が無いと解っているから、叔父と戦う事を選んだ。この手で父上の無念を晴らすと誓ったんだ」
「……不安なのか、リチャード」
アスベルがそう尋ねてきた。リチャードがアスベルの前で、これ程はっきりと己の弱さを露呈するのは初めてだった筈だ。幼少期にさえ、彼に胸の内の全てを打ち明ける事はどうしても出来なかった。それだけにアスベルもきっと、今のリチャードの言動に動揺しているのだろう。
「……僕は、君が傍にいてくれたからここまで来られた。君がいてくれなければ、この不安に僕は耐えきれなかっただろう」
「……俺は……本当にそこまで、お前の支えになれていたのか? 正直、俺は自分でも自分が頼りなく思えてならないのに」
「僕は、君の事を頼りにならないなんて決して思っていないよ」
リチャードは迷わずそう答えた。そこに一点の嘘も偽りも無かった。これから口にする言葉こそが、リチャードがアスベルに言いたかった事なのだから。
「何度でも言うけれど、君は僕にとって大事な親友だ。デールの事は信頼しているけれど、それは彼の王家に対する忠誠心を買っているのであって、君に対する信頼とは全く別なものなんだ」
そこまではっきりと言いながら、リチャードは内心で逡巡していた。これからアスベルに言おうとしている事は、本当なら言わない方がいい言葉なのだと感じていたからだ。だが、すぐさま続けて口にした。逡巡する様子すら、見せてはいけないように思われた。
「今の僕にとって一番大切なのは君だ、アスベル。君が僕を守りたいと思ってくれる気持ちは、僕にとって何物にも代えがたいものだ。誰を信じられなくても君だけは信じていられる、という事が、今の僕にとってはとても大切な事なんだ」
そこまでついに言ってしまってから、やはりこんな事は、本来なら口にすべきでなかったとリチャードは思った。言えば必ず、アスベルの精神的負担になる。
けれども、こうして自分の思っている事をはっきり言葉にして告げる事で、アスベルが心のどこかで安心してくれるのではないかとリチャードは考えた。自分がアスベルに求めているものが臣下としての働きではないという事と、自分だけは何があってもアスベルを信じているという事。その二つを知っていてもらいたかった。そうして、アスベルにもっと自分自身を労ってもらいたかったのだ。
もしも、アスベルにとって取り返しのつかない出来事が起きてしまったら……ソフィを失った上、アスベルまで失ってしまったら、今の自分は本当に独りになってしまう気がする。リチャードはそう思わずにはいられなかった。
「……リチャード。ずっと訊きたかった事があるんだ」
「何だい?」
「ラントの裏山にお前が隠していった、手紙のこと……どうしてあの手紙に、大公との事を書いてくれなかったんだ? 俺は……何か悩んでいる事があるのなら、お前から打ち明けてほしかった。お前の助けになれるのなら、俺はどんな事だってした……やっぱり、俺じゃ頼りにならないと思ったのか?」
「そうじゃない」
そう強く否定すると、アスベルは安堵した様子を見せた。その様子を見ると、リチャードの心が痛む。
本当にそんなつもりではなかった。アスベルを傷つけるつもりなんて、微塵も無かったのだ。
「君に……心配をかけたくなかった。それに……昔のあの思い出は、僕にとってとても大切なもので……王宮での嫌な事を、そこに持ち込みたくなかった。あの思い出は、僕の中ではずっと綺麗なままにしておきたかったんだ」
「そうか……」
「アスベル、すまなかった。君を傷つけるつもりは無かったのだけれど、結果的にそうなってしまった。本当に……すまない」
「いや、いい。もういいんだ。お前の口から、はっきり理由が聞けて良かった。その……このところ色々あったから、俺もやたらと悪い方向に考え過ぎていたと思う。悪かった」
そう言ってアスベルは相好を崩した。再会してからずっと、彼は神経を張り詰め通していた。こんな笑顔すらもあまり見せてくれない程に。
けれど、リチャードはアスベルの笑っているところが好きだ。きっと、死んだソフィもそうだったのだろう。
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セクエンツィア(9)