それまでリチャードの決断に異論を差し挟んで来なかったデール公も、流石にリチャードがアスベルを騎士に任じたと知るや、難色を示した。騎士団がセルディク側についた現在、民兵達は騎士そのものに不信や反感を抱いている。その状況下で騎士を任命するという事は、民兵らの士気を左右しかねない大事だ。デール公としてはせめて、事前に自分に相談してほしかったのだろう。
しかしリチャードによれば、アスベルを騎士に任命する事には、むしろ兵士の結束を強める狙いが含まれているのだという。
ここまでリチャードと共に戦ってきたアスベルに報償し、彼を騎士に任じる事によって、今回の戦争ではリチャード側に正当性があるという事を他に知らしめる。そして大公側に与した騎士団など、今や名ばかりの反逆者に過ぎないという事を再確認させる。同国人が相争う事に躊躇いを覚えているのは、何もアスベル達に限った話ではない。他の一般兵士たちも同じだ。そんな彼らの迷いを振り切るのは、王子の剣として戦うアスベルの姿なのだ。
デール公はリチャードの説明を聞くと、最終的には主の決定に頷き、それからアスベルに『騎士としての務めを必ず果たせ』と言い置いた。
そうして、アスベルはリチャードと共に王都へ向かった。デール公が付けて寄越した部隊と共に進軍するのは、少なからず重圧感を感じる事ではあったが、デール公の了解を得られた事は嬉しかった。この戦いが終われば、おそらく、公爵はかなりの要職に取り立てられるだろう。王家の遠縁である彼の了解があるのなら、アスベルがリチャードの騎士である事に異論を差し挟む者が出てきても安心だ。
リチャードの傍にいたい。彼から目を離す事が怖くてたまらない。アスベルが傍にいて引き留めておかなければ、彼はアスベルの知らない場所に去っていってしまう様な予感がするのだ。
地下道を抜けたアスベル達は、そこで騎士団の奇襲を受けた。地下道から侵入される可能性を想定されていたのだろう。他の人間の事がどうでも良かった訳ではないが、アスベルにはリチャードを守る事しか考えられなかったし、その外の事にまでは力が及ばなかった。
リチャードの首級を挙げんと襲いかかってくる謀反人達を、アスベルは斬り伏せていった。そこに容赦も躊躇もない。リチャードを守るという事。今のアスベルにとって、それより大切な事などない。リチャードに与えられた居場所は心地が良かった。足下が血で塗れていても、そこに居られるというだけで価値があると思った。
「……どうやら、これで全員の様だね。アスベル、怪我はないかい」
それはアスベルの台詞だったが、幸いな事にリチャードには傷一つついていなかった。
二人は周囲を見回す。こちら側の手勢はすっかり全滅してしまった様だった。相手側の兵士も、今にも息絶えんとしている者ばかりだ。十人近く。ここまでの人数と一度に戦った事はないが、アスベルは冷静に戦えた事に安堵していた。これからは、いつもこのように冷静な判断で戦わなくてはならない。間違いなど決して許されないのだから。
「アスベル!」
後方の地下道から、シェリアとパスカルが追いついてきた。アスベル達の元に駆け寄ってきた途端、シェリアの白い頬から血の気が引く。アスベル達の周囲の惨状のせいだろう。シェリアはすぐに兵士の具合を看たが、いずれも息をしていないと知ると、暗い表情で立ち上がった。
「これは……」
「……待ち伏せを受けたんだ。リチャードと俺は何とか無事だったが、他は……」
シェリアは黙ってアスベルの返り血が飛んだ服を見やると、すぐにそれから視線を背けた。これが普通の反応なのだ。大量の死体を前に、平然としていられる方がむしろおかしいだろう。
「アスベル、先を急ごう」
「ああ……いや、待ってくれリチャード。こんな事態だ、二人にも同行してもらってはどうだろう?」
アスベルがそう言った途端、リチャードの視線が鋭くなった。彼が何か言う前に、アスベルは続けて言葉を発する。もしも先にリチャードから反対されてしまったら、アスベルはきっとその言葉に逆らえない、そんな気がした。
「こちらは戦力を一気に失ってしまったし、二人はこの城の間取りに詳しくない。だから……その」
「……そうだね。確かに、その方が良さそうだ。二人共、それでいいかな」
リチャードがシェリアとパスカルの方を見やると、シェリアが彼の視線に僅かに身を固くした。
「ええと……」
「うん、いいんじゃない? あたしはオッケーだよ」
「シェリアさんは?」
「私は……はい、解りました」
シェリアがおずおずとそう答えると、リチャードはさっさと歩き出した。彼のシェリアに対する態度が殊更冷たいようにアスベルは感じられたが、先程の出撃前の出来事を思い出すと、その態度について深く問い詰める気にはなれなかった。
シェリアは、今のリチャードの心情を理解してくれない。その状況を解決しようという意欲は、アスベルの心から消えかけていた。幼馴染みであるアスベルとて、最早、シェリアの事が理解出来なくなりつつあるのだ。
それでも、リチャードがアスベルにばかり話しかけて、シェリアを無視している事がアスベルの気に掛かる。ウォールブリッジでのシェリアの無神経な発言には正直腹が立ったものの、決して彼女の事が嫌いになった訳ではない。幼馴染みが露骨に親友に除け者にされている光景には、やはり心が痛まずにはいられなかった。この状況に気づかず気楽な話ばかりしているパスカルの思考回路が、いっそ羨ましいくらいだ。
「……アスベル」
後方のシェリアを気に掛けていたアスベルに、リチャードが、彼女達には聞こえない程小さい声で話しかけてきた。アスベルが慌てて視線をリチャードの方に向けると、彼はどこか薄ら寒い笑みを浮かべてこう言った。
「君は、僕の剣になると言ったね。だったら、もしもここでまた敵に襲われたら……君は勿論、僕を守ってくれるのだろうね」
「そんなの、当たり前だろう」
「彼女たちを犠牲にしてでも?」
……なんだって?
あまりに残酷な問いかけに、アスベルは返す言葉を失った。そんな彼にリチャードが、
「冗談だよ」
と口にして笑いかける。
ただの冗談? 本当にそうなのだろうか。念を押されているようにしか感じられないのは、アスベルの気のせいだというのか。
アスベルの頭に一瞬だけ、リチャードから逃げたいという思いが湧いた。
だが、それこそ冗談だろう。彼の元から逃げたところで、何処へ行くというのか。
大公がいる玉座の間へ向かうアスベル達の前に、ヴィクトリアが立ちはだかった。
騎士学校におけるアスベルの恩師であり、そして今は親衛隊の一員。紛う事なき反逆者の一人。そんな所まで、マリクと同じだとは……アスベルは再び恩師に剣を向ける事に、陰鬱な感情を抱かずにはいられなかった。
だが、アスベルはヴィクトリアの前ではっきりと、リチャードに騎士に任じられた事を宣言した。その宣言に教え子の本気を感じたのだろう、ヴィクトリアの槍がアスベルに向けられる。
アスベルは彼女と本気で戦った。迷いなどない、ある筈がない。アスベルはリチャードの騎士だ。彼の為に存在する剣だ。リチャードが誰かを傷つけ、誰かに傷つけられる位なら、恩師を傷つける事も躊躇わなかった。
だが、ヴィクトリアの息の根を止める事までは致しかねた。アスベルはマリクの裏切りを、心の何処かで許していた。彼を許せるのなら、ヴィクトリアの事も許せる。しかしアスベルの振るう剣の行き先を決めるのは、今やアスベル自身ではない。
しかし意外にも、リチャードはヴィクトリアに留めを刺せとは言わなかった。むしろ彼女に対する関心をすぐに失い、アスベルに向かって先を急ごうと促す程だった。アスベルはそれに従った。
「……リチャード、あれで良かったのか?」
「何の話かな」
「その、ヴィクトリア教官の事……留めを刺さなくても、良かったのか……?」
「君は、そうしたかったのかい」
「いや、違う」
アスベルはすぐに否定した。肯定してしまったら、リチャードは本当にその通り、ヴィクトリアを殺してしまいそうな気がしてならなかった。彼がそう決めてしまったら、アスベルはその決定に背く自信がない。騎士として忠誠を誓った以上、最早リチャードの意志こそがアスベルの全てだった。
「敗れた騎士に追い打ちをかけるなどと、恥ずべき行為だ。そんな真似を君にはさせられないよ。君だって、恩師を殺めたくはなかっただろう?」
そう問いかけられたアスベルは、無意識にリチャードの表情を見ながら頷いた。
「……ああ。だがマリク教官の時は……」
「マリクの事は、僕なりに結構信頼していたから……それだけに、彼に裏切られたと知った途端に腹が立ったんだ。まさか彼までもが叔父に付くとは思わなくて……けれどもあの時は、君に悪い事をしたと思っているよ。君だって、マリクの事をとても尊敬していたのだろうから」
あの時の事を、リチャード自身が後悔している事がアスベルは嬉しかった。やはり彼は、アスベルの知っている通りの優しい青年なのだ。ただ、衝撃的な出来事が続いて感情的になっているだけで。
だから……アスベルが、彼の心を守ってやればいい。そうすれば辛いことなど何もない。起きない。見なくていい。
リチャードがアスベル達に語るところによれば、セルディク大公は剣の腕前に関しては相当優れたものだという話だった。
その言葉通り、大剣とW術を駆使する彼の技量は凄まじかった。しかし大公に対するリチャードの戦い振りは、全く容赦のない、鬼気迫るものだった。
実兄を殺めて手に入れた玉座にしがみつく叔父と、父の仇を獲る為に叔父を討たんとする甥。
激闘の末に膝を着いたのは、セルディク大公であった。剣を握りしめた手が敗北の悔しさにぶるぶると震えていたが、立ち上がるだけの力がないのだろう。そんな叔父を見下ろしながら、リチャードは冷めた口調でこう言い放つ。
「……王座は王を選ぶ。そして、貴方は選ばれなかった存在だった。それだけの事です。死ぬ前に理解出来て良かったですね……叔父上」
最後の言葉を聞いた途端、セルディク大公が弾かれたように顔を上げて甥を凝視した。その唇が戦慄き、ひび割れた声を絞り出す。
「まさか……リチャード、貴様、このわしを処刑するというのか……このわしを、晒し者にするというのか……!?」
「貴方が父上や僕にしてきた事を考えれば、むしろ感謝してもらいたいくらいです。父上は貴方の毒によって長きにわたり苦しみ抜き、そして殺された……それに比べて、貴方はほんの一瞬で死ねるのですからね」
大公の双眸にかっと憎悪の炎が灯る。王族であり、一時でも王位を手にした男が、逆臣として衆人の前に引きずり出され処刑台に登らされる事になるのだ。想像するだけでも凄まじい屈辱だろう。
アスベルはそんな惨めな大公を凝視するのが忍びなく、彼から少し視線を外した。大公の極刑はやむを得ない事だろう。国王を弑し、王子の命を狙い、ウィンドル国内にこれ程の混乱を招いた張本人なのだ。
声にならない呻き声を上げて床を叩く叔父を、リチャードは黙って見下ろしている。アスベルは、リチャードが激情のままに叔父を己の手にかけてしまう可能性を危惧していたが、どうやらその心配は要らぬ様だった。
そこへ、城の外で正門が開かれる音が聞こえてくる。
「デールの部隊だろう……僕たちの勝利だ」
正門の方を見ながらリチャードがそう言った。
すると、大公が大剣を床に突き立てて立ち上がろうとする様子を見せた。戦えるだけの気力はもうないだろうに、甥に屈したままの姿だけはどうしても耐えられないという事か。リチャードが警戒して剣の柄に手をかける。
リチャードが彼の剣に手をかけ、大公が最後の力を振り絞って剣を振るい、甥に斬りかかる。
リチャードは危ういところでそれを受け流し、叔父の懐に入り込み、そしてその剣を……叔父の腹に突き立てる。
叔父から剣を引き抜くと、リチャードはあの残酷な表情を浮かべたまま、叔父の骸を見下ろした。
けれど、それは全て、現実の出来事ではない。
現実に、大公の身を刺し貫いていたのは、アスベルが握りしめている剣だった。
その時、何が起きたのかシェリアには理解出来なかった。
大公が立ち上がり、皆が咄嗟に武器を構える。状況はそこで一瞬膠着する筈だったのに。
アスベルがリチャードの前に躍り出て、
剣を抜き、
大公の身体を貫いた。
……シェリアは自分の見たものが信じられなかった。
何が起きた? 何をした? アスベルは、今、一体何をした?
だって、先刻リチャードに言われたばかりだったではないか。敗れた騎士に追い打ちをかけるなど、騎士としてあるまじき事だと。
リチャードが大公を殺せと命じたか? 違う。リチャードはそんな事は言っていない。言ったかもしれない。言っていない。視線で伝えたのかも。
大公がリチャードに斬りかかろうとしたのか? 違う。大公は、立ち上がろうとして剣を床に突き立てただけだった。
…アスベルが殺したのだ。
リチャードの命令でも、リチャードを守る為でもない。
彼は、自ら進んで大公を殺したのだ。
大公が文字通り血を吐くような声を上げた。アスベルがその身体を突き放す。それと同時に大公を刺し貫いていた彼の剣が引き抜かれ、鮮血が溢れて大公の服を真っ赤に染めていく。
アスベルが血塗れの剣を取り落とした。その右手も、剣の柄も、べっとりと血で濡れていた。
倒れ伏した大公の血が、絨毯に染み込みきらず、血溜まりが床に広がっていく。その血溜まりの中で激痛にもがきながら、大公が凄まじい形相で面前に立つアスベルを見上げていた。
「……き……さ……ぁ……!」
よくも。よくも。貴様などに。
殆ど言葉にならない怨嗟の声を上げながら、大公がアスベルの脚を掴み、何か言いかけ、そして……ばたりと事切れた。
廊下から鬨の声が聞こえてくる中、玉座の間だけが切り取られた別世界のように静まり返っていた。
その世界の中心で、アスベルが立ち尽くしている。
その様を見ていたリチャードの口元が、不意に笑みを浮かべた。
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セクエンツィア(13)