王都バロニアで新王リチャードの戴冠式が催された。その話がウォール砦の囚徒であるマリクの耳に届いたのは、戴冠式の翌日の事であった。
マリク達捕虜の処遇は、王都で謀反が収まってから数日経過した今もなお、保留のままである。食事は十分に与えられたし、見張り付きであれば砦内の散歩を許される等、行動にはかなりの自由が与えられていた。だが、明確な処分は未だ下されずにいた。
王都から彼らの処分を伝えに来たのは、何と、マリク達同様大公側に与していたヴィクトリアであった。予想外だった、とマリクが率直な感想を述べると、ヴィクトリアは涼しげな口元に自嘲的な笑みを浮かべながら、騎士団関係者の大半が寛大な処分で済んだ、と答えた。マリクはすぐに、彼女が教え子に敗れたことを察した。
「……騎士団は大幅に再編されるそうよ。つまり、今年の騎士学校からは、卒業者が出ないという事。最も、今年は一人しか通りそうになかったけれども」
その一人についてヴィクトリアが触れないという事は、彼は無事なのだろう。マリクは安堵した。
「親衛隊は解体されて、私は騎士学校の一教官に戻る事になったわ。貴方は……きっと、学校には戻らないんでしょうね」
「ああ……」
「……そう、仕方ないわね……」
ヴィクトリアの瞳が眼鏡の奥で寂しげに伏せられたのを、マリクは敢えて見なかった振りをした。
「……アスベルには感謝せんとな。俺たちの処分がこの程度で済んだのは、きっと、あいつのお蔭だろう」
「ええ、きっとそうね」
「アスベルは今どうしている? 故郷に帰ったのか」
マリクがそう問いかけると、ヴィクトリアは首を横に振った。
「やっぱり、貴方の耳には届いていなかったのね……アスベルは、騎士に任命されたわ」
戴冠式が恙なく終えられた日の夜、アスベルは親友であり主である青年の部屋へと呼びつけられた。
部屋の主は寝衣の上にガウンを着た姿でアスベルを出迎えた。その寛いだ格好を見たアスベルは、彼が国王として臣下の自分を呼んだ訳ではないとすぐに察した。
「夜分にすまないね、もう休むところだったかな」
「いや……大丈夫だ、気にしないでくれ」
実を言うと、すぐさま寝床に入るつもりでいた。一人で物思いに耽るのは苦しいのだ。けれど、眠ったところで苦痛の内訳が変わるだけに過ぎない。
「……お前が俺に用事があるのなら、いつだって呼んでくれて構わないからな」
アスベルのその言葉に、リチャードは一瞬目を丸くした。
薄暗い部屋の中、ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りの向こうでリチャードの表情が柔らかく微笑みを作った。
「……僕から離れるのは嫌かい?」
「……嫌だ……」
それは、アスベルにとって切実な訴えだった。
リチャードから一瞬たりとも離れたくない。彼から目を離す事がたまらなく怖い。彼から目を離してしまったら、彼を失ってしまうのではないか。そんな不安が、アスベルの中で渦巻いて消えない。
しかし、リチャードがこんな質問をするという事は、やはり、自分は彼から離れざるを得なくなったのだろう。そんな予感はしていた。それがおそらく今日、リチャードが国王に即位した日に宣告されるという事も。
「アスベル、もう一度訊こう。僕の傍から離れるのは嫌かい?」
「……嫌だ……が……」
「が?」
「……俺には……もう、お前の傍にいる資格が……ない……」
あの日、セルディク大公を手にかけたあの瞬間からアスベルは、リチャードの傍にいる資格を全て失った。
友としても騎士としてもあるまじき事をして、しかもその始末を当のリチャードにさせた。彼があの事でデール公とどのような相談をつけたか、アスベルはデールから聞き知っている。
アスベルが大公を殺したという事実は、対外には秘せられていた。逆賊とはいえ王族を手にかけたとなれば、今回の戦でのアスベルの活躍を疎んじる諸侯が、そこに付け込んでアスベルを糾弾しかねない。リチャードは彼らからアスベルを守る為に、自ら叔父殺しの罪を被ったのだ。それは同時にリチャードが、臣下や国民に対して虚言を触れたという事でもあった。
栄光あるウィンドルの玉座と、それを約束された者。その二つを、アスベルは二つの罪で汚したのだ。
……どうすればいい? リチャードまで失ってしまったら、アスベルにはもう寄す処がない。騎士学校には戻れない。だからといってシェリアとは一緒にいられない。あの日から、彼女がアスベルを見る目はどこか変わってしまった。友の叔父を殺した男。敗れた敵に剣を突き立てた騎士。恐怖をひた隠しにして彼女はアスベルを見る。あの視線に、アスベルはとても耐えられそうにない。
「アスベル……顔色が良くないよ。それにほら、こんなに震えている」
リチャードに取られた右手には殆ど感覚がなく、指先が冷たく強張っている。
いつもの手袋越しでなく、素手でリチャードに手を握られ、アスベルは咄嗟に手を引こうとした。彼の手に、自分の汚れた手で触れる事が躊躇われたのだ。しかし、アスベルのその手は、リチャードによって頑なに握られた。
何故、こんな事になってしまったのだろう。リチャードが必要としていた剣は、こんなものではない筈だ。彼を守り、彼の為に戦う剣でありたかったのに。
「だ、駄目だ」
「どうして」
「俺には、お前に慰めてもらう資格なんてないんだ」
「……アスベル、君があの事で自分を責める必要はないんだよ。あれは、僕の為にした事なんだろう? だから、君が自分を責める必要はない」
「……違う……違うんだ、リチャード。あれは……お前の為じゃない。俺が、俺の為にした事なんだ」
殊更に優しく自分の手を取ってくれる親友に対し、嘘をつく事など出来ず、アスベルはくずれ落ちるように彼の前に膝をついた。
「……お前を失いたくなかった。あの時、ずっと怖かったんだ。お前に叔父殺しなんてさせたくなかった。そんな事になったら、お前が、俺の手の届かない所に行ってしまう気がして……そう考えると、何もかも解らなくなって、気が付くと……」
大公を殺したい程憎んでいた訳でも、騎士の本分や道理を忘れていた訳でもない。けれどあの時、アスベルは親友を失う恐怖に負けて、己の為だけに人を殺してしまったのだ。
「今日の君は、式典の最中もどこか心細い様子だったね……もしや、僕が王位に就いたら、僕の傍にはいられなくなると思っていた?」
「違うのか……?」
「違うよ。君は僕の騎士だ。これからも、そうである事は変わりない」
そう言って、リチャードは微笑みながら首を横に振り、アスベルに手を差し伸べる、が、アスベルはその手を取りかねた。
「デールと相談して、遅くとも今週の内に、君の正式な叙任式典を行う事になった。君も、それで構わないだろう?」
「……だが、デール公は……」
アスベルは困惑した。あの厳格で忠心に富んだデール公が、今回アスベルがしでかした不始末を、容易に許すとは思えない。アスベルはリチャードの名誉に傷を付けた。大義の為とはいえ、これからリチャードはウィンドルの歴史において、叔父を殺して冠を受けた王として名を残す事になってしまったのだ。しかしリチャードは、
「デールは納得してくれたよ。君は、僕の護衛に就くのがいいだろうとね」
と言うと、次の通りに語った。
現状、親衛隊が再編される予定はない。騎士団は王国に不可欠な組織であるが、一度でも逆臣に従った彼らには、やはりそれなりの処断が下る必要がある。騎士団はしばらくの間、新しい国王からの信頼を回復する為に、最大限の努力を要する事になるだろう――。
「デールは、君の忠節が固い事をよく理解してくれている。君がとても必死になって僕を守ろうとしてくれた事や、僕にとって、君が必要な存在であるという事も。ただ……君が僕の護衛に就くという事は、本来その立場に在るべき騎士団の面目を潰す事になる。騎士団の中に君の存在を快く思わない者が出てくるだろうし、諸侯もきっと嘴を入れてくるだろう」
「そんな事は構わない! 俺は、お前が俺を必要としてくれるのなら……あ、いや、しかしお前に迷惑は……」
「そんな風には思っていないよ。アスベル。僕が君を望んだんだ」
友の叔父を殺したばかりか、その罪を友に被せた。そんな汚れた剣だと知ってなお、自分を必要としてくれるというのか。アスベルは目の前のリチャードに縋り付き、彼に深く感謝した。
「アスベル……泣いているのか?」
「すまない、けれど……お前がこんな俺を必要としてくれるのが、嬉しくて……」
「僕も嬉しいよ。君が僕の傍にいる為に、自分自身の手まで汚した事が」
その言葉がどこか間違っていると感じながらも、アスベルは何も言えなかった。そもそも、間違っているのはアスベルの方だ。リチャードが間違っているとすれば、それは彼がアスベルを選んだ事だろう。そう薄々と感じていながらも、今のアスベルは、リチャードの手を取らずにはいられない。
「僕の傍から離れるのは、そんなに辛いかい?」
「ああ……お前から離れたら、生きていけないような気がする」
「そうか……じゃあ、ずっと僕の傍に置いてあげるよ。その代わり、ずっと僕を守ってくれるのだろうね」
リチャードは何て優しいのだろう。こんな自分を、ずっと傍に置いてくれるだなんて。
ああ、でも……どうして彼から離れる事が出来ないのだったか?
アスベルはその疑問について考える事をやめた。
リチャードが自分を必要としてくれる。彼の為ならどんな事でもする。
……それでいいではないか。
夜も更け、机のランプのみを灯した薄暗い執務室にて、ヒューバートは机に向かっていた。
夜なべするから、という理由を付けて部下や屋敷を使用人を追い払い、室内にあるのは彼の姿だけ。机の片隅にはフレデリックが淹れていった紅茶のカップが載っており、ヒューバートはそれを手に取って啜り、飲みつくした。とうに冷めた紅茶は香りもなく苦いだけだ。部屋の中に、空になったカップとソーサーがチンとぶつかる音が響いた。
机の上に広げられた報告書を手に取る。薄暗い中でも読むのに苦労はしない。既に何度も読み返したものだからだ。その中で、ヒューバートの目を引く事項はひとつ。
――アスベル・ラントが騎士に叙任された。
ヒューバートの口から、知らず知らずのうちに冷ややかな失笑が漏れた。
本当に……兄は、昔から口だけは威勢が良かった。少しの間だけ? 必ず戻る? 全て出任せだったではないか!!
嫌な事は全て弟に押しつけて、自分は長年の夢を叶えて、その結果がこれだ。踏み台にしてやったつもりが、またしても兄に踏み台にされたというのか。
ヒューバートは机の引き出しを開き、そこから手紙を取り出した。この部屋で兄と相争った時、彼がヒューバートに見せた手紙であった。
……整った字。当たり障りのない、どこか要点の掴めない文章。
ヒューバートは思わずその手紙を握りしめ、その手で机を殴りつけた。
……こんな手紙の為に、兄は故郷を捨てたのだ。弟である自分の手紙には、返事一つくれなかったというのに。
返事を書かなかった事を詫びる気配もなく、それでいて恬然とヒューバートの事を弟だと言ってのけた兄。この七年間のヒューバートの痛みなど知った事ではないと言わんばかりのあの態度を思い出すと、押さえきれない怒りがふつふつと湧き起こる。
見知らぬ土地、見知らぬ文化、見知らぬ人間。寂しさと恐れに苛まれる日々の中で、幼かったヒューバートは兄の手を求めた。両親が自分を捨てたとしても、兄だけは自分を変わらず弟と想い続けていてくれると信じて、手紙を何度も書いた。
けれど、その手紙に返事が来る事は一度としてなかった。
新しい生活を受け入れられず泣きじゃくるヒューバートに、養父は淡々と諭した。『泣いてばかりいないで、亡くなった友人の為にも、立派な大人になる努力をしてはどうか』と。
あの権力志向の強い養父が、どのような思惑でヒューバートにそう言ったのかは定かではない。だが、幼いヒューバートは友人の死を引き合いに出されてしまうと、彼女に対して後ろめたい気持ちが湧き、それ以上我が儘を言えなくなってしまった。
だが、やはり理不尽だと思った。何故自分がそんな風に我慢しなくてはいけないのか、ヒューバートにはどうしても納得がいかなかった。
だって、あれは、彼女が死んだのは、兄のせいなのだ。
兄が夜中に城探検など言い出さなければ、魔物に襲われたりしなかった。
彼女が死ななければ、ヒューバートが罪悪感に囚われる事もなかったのだ。
けれども、こうなったのは彼女のせいではない――父のせいだ。
貴方がぼくを騙したからこうなった。
貴方が彼をここに連れてきたから、あの人は彼の元へ行ってしまった。
全部、全部、貴方のせいだ。
なのに……貴方はもうこの世にはいない。
あの人もここにはいない。あの人はきっと遠く離れた場所で、ぼくの事など思い出しもしないのだろう。
そうやって、嫌な事はいつだって、ぼくに押しつけられる。
ヒューバートはランプの上に、兄の手紙をかざした。W石の熱に反応し、程なくして手紙に火が付く。その手紙をカップの上に置き、ちりちりと手紙が燃え上がり塵と化して落ちていく様を、冷たく眺めやった。
これが、ヒューバート達のあるべき姿なのだろう。幼い頃の思い出など、ここへ行き着く為の通過点に過ぎない。そう考えれば、全て受け入れられる。
戻る
前へ
次へ
セクエンツィア(14)