装置はすぐに壊れ、ソフィの幻はかき消えた。だがリチャードの目には、その幻がくっきりと焼き付いていた。
「……今のは……ソフィだったね、どう見ても…………アスベル?」
アスベルの返事は無い。余程驚いたのだろう、アスベルはソフィの幻が映っていた虚空の方を見上げたまま、凝然として動かない。
アスベルの同意は返って来なかったが、リチャードから見て、あれは確かにソフィだった。容貌、体格、服装まで、一切がリチャードの記憶にあるソフィのそれと瓜二つだった。七年前のソフィは記憶喪失だったと聞いているが、ひょっとしてこの遺跡は、ソフィの前身に関係しているのだろうか。
「……あー、駄目か。もう無理っぽいね」
「壊れたのか……!?」
ようやくアスベルが我に返った様だったが、その顔色はひどく青ざめていた。パスカルもその顔色に一瞬怯む。
「え、うん。まあかなり古いものだし、いつ壊れてもおかしくなかったからね」
「……そうか……」
アスベルは肩を落としたが、その肩をリチャードがそっと叩くと、顔を上げてこちらを見た。その青い目の中にリチャードが見たのは、後悔の念だった。
ああ、やはりそうだったのか。彼が七年前のあの事件の直後に騎士学校に飛び込んだのは、ソフィが死んだからだったのか。
七年前、リチャードの耳にソフィの死の報せが届いたのは、事件から幾らか日にちが経ってからの事だった。あの夜の出来事を、リチャードは全く覚えていなかったからだ。夜中にアスベル達と会う為に王都地下へ向かった事までは覚えているのだが、そこから先の記憶はリチャードにはさっぱり無かった。いつの間にか城の自室で朝を迎えていた事にも驚いたし、何より地下でアスベル達が魔物に襲われたという報せを聞かされた時には、あまりの驚きに血の気がひいた。それからすぐ後にアスベルの父から、事件の現場にリチャードがいたのではないか……という事を尋ねられた。リチャードがソフィの死を知ったのは、その時だった。
悲しかった。一週間も経たない間に、人生で初めての『親友』の一人との再会が叶わなくなったのだ。
それでいてリチャードの心のどこかには、それを予感していた部分があった。あの友情の誓いを立てた一夜は、リチャードにとって、燦然と輝く夢のような出来事だった。だからソフィの死を知らされた時、心地良い夢から冷たい現実に引き戻されたように思えて、意外とあっさり諦めが付いたのだ。
けれども、アスベルにとっては違ったのだろう。彼はソフィと最後まで行動を共にしていた。リチャードは事の子細までは聞き及んでいないが、おそらくソフィはアスベルの為に死んでしまったのだろう。そしてその出来事が、アスベルの心に影を落としたというのは有り得る事だった。
「……七年前」
アスベルがぽつりぽつりと話し始めた。
「……ソフィと二人で王都に行った時……船の上でソフィに言ったんだ。いつか旅に行こうか、って。ヒューバートもシェリアもお前も連れて、みんなで一緒に、ソフィの記憶を取り戻す旅をしようって」
アスベルは再び顔を上げて、ソフィらしき幻が映っていた場所を見つめた。
「……あいつをここに連れてきてやりたかった。親父の前で、『俺が最後まで面倒看る』って宣言したのにな……」
「……アスベル、そんなに自分を責めてはいけない。ソフィは君の事が好きだったよ。彼女はきっと、君に笑顔でいてほしかった筈だ」
昔のリチャードは、アスベルと共にいる事がどこか後ろめたかった。自分の抱える問題に、彼を巻き込みたくなかったからだ。アスベルを遠ざける事で彼を傷つけてしまうと理解していながら敢えてそうしたのは、結局、彼を守る自信が無かったのだと思う。
ソフィはリチャードとは逆だった。彼女はアスベルの傍にいて、彼を自分の手で守ろうとしていた。その結果がこうして現在アスベルを苦しめているという事を考えると、彼女の自己犠牲は決して正しくはなかったのかもしれない。けれども、彼女がそこまでしてアスベルを守ろうとした気持ちは、リチャードにも理解出来た。
「パスカルさん」
「ん、何?」
黙って二人の様子を傍観していたパスカルに、リチャードは質問を投げかけた。
「この遺跡にあるという事は、この装置もアンマルチア族が作ったものなのだろうか?」
「多分ね。でもはっきりした事は分かんないや。かろうじてここに『ラムダ』って単語が書かれているのが読み取れるくらいで。そのラムダってのも、何なのか分かんないし」
パスカルは装置の操作に使うと思われる板を指さしてそう言うと、てくてくと二人に歩み寄ってきた。
「アスベル、大丈夫?」
「……ああ、心配かけてすまない」
「そっか……ね、さっきの子、アスベルの知り合いなの?」
「……ああ……大切な、親友だった。もうずっと前に、この世からいなくなってしまったが……」
「ああ、そっか……ごめんね、嫌な事思い出させちゃったかな」
「いや……いい」
アスベルは首を横に振った。
パスカルはまだ何か言いたげだったが、何やらうんうん唸って独り合点した後、景気よく杖を振り上げた。
「それじゃあ……そろそろ行こうか!」
三人は地下遺跡を通り、無事にウォールブリッジの南まで抜ける事が出来た。付近に大公の追っ手の姿がない事をリチャード達が確認していると、その様子を不思議そうに見ていたパスカルが口を開いた。
「そういや、二人の行き先ってどこ?」
……リチャードはアスベルと視線を交わし合った。ここまで来れば、もうグレルサイドは目と鼻の先だ。彼女の行き先もおそらくそちらであろう。となれば、もう敢えて目的地を隠す必要もないのではないか。
「……グレルサイドだよ」
「グレルサイドか。あたしも一緒に行こうかな〜。どっちみち王都から船が出ないんじゃ、何処へ行くにしてもグレルサイドを通んないといけないし」
リチャードがもう一度アスベルを見る。ここまで来てパスカルの同行を拒むのは却って不自然だから、彼女とはグレルサイドで別れるのが良いだろう。 そう視線で伝え合う。
パスカルはそんな二人の警戒心には全く気づいていない様子で、
「にしても、お腹減ったねえ。なんか食べるものあったかなあ?」
等と言いながら、服のあちこちにあるポケットを探り始めた。そうして彼女がどこからか取り出したのは、食べ物などではなく、どう見てもパナシーアボトルだった。
パスカルは自分で所持していた筈のそれをしばし凝視していたが、目を大きく見張って、
「ん……おおっ? お〜、まだあったかぁ」
と、歓声を上げた。
それから彼女はアスベルに大股で歩み寄り、彼の手を取ってパナシーアボトルをがしっと握らせた。
「はい、これ。アスベル、具合悪いんでしょ? 飲みなよ」
リチャードは弾かれたように顔を上げてアスベルを見た。アスベルの色然とした表情を見て、彼自身、体調の不良を自覚していたのだという事が知れた。
「ごめんごめ〜ん。全部使い切ったと思っててさ」
「いや、俺は、別にどこも悪くは……」
「え〜、そうかなあ。熱でもあるんじゃないかと思うんだけど……」
パスカルは無遠慮にアスベルの額に手を当てた。アスベルが思わず後ろに身じろぐ。
「あ〜、やっぱりね。アスベル熱あるよ。風邪かな。喉とか大丈夫?」
「喉は……大丈夫だ」
「そっか。とりあえず、それ飲んどきなよ。少しは効くかも。ええと、他になんか効きそうな物持ってたかな……」
そう言うと、パスカルは再び自分のポケットをごそごそと探り始めた。
……リチャードの胸の奥で、例の苦しさが湧き上がる。今は駄目だ。そう思って堪えようとすればする程に苦痛は増していく。咄嗟に口を押さえたリチャードだったが、指の隙間から漏れた僅かな呻き声を、アスベルは敏感に聞き取った。
「リチャード、大丈夫か! また苦しいのか!?」
アスベルの顔色の変えようは尋常でなかったが、自身の事をそっちのけでこちらを気遣ってくる彼を、リチャードは左手を突き出して拒絶した。
「……僕の事は放っておいてくれ……!」
そう言った瞬間、リチャードは自分でもひどい事を言ってしまったと自覚した。しかし今は、アスベルが気遣ってくれればくれる程、胸の苦痛が増していくような気がしていた。
立ち尽くすアスベルの顔を直視出来ない。彼にどんな顔をしたらいいのか分からない。
アスベルの具合が悪いだなどと、全く気づかなかった。何故言ってくれなかった? 言ってほしかった。しかし思い返してみれば、アスベルはリチャードと再会した時からずっと様子がおかしかった。
再会した時からずっとアスベルに気を遣わせていたのかと思うと、リチャードの胸中の苦しさは増す一方だった。
パスカルの提案により、リチャードの体調が落ち着くまで三人は休憩する事になった。街道から少し離れた草の上に輪になって座る。リチャードとアスベルは向かい合って腰を下ろしていたが、互いにずっと押し黙っていた。
パスカルはそんな二人の間に座って、悠々と杖の手入れをしていた。何度か杖を肩に担いでは、内部に仕込んだ銃の調子を看ている。彼女は最初こそリチャードとアスベルの険悪な雰囲気を取り持とうとしていたが、容易にいかないと判断したのか、やがて口を噤んで傍観に徹し始めた。
リチャードは、アスベルの気遣いを無下にした事を謝罪したかった。だが、心からそう思っている一方で、アスベルのそういう気遣いに騙されたような気もしていた。そんな自分が自分で嫌になる。リチャードだって、アスベルの事は言えない筈なのだ。ずっと彼に、叔父との問題を隠していたのだから。
「……すまなかった」
そんなアスベルの声が聞こえてきたような気がして、リチャードは顔を上げた。アスベルと顔を突き合わせる事に一瞬気が引けたが、相手の悄気込んだ表情が視界に入った瞬間、やはりアスベルは大切な友達なのだと強く感じた。だから、この状況のままではいけない。
「……僕の方こそ悪かった。君の好意に対して、あるまじき態度を取ってしまった。アスベル、本当にすまない」
「いや、元はと言えば、俺が自己管理を怠ったのが悪かったんだ」
「それを言うなら、僕の方だって、君の親切につい頼ってしまった」
「それは俺が自分でそうしたかったんだ。お前は少しも悪くない、悪いのは俺の方だ」
「違う。非があるのは僕の方だよ」
「そんな事はない、お前は……」
「ね〜!」
アスベルが何か言おうとしたのを、パスカルが遮った。見ればまた、随分と不満げな表情をしている。
「お腹減ったよ〜、早くグレルサイド行こうよ〜」
「いや、でも、ええと……」
アスベルが困惑した表情でリチャードを見た。その視線の意味を、リチャードはすぐに察する事が出来た。
「僕の方は、もう大丈夫だ。アスベル、君の方は?」
アスベルがはっきりと頷く。顔色は前より晴れているようだった。
「少し頭痛がしてたんだが、治まってきたみたいだ。パスカルのお蔭だな……ありがとう」
「ああ、あれ大丈夫だった?」
「は? ……どういう意味だ?」
「あれ、言わなかったっけ。あれ、ちょっと古くなってたやつだって」
「……聞いてないぞ……」
「あ〜、言ってなかったか。ごめんね。まあ、変な味がしなかったんなら多分大丈夫でしょ」
アスベルは自分の腹に手を当てて、それから悪びれた様子で頭を掻くパスカルを見てから、はあと嘆息した。
……同情を禁じ得ない。
「それじゃあ改めて、グレルサイドへしゅっぱーつ! いや〜、もうお腹が減って減って死にそうだよ」
パスカルは勢いよく立ち上がると、杖でびしっとグレルサイドの方角を指し示した。彼女の言う通り、グレルサイドへ急いだ方が良さそうだ。色々な意味で。
「リチャード、無理はするなよ」
「ありがとう。でも、君もどうか無茶はしないでほしい……僕は、君にはやはり、臣下であるより親友であって欲しいんだ」
今の自分にはアスベルしかいないのだから……リチャードはそう言いたいのを、不安と共に堪えた。アスベルがここまで無茶をしたのは、自分がアスベルの好意に甘えて頼りきってしまったせいだと思ったからだ。
しかし、アスベルは首をふるふると横に振って、
「俺は、何があってもお前を守ると自分に誓ったんだ」
と言って聞かなかった。
……こうも意固地になられると、こちらが譲るしかないのかもしれない。そう思ったリチャードは妥協する事にして、とりあえず無茶はするなと念押ししようとしたのだが、二人の間にパスカルが割って入ってきた。
「な、なんだパスカル?」
「『臣下』? アスベルがリチャードの臣下って、どゆこと?」
リチャードは、はたとアスベルと顔を見合わせた。みるみるアスベルの表情に動揺が広がる。
「あ……いや、それはだな……」
「ああ、分かった! リチャード、実は王子様なんだ! そうでしょ?」
アスベルが誤魔化しに入る暇すらパスカルは与えてくれず、それどころか真実を言い当ててくれた。
……こうなっては仕方ない。リチャードは覚悟を決めて、首肯してみせた。
「やった〜、正解せいか〜い! 商品はなんだ〜?」
「リチャード!」
リチャードがパスカルに身分を明かした事にアスベルは驚いたが、リチャードは首をふるふると横に振る。
「アスベル、こうなったら隠しても仕方ないよ」
「それは、そうかもしれないが……」
「それに……ほら」
リチャードが指さした先には、くるくると喜びの舞を踊っているパスカルの姿。その気楽そうな様子を見ていると、自分やリチャードの危惧していた事が杞憂のように思えてきて、アスベルは呆れてしまった。
「でも、そっか〜。リチャード王子様なんだ。ひょっとして、アスベルも貴族とか?」
「まあ……一応、そうなるか……どうしてそう思ったんだ?」
「だって、袖がヒラヒラしてるじゃん」
どんな判断基準だ、それは。
「王都で反乱が起きたって聞いたけど、これから亡命でもするの?」
「いや、そこまでは。グレルサイドの領主に、助力を求めようと思っている」
「なるほど〜。でも、それなら早めに言ってくれれば良かったのに。そしたら、あたしももっと急いだよ?」
まさかパスカルの事を疑っていた等と言う訳にもいかず、アスベルは困り果てた。しかしパスカルは一体何をどう勘違いしたのか、
「まさか……あたし、足遅い!? そりゃ、アスベル達に比べれは身長低いけどさあ……」
等と言って、アスベルの隣に立って脚の長さを比べ始めた。
「あ〜、やっぱコンパス全然違うねえ。いいな〜背も脚も長いと。あたしももっと脚長かったら、ベッドに潜ったまま着替え取れるのに」
「は? ちょっと待て。パスカル、一体どういう生活送ってるんだ?」
「どうって、普通に起きて、ご飯食べて、色々やってからまたご飯食べて、そんでもって色々やって、ご飯食べて、寝る生活だけど?」
「いや、そういう意味じゃないんだが」
あと、その生活習慣には何か足りないような気がするのはアスベルの気のせいか。
そんな事を二人が話していると、リチャードが笑いながら二人の前に立ってこう言った。
「それじゃあ、そろそろ行こうか。きちんと食事をしないと、パスカルさんの身長も伸び悩むだろうしね」
再会してからあまり見ていなかったリチャードの笑顔を目にして、アスベルは純粋な喜びを感じた。ラントを追い出された時の自分に笑う気力なんて無かった事を思い出すと、今こうして親友が笑っているという事が、とても嬉しく思えた。
アスベル達がグレルサイドへ向かう道中には、畑仕事に精を出す近隣住民を除けば、人気は無かった。グレルサイド領に入った為、セルディク大公の追跡が止んだのだろう。デール公は国内最大の民兵隊を保持しているだけに、大公側も、公爵の出方を警戒している筈だ。
「ねえねえリチャード、グレルサイドってどんなとこ?」
「景観のとても良い、美しい土地だよ。領主のデール公は王家の遠縁に当たる人物で、僕の父の命を救った事もある功臣なんだ。彼ならきっと、誰よりも僕の力になってくれると思う」
リチャードのその発言を聞いた瞬間、アスベルの心にぐさりと暗い影が突き刺さった。
「……誰よりも、か……そうだな……」
「……アスベル? どうしたんだい」
「いや……何でもない。先を急ごう」
アスベルは思わずリチャードから顔を背けたくなって、二人より少し前に出て距離を空けた状態で歩き続けた。
リチャード自身にその気は無いのだろうが、間接的に頼りないと言われてしまった様な気がして、アスベルは落ち込んでしまった。頼りないというのは強ち間違いでないと自分で知っているから、一層落ち込んでしまうのだ。
リチャードとパスカルが背後で訝しんでいる様だったが、何でもない振りをしたくて、アスベルはそのまますたすたと先行し続ける。
「どうしたんだろ、アスベル。ほんとにお腹やばくなっちゃったのかな」
「ええと……どうだろう」
「……ん? あ〜、分かった! 駄目だよリチャード。さっきみたいな言い方したら、まるでアスベルが役立たずみたいじゃん。それできっと、アスベル拗ねちゃったんだよ」
アスベルは内心悲鳴を上げた。パスカルにしてみれば全く悪気はなく、彼女なりに気を回したつもりなのだろう。だが、アスベルにもアスベルなりのプライドや体面というものがある。こちらの心境を察したとしても、それを堂々とリチャードの前で口に出してもらいたくはなかった。あと、正直『役立たず』とまで言われるのは辛い。
「アスベル」
リチャードが駆け寄って顔を覗き込んできたので、アスベルは何でもないような振りを取り繕って、顔を上げた。けれどもアスベルの顔を覗き込んだリチャードの表情は曇っていた。アスベル自身もまた、上手く取り繕えなかったなという自覚があったので、すぐに親友から目を背けた。
「いや、その……大丈夫だ。気にしてない」
そう言った直後にアスベルは後悔した。これでは、気にしていると言っているようなものではないか。
「アスベル……」
「本当に大丈夫なんだ。お前が気に病む必要なんてないからな」
「……すまない……」
こんな風にリチャードに気を遣わせてしまう事が、アスベルは辛かった。自分が頼りないのは本当の事だが、本当にリチャードに当てにしてもらえなくなったらという想像に、アスベルは恐怖を覚えていた。
戻る
前へ
次へ
セクエンツィア(8)