セクエンツィア(10)
作戦決行の前夜にリチャードと話をした事で、不安にざわめいていたアスベルの心境は、落ち着きを取り戻していた。
ずっと怖かった。こんな無力な自分では、いずれリチャードにも頼りにしてもらえなくなり、見放されてしまうのではないかと恐れていたのだ。
けれど、今は何を恐れる事があるのだろうかと思う。迷いが全くない訳ではないが、しかし、リチャードははっきりと言ってくれたではないか。常に自分の信拠に足る友であってほしい、と。切実な表情でそう訴えるリチャードを見て、アスベルは、己の心のささくれだった部分が穏やかなものに変わっていくのを感じたのだ。
信じているとリチャードに言われた時、アスベルは何よりも嬉しかった。シェリアにもヒューバートにも拒絶された自分の好意が、リチャードにだけは通じたのだと解って本当に嬉しかった。例の手紙の件も、純粋な気遣いから曖昧な文章に留めたのだと判れば、心から安堵できたのだ。
だからこそ、やはり、リチャードを自分の手で守りたかった。今なら、彼の為にどんな事でも出来る気がする。今のアスベルには、リチャードだけが唯一自分を必要としてくれる存在だと思えてならなかった。アスベルにとって、リチャードの代わりはいないのだ……ソフィの代わりがもう、どこにもいないのと同じ様に。
遺跡を経由してウォールブリッジ内部に潜入したアスベル達は、まず王都へ応援を呼ばれる可能性を潰す為に、北門の跳ね橋を上げる事にした。巡回している警備の目をかいくぐりながら進んでいったものの、所々で兵士と出くわした為、やむなく斬り捨てていく。
警備兵を斬ったリチャードの顔が蒼白になっていた。昨晩の会話を思い出したアスベルは、彼の背中をそっと叩く。
「リチャード、大丈夫か」
「アスベル、僕は……」
「……無理はしなくていい。俺に任せてくれてもいいんだ。お前の気持ちは、解っているつもりだから」
リチャードは優しい。昔からそうだった。自分を裏切ったとはいえ、自国の民を手にかける事に罪悪感を抱かずにはいられないのだろう。彼のそんな苦悩をアスベルは取り除いてやりたかった。それこそが、自分の為すべき事だと思った。リチャードの優しさを甘さだと嘲笑う者がいたとしても、少なくともアスベルだけは、その甘さに価値があると信じている。
「お前の傍には俺がいる。俺はお前の為に戦う。お前の剣である事は、今の俺にとって唯一の救いなんだ」
リチャードが大きく目を見開いた。その左目が赤い事に、アスベルは初めて気がついた。彼の左目は、昔からこんな色をしていただろうか? 昔のアスベルが気づかなかっただけなのかもしれないが、まあ、今は些末な問題だろう。
「行こう、リチャード」
アスベルは剣を収めて歩きだそうとしたが、パスカルがついて来ているのに、リチャードがついて来る気配がない事に気づいて振り返った。リチャードは何故かその場に何故か立ちつくし、表情のない顔で真正面のアスベルを見つめていた。
「……どうしたんだ?」
「……ああ、いや、何でもない……そうだね、行こう。僕らは、そうするしかないのだから」


何を見て進んだら良いのか、リチャードには解らなくなってしまった。
自分の前を歩いているアスベルの背中を見ていると、その背中を叩いてやりたいという衝動がこみ上げてくる。背中を叩いて、問い質したい。けれど、もうこれ以上何も知りたくない。
リチャードはずっと信じていた、この孤独と絶望から自分を救ってくれるのはアスベルなのだと。彼との友情だけが、今の自分にとって唯一の救いなのだと。
けれど……アスベルはリチャードの救いではなかった。その事実を、今、こんな所になってまざまざと思い知らされた。
アスベルが今までリチャードの身を執拗に案じ、献身的に尽くしてきたのは、贖いたかったからなのだ。アスベルは誓いを立てた親友を守る事で、もう一人の親友を死に至らしめた罪から救われたかったのだ。
……救われたいのはリチャードの方だ。今更アスベルの本心に気づくくらいなら、ずっと彼に騙されたままでいたかった。いっそ、あのまま地下道で七年前の誓いに縋りながら死んだ方が、どれだけ幸せだったかもしれない。
もしもアストンが生きていたら、シェリアの態度が変わりなかったら、アスベルは故郷の危機を置いても、リチャードの為に王都に戻ってきてくれただろうか。
もしもヒューバートが変わらず兄に懐いていたら、ストラタ軍少佐となった弟よりも、リチャードを守る事を選んでくれただろうか。
どれだけ想像を巡らしても、リチャードの中で答えは出ない。胸の奥底で汚泥が溜まっていくばかりだ。その汚泥を、リチャードはアスベルにぶつけてやりたいと思った。
……それでも、リチャードはアスベルの前では笑ってみせた。
ああ、良いだろう。アスベルが救われたいのなら、親友を利用してでも解放されたいのなら、そうすればいい。アスベルがリチャードに救いを求めているのだとしたら、彼の望むままに在ろう。そうする他に、リチャードには選択肢が無い。アスベルの方はそうでなくとも、今のリチャードにはアスベルしかいないのだ。アスベルから離れたら、きっと、絶望に押し潰されて息絶えてしまう。
だが、初めてアスベルを恨めしく思いつつも、リチャードはまだ認めたくなかった。アスベルは自分を利用した訳ではないと信じていたかった。ソフィを失った苦悩から逃避する為だとしても、アスベルの中にはリチャードに対する好意があると期待したかった。
けれど、それを証明するものがない。救いが何処にも見つからない。


北門の昇降レバーを操作した後、南門を下ろす為、リチャード達は中央塔に立ち寄って鍵を探した。
リチャードの中には、アスベルらと一緒に何食わぬ顔で鍵を探す自分の姿を、冷めた眼差しで遠くから見つめるもう一人の自分がいた。二転三転する己の世界の変わりようが、リチャードには滑稽に思えてならなかった。
『誰かを信じるからこうなる』。そう言ってほくそ笑む声が内側からした。
『そうかもしれないね』。リチャードはそう返した。
そう返した途端、唐突に、アスベルを殺す想像がリチャードの頭に浮かんだ。絶望的な誘惑だ。
リチャードの救いは何処にも無い。だから、自分で見出すしかない。だが、それは何処にあるのだろう。アスベルの胸の内にあるのだろうか。それとも、七年前に永遠に失われてしまったのだろうか。
南橋への鍵にリチャードが手を伸ばした時、警備兵が上から剣を振りかぶって襲いかかった。

『……そら、誰かを信じたからこうなったのだ。裏切り者に情をかけた、その結果がこれだ』

そうだ。
救いなど、何処にもない。
報いなど、誰も与えてはくれない。

……なら、どうすればいい?



リチャードが兵士を惨殺する様を、アスベルは呆然として見ていた。
激しく怒り狂い、自分に襲いかかった兵士に何度も何度も切りつけたリチャードは、まるで、アスベルの知らない人間の様だった。
とうに事切れた兵士の骸を尚も切り苛むリチャードをそれ以上見ていられず、アスベルは背後から叫んだ。
「リチャード……もうやめろ!」
「……僕に命令するな!!」
その怒号にアスベルは愕然とした。
アスベルの制止を振り切ったリチャードは、しかしそれ以上剣を振り上げる事はなかった。彼はそのまま剣を握って立ち尽くしていたが、やがて我に返ったのか、
「……あ……僕は、一体……」
と、声を漏らした。そして彼は、己の足下に転がる死体を見て、その二目と見られぬ無残な有様に身体を震わせた。
「これは……僕は……ごめん、アスベル! 僕は……君に、こんな事を言うつもりじゃ……うっ!」
リチャードは突然呻き声を上げて蹌踉めいた。
「リチャード、大丈夫か、胸が苦しいのか……!?」
口ではそう言いながら、アスベルの足は凍り付いたように固まって動かなかった。蹲る親友の背中に駆け寄ろうと頭では思いながらも、近寄る気になれない。パスカルも呆気に取られて立ち尽くしていた。
リチャードはすぐに体調を取り戻した。斬りつけられた傷も意外な程軽傷で、パスカルが目を丸くする。尚も棒立ちになったままのアスベルに、リチャードが鋭い声を掛けた。
「アスベル、何をしているんだ! 早く南門を開けよう!」
そう言うリチャードは、アスベルの知っているリチャードの姿だった。けれど、マントを翻して進んでいくその背中が、アスベルにはどこか遠く感じられた。
……リチャードが言った『命令するな』という言葉。彼が王子としての立場をアスベルに振りかざしたのは、これが初めてだ。昨晩の会話とまるで相反した文句に、アスベルは戸惑いと不安を禁じ得なかった。
ひょっとして、リチャードはアスベルの身分不相応な態度を煩わしく思っているのだろうか。アスベルがそうして欲しがっているから、仕方なく友人としての振る舞いを許しているだけなのだろうか。
確かにリチャードはアスベルの友であるが、同時に敬うべき主君だ。幼少期に親友の誓いを立てたと言っても、アスベルの弁えるべき本分は変わりない。
けれども、アスベルはリチャードにとって一番の存在でありたかった。彼に頼りにされたい、必要とされていたい。そうされる為には、臣下であるだけでは駄目なのだ。デール公を始め、家臣の中にはアスベルよりもリチャードの役に立つ存在が大勢いる。だから臣下では駄目だった。アスベルは、リチャードの親友という場所に居続けたかった。
だが、それを望み続けていいのだろうか。このままでは、いずれリチャードに見放されてしまうのではないだろうか。


アスベル達が南門を下ろすと、本隊がウォールブリッジになだれ込んだ。そちらと合流しようとしたアスベル達の前に現れたのは、大公側に与したマリクだった。
旧知の仲であるマリクの裏切りに、リチャードが再び怒りの炎を燃え上がらせるのをアスベルは感じ取った。その気持ちは解らなくもない。自分に騎士としての道を示してきた筈のマリクが、国王を弑逆した大公に従っているという理不尽な事実に、アスベルは怒りを覚えていた。
だが、それでもマリクがアスベルにとって大恩ある師である事には変わりない。だからアスベルは、反逆者の一味であるマリクに剣を向ける事は出来ても、やがて敗れた彼に留めを刺す事は出来なかった。
しかし、リチャードは違った。武器を失い、覚悟を決めて膝をついたマリクに向けて、冷徹な一瞥を投げかけながら剣を構えた。
「往生際だけは良い様だな。感心だ」
そう言い放つ口調はアスベルの知らないものだった。アスベルは目の前の親友を制止しようとして、しかし声を上げる事が出来なかった。ここで彼を制止した場合の結果の一つを想像して、思わず竦み上がった。
それでも、やはり、マリクを見殺しには出来ない。
「待ってくれ、リチャード!」
アスベルはリチャードとマリクの間に割って入り、両腕を広げてリチャードを制止した。自分を見るリチャードのあまりに冷たい表情に一瞬凍り付きながらも、彼に向かって助命を訴えた。
「教官は、リチャードが憎くて刃向かった訳じゃない。教官は……リチャードの目指す国家に必要となる人物だ。だから……」
「必要かそうでないかは僕が決める!」
リチャードは更に何か言おうとした。だが、突然胸を押さえて呻き声を上げた。思わず駆け寄ったアスベルだったが、リチャードに手を振り払われる。
「……大丈夫だ」
そう言うと、リチャードはアスベルを押しのけてマリクの前に歩み出た。そして剣を収めると、駆けつけてきたデール公の兵士に、敵兵は捕虜として一箇所に放り込んでおけと命令する。アスベルはその背中を眺めて立ち尽くしていた。
「……先にデールの所へ行っている」
リチャードはそう言うと、北の方角へと歩いて行った。一緒に来いと言わなかったのは、デールと込み入る話があるだけだ。それが事実であったらいいのだろうが、実際は単なるアスベルの願望かもしれない。
マリクが部下達と共に捕虜として連行されていくのを、アスベルはただ見ていた。疑念と不信。アスベルの面に現れたそれを見逃さなかったのだろう、マリクは一瞬何か言いかけていたが、すぐに口を噤み、兵士に連行されていった。
アスベルはマリクの背中を見やった。こうなってしまった以上、マリクに、自身の進むべき道を教えてもらう事は出来ない。いや、例え教えを受けたとしても、今のアスベルにはマリクの教えを心から受け入れる事が出来るだろうか。
全てを守りたかった。だから騎士を目指した。けれどもその為に多くのものを失い、傷つけてきた。それこそがアスベルの守りたかったものだったのに。
そうしてまた、今、親友をきっと傷つけてしまった。自分を殺そうとした者の助命を、自分の親友から願われるというのは、どのような気持ちになるものだろうか。アスベルは決してリチャードを傷つけたい訳ではない。けれど、彼を守らんと思ってした事が、彼を傷つけている。それが現状だ。
どうすればいいのだろう? 現状では、アスベルはリチャードの臣下にも親友にも不相応だ。マリクを助けようとした事で、リチャードからの信頼を失ってしまったような気さえする。
「あれ……何だろ?」
パスカルが下方を見下ろしながら何か騒いでいるが、アスベルはそちらに殆ど関心を向けていなかった。パスカルもまた彼女なりに空気を読んだのか、アスベルの注意を引こうとまではしない。彼女はアスベルを放って、一人で勝手に下の方へと降りていってしまった。
一体、何だというのか。アスベルはパスカルが見下ろしていた方向に目を向けた。
路上に負傷者が集められて救護を受けていた。人数が多すぎて、塔内にはとても収容しきれないのだろう。治療に当たっている人々の中には、見覚えのある緋色の髪の少女の姿があった。

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