ウォールブリッジの北門に兵がずらりと整列している遙か後方、列から少し外れたところに、シェリアはパスカルと共に立っていた。
アスベルは彼女らの傍にはいない。彼はシェリアがいる場所とは遙か離れた列の先頭の、リチャードのすぐ傍に立っている。そこがアスベルに与えられた地位だった。今や彼は、単なる騎士学校の生徒ではなくなったのだ。
アスベルが騎士になった。他ならぬアスベル自身からその事を告げられた時、シェリアはラントの屋敷で感じた不安が現実のものと化した事に愕然とした。
ラントにはもう戻らないのか、とシェリアが恐る恐る問うと、アスベルは頭を振って答えた。
「今のラントには、俺の居場所はない……知っているだろう」
「でも、ヒューバートともう一度話し合えば……」
「話し合うまでもない」
そんな事は……とシェリアは反射的に口にしたが、虚しい言葉だと自分でも感じた。ラントでアスベルを拒絶したのは、ヒューバートだけではなかったのだから。
ヒューバートがアスベルを追い出したと聞いた時、シェリアにはアスベルを追うか、ヒューバートと話し合うかという選択肢が与えられていた。だが、彼女にはどちらを選ぶ事も出来なかった。どうすれば良いか解らなかったのだ。
まだ三人が一緒にいられたあの頃から、ラントから、自分の元から、アスベルとヒューバートが離れていってしまう。一方を捕まえようとして手を伸ばせば、もう一方の手を捕まえ損ねてしまう様な気がした。
だが、そうしてシェリアが手を伸ばしあぐねて立ち往生している間に、アスベルは騎士になった。彼はリチャードの手を取り、ラントを捨てたのだ。そして、弟と和解する道すら諦めてしまった。
負傷者の救護を終えると、シェリアは王都奪還作戦に加わりたいと申し出た。アスベルの方がどうであろうと、シェリアの方はまだ、アスベルの事を諦めたくなかった。それは勿論、ケリーからアスベルの事を頼まれていたからだけではない。
だが、シェリアは本隊ではなく、パスカル共々遊撃隊に回された。リチャード直々の決定で、だ。シェリアもパスカルも正規の訓練を受けた兵士ではないから、遊撃隊という扱いは順当であろう。しかし、シェリアはその決定に、別の意図が多分に含まれていると何となく感じていた。
「な〜んか、予想外の展開になっちゃったねえ、シェリア」
「ええ……そうね……」
「アスベルがあっちに行っちゃったし、、遊撃隊はあたしら二人だけみたいだね。という訳で、よろしく! あたし、たま〜に変な方向に銃撃っちゃうかもしんないから。まあ大丈夫だとは思うけど、一応注意しといてね」
「はあ……」
屈託の無いパスカルの笑顔にとてもついていけず、シェリアは俯いた。しかしパスカルは相手の顔色に全く気づいていないのか、止め処なくぺらぺらと話を続けていく。
「そういやさ、あのシェリアが使ってた、ぴかーってなるやつ、あの力って何? W術にしてはW石を使ってないみたいだから、どういう原理になのか気になってたんだよね。良ければ、ちょっと教えてくんない?」
「あの力のことは……私自身、よく解らないの。最近使えるようになったばかりで……W術の一種だろうってお医者様は仰っていたけれど、はっきりした事までは……」
「そっかあ……そういえば、アスベルもなんか似たような力使ってたっけ。シェリアと違って、傷を治すとかいう事は出来ないみたいだけど……そういや、昨日のアレって結局どうなったのかなあ、アスベル」
「あの、パスカル……」
アスベルとは一体いつからどのような関係なのか。シェリアがそれをさりげなく聞き出そうとしたところへ、
「あ、アスベル。どうかしたの?」
パスカルのその言葉に反応して、シェリアは弾かれたように顔を上げた。いつの間にやって来たのか、アスベルがシェリアとパスカルのすぐ目の前に立っている。騎士という肩書きになったのが信じられない程、外見だけは変わりない。けれど、彼はもう、ラントの次期領主ではなくなってしまったのだ。
「パスカル、これ返すよ。グレルサイドに行く途中で借りたろう?」
そう言ってアスベルがパスカルに手渡したのは、バナシーアボトルの瓶だった。
「ああ、あれかあ。あれはあげたやつだし、でも、ありがと」
「この作戦で必要になったらいけないと思って……シェリアもパスカルも、くれぐれも無茶はしないでくれ。こちら先行するから大丈夫だとは思うんだが、一応、な……」
「だいじょぶだいじょぶ。むしろ、そっちがちょっと危なくない? 作戦中にリチャードの具合が悪くなったりしたら、やばいでしょ」
「それは……」
アスベルが言い淀む。リチャードの体調が思わしくないという話を、シェリアが聞くのはこれが初めてだ。脳天気なパスカルでさえ心配しているところを見ると、病状は軽くない様だ。
「アスベル。リチャード殿下はご病気なの?」
「ああ、まあ、ちょっとな……」
そう言いながらアスベルはシェリアから少し視線を外す。彼は、リチャードの病気がどういうものなのかをシェリアにあまり説明したくない様だった。シェリアはその事から敢えて目を背け、表情を取り繕って話を続ける。
「だったら、その……私も同行させてもらえないかしら。私の力は、病気を治す効果はあまりないけれど、一時的な苦痛を和らげる事くらいは出来るから」
「いや……お前は遊撃隊に回ってくれ」
「でも……」
「リチャードが決めた事だ。あいつ自身が、シェリアの同行は必要ないと言っている。だから、言う通りにしてくれ。お前がそうしてくれないのなら、俺がお前に、『リチャードに従え』と命令しなければならない」
「……それは、貴方が騎士になったから……?」
「そうだ」
アスベルは頷いた。予想していた返事とはいえ、口に出されるとシェリアの胸が痛む。それと同時に、シェリアの頭にある疑念が浮かぶ。
奇妙だった。シェリアの知っているアスベルは、頑固ではあったが、自分の意見を通す為に身分や地位を振り翳すような真似はしなかった筈だ。それとも、そんな少年はもう、シェリアの過去の思い出にしか存在しないというのか。
ふと、アスベルの腰に差している剣が、違うものになっている事にシェリアは気づいた。先刻シェリアをリチャードに紹介した時までは、違う剣を差していた気がする。
「その剣……さっき差していたものとは違うのね」
「ああ、これはデール公が……騎士の振るう剣が騎士学校の支給品では、いくら何でも体裁が良くないからと言って……」
真新しい、シェリアの目から見ても以前のものより値が張りそうな剣。その剣を、アスベルはこれから血で汚しに行くのだ。
「……これからまた、戦いが始まるのね」
「……ああ」
「……アスベル。本当にこうするしか道は無かったの? 殿下と一緒にいた貴方なら、こんな戦いが起きる事がないように、殿下を説得する事だって出来たんじゃないの?」
シェリアはリチャードの境遇に同情はしているものの、肉親と玉座を賭けて争おうとする事まではどうしても理解出来なかった。実兄である国王を殺したセルディク大公を、倫理的な感情から軽蔑している。けれど、国民にとって最良の政治を行ってくれるのならば、誰が王であっても構わないとさえ思えてしまうのだ。こんな風に同じ国の民同士で殺し合い、多くの血が流れるくらいなら。
「……シェリア。お前が、人が傷つくという事に心を痛めているのは解る。でも、そんな言い方は残酷だ。リチャードは肉親に父親を殺された上、命を狙われたんだぞ」
「それは……解っているつもりだけれど、他に方法は無かったのかって……」
「……もういい。俺は行く。リチャードをこれ以上待たせる訳にはいかない」
アスベルはそう言ってシェリアに背を向けた。思わず追い縋ろうとするシェリアに対し、背中越しに冷たい声が飛ぶ。
「……シェリアは、俺やリチャードの気持ちなんて解らないんだな。昔のお前は、そんなんじゃなかったのに」
明確な拒絶を示され、シェリアの四肢がその場で凍り付いた。主の下へと向かってひた走る背中から、彼女は目を逸らす事が出来なかった。
泣きたいような気持ちを抱えて、シェリアはパスカルと共に王都へと向かった。のろのろと進んでいたつもりはないのだが、既に最前線のアスベル達の姿は見えなくなっている。
状況は、シェリアにとって悪化していく一方だった。アスベルがリチャードの心境に共感している事に、シェリアは強い恐怖を感じる。叔父に追われたリチャードと、弟に追われたアスベル。リチャードが叔父に剣を向けようとしている今の光景が、いつかそのまま、アスベルによって再現されてしまうのではないか。
だが、シェリアがその事態を回避しようにも、彼女に出来る事は以前よりも限られてしまった。アスベルには失望され、リチャードには警戒されている。
リチャードはシェリアの心中に気づいている。だから、彼はシェリアの同行を拒んだのだろう。今やリチャードの望みとシェリアの望みは、アスベルを中心にして完全に対立している状態だ。
シェリアはもう、アスベルが何を考えているのか理解出来なくなりつつあった。そういう意味では、アスベルの言う通り、『彼の気持ちなど解らない』のかもしれない。
アスベルの希望を無視して、彼に、ラント家の長男だという理由を突きつけて帰郷を迫る事は出来る。だが、そんな上辺だけの言葉では彼の心を動かす事は出来まい。
アスベルにラントに帰ってきてほしい。ヒューバートと和解してほしい。それがシェリアの本心なのだ。
「アスベル達、進むの速いねえ。全然姿見えないよ」
「ええ……あっ、パスカル。そこ、大きい石が落ちてるわ。気をつけて」
リチャードの部隊が本隊と別れて王都地下を経由して王都に潜入したと聞き、シェリア達はその後を追った。薄暗い地下に踏み込んだ途端、シェリアの脳裏に七年前の記憶が蘇る。あの幼い頃の思い出に価値を見出しているのはシェリアだけで、アスベルやヒューバートにとっては現状こそが望ましい形なのかもしれない。アスベルは騎士になり、ヒューバートはラントを手に入れた。彼らの幼い頃の望みは叶った。しかしシェリアには、己の望むものを得られたという実感はない。健康になれた事は本当に嬉しいけれど、それ一つで我慢しなければいけないのだろうか。
「シェリア、大丈夫? さっきから考え事してない?」
「あっ……ごめんなさい、作戦中だっていうのに気を抜いていたわ」
「別に、あたしは気にしないけど……アスベルの心配でもしてた?」
「ええと……大体、そんなところかしら」
深く問い詰められたくなくて、シェリアは咄嗟に話題を切り替えた。
「そういえばアスベル、ラントを出る時に色々あって、ちょっと怪我したみたいなの。あれは大丈夫だったのかしら……パスカル、貴方と一緒だった時はどうだった?」
「別に、怪我の方は大丈夫だったんじゃないかなあ。風邪はひいてたけど」
「風邪? ああ……あの日は雨が降ったから……」
「そんな大した風邪じゃなかったみたいなんだけど、そのせいでリチャードと揉めちゃってさあ。あの時はほんと、どうしようかと思ったよ」
「アスベルと殿下が揉めた? それで、どうなったの」
「どうなったって……仲直りして、それで終わりだけど」
「……それで終わりなの?」
パスカルはこくりと頷いた。
正直なところ、シェリアは、ウォールブリッジで会った時のリチャードのアスベルに対する態度に不快感を覚えていた。『親友』という関係が何かの冗談の様に思える程、専制的で高圧的な態度。アスベルの方がそれに従っているのも正直嫌だった。アスベルが自分もヒューバートもラントも捨てて取ったものがあれなのかと思うと、憤りを覚える。
だがそう思う一方でシェリアは、そうしてリチャードに対する敵意を膨らませる己に強い自己嫌悪の念を感じていた。結局、シェリアは悔しいのだ。リチャードはアスベルの手を取った。彼は、シェリアが及び腰で出来なかった事をやってみせたのだ。
「……ねえ、パスカル。ちょっといいかしら。貴方と一緒にいた時のアスベルとリチャード殿下って、どんな感じだった? 貴方はあの二人の事、どう感じた……?」
シェリアは冷静な頭で今後の事を考えたくて、第三者であるパスカルの意見を求めた。唐突に質問されたパスカルは数秒考え込んでから、意外な返答をした。
「どんな感じって……普通に仲良かったよ。親友同士って本人達が言ってたけど、ほんとにそんな感じでさ。でも、アスベルの方は……妙に肩肘張ってたっけ。自分よりも、リチャードの心配ばっかりしてたよ」
「それは……どうして?」
「さあ……アスベルがそうしたかったんじゃない? リチャードの方は、あんまり気遣ってもらいたくなかったみたいだったよ」
そこまで話したところで、シェリアとパスカルは開けた場所に出た。天井が高く、煉瓦が崩れて散らばっている。
シェリアは思わず歩みを止めた。ここは……間違いない、あの場所だ。あの夜、皆で忍び込んだこの場所でリチャードを見つけた時、全てが変わった。シェリアの幸せな時間は、七年前のあの時、この場所で止まってしまったのだ。
「どうしたの、シェリア」
「……ここで、昔、友達を亡くしたの。それを思い出して……」
「……それってひょっとして、ツインテールの女の子だった?」
シェリアは驚愕に目を見開いてパスカルを見た。パスカルが思わず身を竦ませる。
あの場にいなかったパスカルが、何故その事を知っているのか。シェリアがそれを問い詰めると、パスカルはこう答えた。ウォールブリッジの地下遺跡で、紫の髪の少女の幻を見たのだと。アスベルとリチャードによれば、その少女は二人の死んだ友人にそっくりなのだという。
「……アスベルはその子のこと、何て言ってたかしら……?」
「んーと、確か、大切な親友だったって言ってた。でも、自分のせいで死んでしまったみたいな、そんな感じの事も言ってたなあ……シェリア、どうかした?」
額に手を当てて俯いたシェリアに、パスカルは歩み寄った。
「……何でもない、何でもないの……」
シェリアは頭を振った。
……現在のアスベルがあれ程リチャードに固執している理由に、シェリアは卒然と思い当たってしまった。可能性の一つでしかないが、それが事実ならば、何という、救いようの無い。だって、あれは。
シェリア達はまだ若い、これから時間をかけてより良い道を模索していけばいい……祖父がそう言っていたのを思い出す。
だが、これ程最悪な状況から這い上がれる道が、本当にまだ残されていると言うのだろうか。
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