セクエンツィア(11)
シェリア……彼女が何故ここに?
アスベルがそう思っていると、先に下へと降りていったパスカルがシェリアに近づき、彼女が怪我人の手当をしている様子を端からしげしげと見つめ始めた。シェリアの方は、いきなり現れて無遠慮な視線を投げかけてくるパスカルに若干戸惑いつつ治療を続けている。好奇心旺盛なパスカルの性格から想像するに、彼女はシェリアの治癒能力に興味を持ったのだろう。
アスベルも下に降りていったが、その足取りは僅かに重かった。地下遺跡でふっと考えた事を思い出すと、シェリアに喜んで声をかけようという気になれない。
もう、シェリアとは昔のような屈託の無い関係には戻れないような気がしてならなかった。そんな関係になってしまったのは、他ならぬアスベルのせいなのだが。
アスベルが降りていくと、シェリアはすぐにアスベルの姿に気づいた。
「アスベル……こんな所にいたのね」
「ああ……うん」
「その、やっぱり……今回の件で、リチャード殿下と一緒に戦うため?」
「ああ……」
「そう……」
アスベルは彼女にどんな話をすればいいのか解らず、言葉に迷って黙り込んだ。何故シェリアがここにいるのか、という単純な疑問すらも訊けない。今の自分には、そんな事すら突っ込んで尋ねる資格はないような気さえするのだ。
アスベルの方から口を開く気配がないせいか、ややあって、シェリアが自分から説明を始めた。
「私は……ラント領の有志により結成された、救護組織の一員として来たの。今回の戦いで負傷した人々を、助けたいと思って……」
「そうか……」
危険だから注意してほしい、くれぐれも無理はしないでほしい。そんな言葉がアスベルの脳裏に浮かんだが、口に出す勇気は出なかった。それ程親しくない人にさえ言えそうな、当たり障りの無い気遣いの言葉。それが何故か、シェリアに向けて伝える事が出来ない。
「二人は知り合い?」
パスカルが脇からそう訊ねてきた。アスベルが首を縦に振る。
「あの……貴方は……?」
「あたし? あたしはパスカル。よろしくね、シェリア!」
「あ……はい、よろしく……」
初対面の割に馴れ馴れしいパスカルの態度に、シェリアは少し鼻白んでいた。彼女はアスベルに視線を向けてきたが、その視線の意味するものがアスベルには解らなかった。
「……何だ?」
「その……パスカルさんとは、どういう?」
「ああ……パスカルとは、グレルサイドに向かう途中で知り合って、ここまで付き合ってもらったんだ」
「どういう経緯でそうなったの?」
何故シェリアがそんな事を突っ込んで訊いてくるのか、アスベルは不思議でならなかった。そういう考えを察したのか、シェリアはさっとアスベルから顔を背ける。
「……ごめんなさい、私が聞いていい事じゃなかったみたいね……」
「いや、そういう訳じゃないが……」
……アスベルは混乱していた。シェリアはもう、アスベルの個人的事情には関心を失ってしまったのではなかったのだろうか? それとも、そんな風に考えてしまうのは、アスベルが勝手にシェリアに失望しているだけなのだろうか? けれど、ラントの屋敷で七年振りに再会した時、彼女は確かにアスベルを拒絶していた筈だ。
一体、シェリアはどうしてほしいのだろう。彼女がアスベルに望んでいる立ち位置が解らない。七年前の事など忘れて、全くの赤の他人として振る舞ってほしいと言うのなら、今のような傷ついたような反応など見せないでほしい。もうシェリアの方がアスベルを嫌いになってしまったとしても、アスベルの方は、そうではないのだから。
「パスカルさん、アスベルが大変お世話になりました」
シェリアはそう言って、パスカルに深々と頭を下げた。
「あたしの事はパスカルでいいよ。敬語もなしで……っていうか、何でシェリアがお礼言うの?」
「私はケリー様……アスベルのお母様から、道中アスベルに会うような事があったら、くれぐれも宜しく頼むと言われていたから」
「そうだ、シェリア。母さんはどうしてる?」
「……貴方を、とても心配なさっていたわ」
「そうか……ヒューバートとは……?」
それを訊かれると、シェリアは黙って首を横に振った。
やはり……屋敷で言い争った時の内容から予想はしていた。ヒューバートは、母に対してもやはり恨みを抱いたままなのだ。当然と言えば当然なのだが、悲しい事実だ。
「今、ラントはどうなっている?」
「ヒューバートが領民の事にも最大限に配慮してくれているから、皆も落ち着いてるわ。実は、私に救護組織を作る事を勧めてくれたのも、ヒューバートなの」
「そうか……」
母と弟の不仲はともかく、ラントの無事を聞いてアスベルは心から安堵した。
この事は、一応リチャードの耳に入れておいた方がいいだろう。彼の機嫌が気になるところではあるが、時間にあまり余裕がない。準備が整ったら、すぐに王都バロニアへと進軍する筈だ。
「すまない、シェリア。俺はちょっとリチャードの所へ行ってくる」
「ええ……あっ、待ってアスベル。それなら、私も一緒に行くわ。救護組織の活動について、殿下の口からお許しを頂きたいの。その方が今後も活動しやすいだろうし……」
「話を通してないのか?」
「デール公の部下だという方には一応話して、許可は取ってあるわ。けれど、色々とごたついていた最中の事だったから、もしかしたら、殿下の元まで話が届いていないかもしれないわ……駄目かしら。私が一緒に行ったら」
「いや……構わないが」
シェリアとリチャードが七年振りに顔を合わせる。その事に問題が無いかどうか、アスベルは一考してみた。問題は、おそらく無いと思う。リチャードの面子の為にも、救護組織の活動については彼自身に確実に伝えておくべきだ。
リチャードは中央塔の屋上でデール公と一緒にいた。公爵から戦勝を称えられると、リチャードは笑みを口元に浮かべた。王者の余裕、と言い表せなくもないが、むしろ冷酷な悪魔のようだとアスベルは思った。その様子を見たシェリアが、
「あれが……あのリチャード……?」
と、小さく呟いた。
リチャードはアスベル達に気づくと、自分の方へ呼び寄せた。その様子から察するに、先程までの怒りは、勝利の喜びで消し飛んだらしい。戦勝を喜ぶ気持ちはアスベルにもあったが、昨晩のリチャードとの会話を思い出すと、違和感を感じずにはいられなかった。
「シェリア・バーンズです。お久しゅうございます、リチャード殿下」
シェリアは地面に膝を付き、リチャードに再会の挨拶を述べた。
「シェリアは、戦いで負傷した将兵を助ける為に来たそうなんだ」
「そうか……話は聞いている。よろしく頼むよ、シェリアさん。傷つき苦しんでいる兵達を、治してやってほしい」
「あっ……はい、お任せ下さい」
リチャードの口から救護組織の活動が許可された事に、シェリアはほっと安心したようだった。だがその表情は、次のリチャードの言葉で凍り付いた。
「ああ……それと、捕虜の治療はしなくていいから、味方を優先してやってくれ」
「……えっ……?」
シェリアもそうであったろうが、アスベルも耳を疑った。リチャードは今、何と言った?
彼の傍にいるデール公は、表情を変えずに控えていた。リチャードの人となりを知っている者なら違和感を覚える発言だったのに。それともアスベルもまた、彼の態度に倣うべきなのだろうか。臣下としての働きを、リチャードに期待されているのなら。
「ですが、殿下。それではいくら何でも……」
「何か問題があるのかな」
「そうではありませんが……」
柔らかな口調と相反した冷たい眼光に睨まれて、シェリアが萎縮する。思わずアスベルはリチャードを見たが、彼と視線が合うと、喉まで出かかった言葉を飲み込んでしまった。
「何だい、アスベル?」
「いや……何でもない」
シェリアの縋るような、責めるような視線を肌に感じながら、アスベルは彼女から目を逸らし続けた。
何となく、この空気は良くないと感じる。捕虜の扱いについて、これ以上ここでリチャードと論じ合うと、見たくないものをまた見てしまいそうな予感がした。
「問題がないのなら、それでよろしく頼む。ここでの救護活動については、警備の指示になるべく従うように。解ったね?」
「……畏まりました」
つまり、勝手に捕虜が収容されている場所には入るなという事だ。シェリアはリチャードの指示に一応返事をしたが、その声色には彼に対する不満が隠しきれていなかった。
「リチャード、少しいいか。二人で話がしたいんだ……その、ラントの事で」
シェリアが一人立ち去ったところで、アスベルがリチャードにそう言うと、リチャードは頷いた。パスカルとデール公らに席を外してもらい、場所を下の階に移す。
リチャードが惨殺した兵士の死体は既に片付けられており、血も拭い去られていた。だが、床や壁のあちらこちらに、まだ拭いきれない血飛沫が残っている。リチャードはこれを見て何と思うのだろう。それとも、何とも思わないのだろうか。
アスベルはリチャードに、シェリアから聞いたラントの様子について説明した。短い説明であったが、リチャードは腕を組んで何か考えながら、その説明を聞いていた。
「……その様子だと、とりあえず今回の一件には、ラントの進駐軍は手を出してこないと見て良さそうだね」
「何故だ?」
「叔父側について僕らと戦うつもりなら、救護組織をラントから送り出したりしないだろう。戦いになれば、自分たちこそが彼らを必要とするのだから」
「ああ……そうか」
アスベルはほっと胸をなで下ろしたのも束の間、リチャードが冷たい声色でこう言い放つ。
「君は優しいね、アスベル。弟君といい、マリクといい、君を裏切った人間に随分甘いじゃないか。君のそういう所を、僕は美点だと思っているけれど……度が過ぎると、愚か者共に付け込まれる隙になってしまうよ」
「……リチャード」
話の中にマリクの名前が出てきたところで、アスベルは話題を切り替えようとした。むしろ、そちらが本題だった。先にラントの近況について伝えたのは、リチャードの機嫌を一旦宥める為である。
そうして彼の顔色を伺っている今の自分が、アスベルは嫌だった。こんな関係は友人同士にあるまじきものだ。けれど、先程ここでリチャードが見せた残虐性……あれだけは、どうしても二度と見たくないのだ。
「さっきの……捕虜の扱いについてだが、もう少しどうにかならないか? 反逆者とはいえ、彼らも同じウィンドル国民だろう」
「その話か……」
リチャードの表情が不機嫌なものに変わるかと思ったが、リチャードは感情のない顔でアスベルを見ているだけだった。多分彼は、捕虜の待遇に不満を感じているのがシェリアだけでないという事に、とうに勘付いていたのだろう。
「僕は、僕自身に敵対する人間など、僕の王国の民として認めない。捕虜は全員、見せしめに処刑する。僕に逆らったらどうなるか、思い知らせてやらなくてはね」
「そんな……彼らだって、彼ら自身の意志で敵対している訳じゃないだろう」
「つまり、アスベル。こういう事だろうか。僕に彼らを許せ、と……それなら、僕の答えは否だ。僕は、君のようには優しくなれない。僕は彼らのせいで、危うく死にそうな目にさえ遭ったんだ。絶対に許せない」
リチャードは床に残った血痕を靴先で踏みにじり、そう言った。
「彼らは僕を裏切った。裏切りには、それ相応の罰を与える。そうしなければ示しがつかない。違うかい?」
「しかし……」
リチャードの言う事は、言葉だけ取れば正しいように聞こえるところもある。しかし彼の今の判断は、為政者としてよりも、彼個人の感情に大きく左右されているような気がしてならない。その場の怒りや憎しみに委せて処刑を決めてしまえば、後で最も後悔するのはリチャード自身なのではないか。
「……駄目だ。やはり処刑なんて考え直すんだ、リチャード。確かに罰は必要だろうが、恐怖で人を縛る事が、上に立つ者のすべき事ではない筈だ」
「そうやって君は、僕に王の心得でも説くつもりなのか?」
リチャードの赤い左の瞳が、燃え上がるような激しい怒りを込めてアスベルを鋭く睨んだ。
アスベルは凍り付いた。今、自分の前に立っているのは一体誰なのだろう。アスベルの親友とは姿形が同じでも、中身がまるで別人だ。あの優しかった青年が、アスベルの知らない間に容赦なく人を殺す冷徹な性格に変貌してしまったというのだろうか。それとも、昨晩まで自分が見てきたリチャードこそが何かの見間違いで、これこそが彼の本性だとでもいうのだろうか。そうだとして、その本性はアスベルをどうしてくれるのだろう。
「アスベル。昨日、僕が君に何と言ったか、君はもう忘れてしまったのか」
「いや……そんな事はない」
アスベルは即座に首を左右に振る。その胸中に、リチャードが昨晩の出来事を忘れていない事への喜びと安堵が沸いていた。
「君は僕の親友だ。けれど、僕に上に立つ者としての在り方を説いている今の君は、まるでデール達と同じ、只の臣下の一人みたいだ。僕は、君なら……今の僕の気持ちを理解してくれると、そう思っていたのに」
「俺は、ただ……お前を失いたくないんだ。もう誰も失いたくない。それだけなんだ」
アスベルは頭を振ってから更に言い継ぐ。リチャードの表情からは、アスベルの言葉を聞くに従い、怒りが消えていった。
「捕虜を処刑するだなんて、お前らしくない。お前の感じている怒りも憎しみも、良く解っているつもりだ。けれど、それに身を委せてしまってもいいのか? 後で悔やむんじゃないか? 俺は、そんなお前は見たくない。後でどれだけ後悔したって、昔には戻れないんだぞ?」
「……昔には戻れない、か……」
リチャードはそう呟くと、アスベルから顔を背けて窓の外に目を遣った。
おそらく、外では王都進撃に向けて部隊の再編が進められているだろう。アスベルがリチャードを説得出来る時間は、そう長くない。しかし、マリク達捕虜の生死は、リチャードのたった一言、短い時間で決められてしまう。
「……君が僕に何を期待しているのかは理解したよ。でも……君の期待に応える事は正直、とても難しい」
「それは、どうして……」
「君は僕に、情に弱い人間のままでいてほしいと思っているんだろう。でもそれは、この先の僕には許されない事だ。情に絆されてしまったら、自分自身の身すら守れない。それが現実だ……先刻、この場でそうはっきりと思い知らされたんだ」
リチャードはそう言うと、再びアスベルの顔を見た。その表情はひどく寂寥としていた。同じ部屋にいる筈なのに、彼とアスベルの立っている場所が全く異なる世界であるかのように、アスベルには感じられた。
「僕は、今までとは生き方を変える。そうしなければ、この世界は僕自身を生かしてはくれないだろう。けれども……そうなってしまったら、君は僕に失望するだろうか? こんな僕とは、もう、親友ではいられないかい?」
「……いや、そんな事はない。絶対に。お前は、俺の大切な親友だ。何があっても、それは変わらない」
アスベルは強い声色でそう口にした。
「……そうか……ありがとう」
リチャードはそう言って一瞬微笑み、そして、
「それなら……そこに跪け」
そう言って、アスベルの足下を指さした。
「……何だって……?」
「聞こえなかったのか。『跪け』と言ったんだ」
リチャードはそう言って、腰に提げていた剣を抜き払った。
アスベルは、彼の発言に呆気に取られた。剣を抜いたという事の意図。リチャードはまさか、その手にした剣を、自分に向けようとしているのだろうか。
驚怖するアスベルの足下に、リチャードの剣の切っ先が突きつけられる。
「僕も、君の事を大切な親友だと思っている。だから出来る事ならば、君が望むような人間でありたい。けれど、それでは僕は生きていく事すら出来ないんだ。だから、君が僕を守ってくれないか。僕の騎士として」
「……それはまさか……俺を、騎士に任命したいっていう意味なのか……?」
「その通りだ」
アスベルはリチャードが抜剣した意味を理解して、真っ先に安堵した。それから、改めてリチャードを見た。
リチャードの騎士になる。それはかつてアスベルが騎士学校で目指していた道そのものであった。しかし今となっては、その道に対する考え方はかなり様変わりしていた。
騎士の誓いは万人にとって絶対の忠誠を約束するものではなく、騎士もまた忠節の象徴ではない。アスベルが憧れ求めたものは、アスベルの願いを必ず叶えてくれる程強くはない。今回の謀反で、その事実がアスベルの面前に叩き付けられた。
「……俺でいいのか?」
「君がいいんだ。他に誰もいない。君は騎士になりたかったんだろう? その為に、ずっと騎士学校で頑張ってきたんじゃないか。その剣を、僕に捧げてほしい」
「……解った」
迷った挙げ句、アスベルはおそるおそる床に膝をついた。
俯いて、リチャードが次にする事を黙って待ち受けた。リチャードの足が視界に入り、その視界の端に彼の剣が映る。首のすぐ横に剣の腹が当たり、肩を叩く。次に反対側の肩に剣が触れ、そしてすぐに離れていった。
「……こんな場所だから略式になるが、君を、正式にウィンドル王国の騎士として任ずる。これより君は騎士学校の一生徒ではなく、ウィンドルの王国騎士だ。おめでとう……アスベル」
リチャードは剣を鞘に収め、アスベルに手を差し出した。その手を取って立った瞬間、アスベルの心のどこかに暗い歓喜が湧き起こった。

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