「リチャード……寒くはないか」
「大丈夫だよ」
リチャードは焚き火越しにアスベルにそう返した。強がりではなく、本当にリチャードは寒いとは感じていない。それに昼間は悪かった気分の方も、今は十分調子が良かった。
小屋にいたかめにんから商品購入のついでに引き出した情報によると、リチャード達が向かうウォールブリッジは、現在警備が厳重になっているという。怪しげな旅人――この場合はリチャード達の事だが――は、即座に捕まって取り調べられるだろうという話だった。
そこで日も傾いてきていた事もあり、二人は今日中にウォールブリッジを通過する事を諦め、道中で野宿をする事にしたのだった。
リチャードは全く平気なのだが、アスベルの方がむしろ寒そうだった。彼の身体がぶるりと震えるのをリチャードは見逃さなかった。
「寒いのなら、僕のマントを貸そうか?」
「い、いやいい。お前、昼間はあんまり体調良くなさそうだったろう。野宿だって慣れてないだろうし……」
「一応、した事はあるよ。ラントに手紙を置きに行った時や……他にも、何度か」
「本当か!? 危ない事をしたな……」
「誰かさんの影響かもしれないね」
それはひょっとして俺の事か、とアスベルが言う。その口調が子供っぽくて、リチャードは笑ってしまった。
こんな風にまた彼と会える日が来たのが、リチャードにとってはまるで夢の様だった。
あの暗い王都の地下で独り蹲っていた時、父を亡くし、肉親にも臣下にも裏切られた中でアスベルの事を考えた。彼だけは自分の中から失われていない、彼の事だけは信じていられると思いたかった。
アスベルに会いたい、助けてほしい。そう思っていると本当にアスベルが現れて、そして助けてくれた。それがリチャードにとっては、言葉に尽くせない程嬉しい事だった。
アスベルは殆ど昔と変わっていなかった。あのラントの小さい暴君が、そのまま青年になったような印象だった。ただし、それは外見だけらしい。性根の真っ直ぐなところは変わりないのだが、いやに自分に尽くそうとするように思う。世話焼き……というのとも違うような気がするのだが、騎士学校に入ったせいで、アスベルの中で色々と価値観の変化があったのだろうか。リチャードとしてはアスベルには、自分の前では騎士である以前に親友でいてほしいのだが。
ただ、それとは全く別に、アスベルの献身的な行為を嬉しいと思う気持ちもリチャードの中には存在した。今のリチャードはアスベルに何も約束出来ない。故郷を追われた彼に対して、してやれる事が何もない。それでもなお、アスベルはリチャードを守りたいと言ってくれたのだ。
今のリチャードは、ここしばらく無かった程に気分が良かった。アスベルと共にいると体調がいいように思う。あのリチャードをしばしば襲う胸の苦しさは、王宮の侍医でもお手上げだったというのに、これも気の持ちようという事だろうか。……最も、侍医に関しては、叔父の息がかかっていた可能性を否定出来ないが。
「……リチャード、その……」
「何だい?」
「まだお前に話していなかった事があるんだ。どう説明したらいいのか解らなくて……ラントの事なんだが」
アスベルは何やら言いにくそうな様子だった。
「実は……進駐軍の総督は、ヒューバートなんだ」
「ヒューバートというと、まさか、君の弟の?」
アスベルは頷いた。
「それで、か……なるほど、納得したよ」
「何がだ?」
「君がラントを追い出された事について、怒っているような様子を見せないのが気に掛かっていたんだ」
リチャードとしては、アスベルは憤慨してもいいと思う。進駐軍の総督がヒューバートだという事は、アスベルは実弟に謀られて故郷を追われたという事になるのだから。
けれども、アスベルは怒るよりも、弟によって故郷を追い出された事に傷ついているようであった。そんな彼にかける言葉を、リチャードは持っていない。リチャードが出来るのは、血縁という繋がりの持つ正負の面について述べるくらいだ。しかしきっと今のアスベルは、そんな話など聞きたくないだろう。
ヒューバートの事を諦めろ、とは言えない。小さい頃のアスベルは弟と本当に仲が良かったからだ、リチャードが羨む程に。そして今でも、やはりヒューバートの事を羨まずにはいられない。片親だけでも生きていて、兄にこんなにも想ってもらえるだなんて。
「ヒューバートの事……本当に、すまない」
「アスベル。君は僕の話を聞いて、自分の弟が今回の反乱に関与しているのではないかと疑っていたんだね?」
「……ああ。あいつがこんな事に荷担しているなんて、思いたくはないんだが……」
アスベルとしては弟を信じたいのだろう。だが、今回の同盟締結は、リチャードがそうであったように、ストラタ側の人間にも違和感を伴って聞こえた報せの筈だ。その同盟の証として差し出されたラントを委されたヒューバートが、今回の同盟の内情を知らなかったという事があるだろうか。よしんば知らなかったとしても、必ず疑問に思う筈だ。それでも彼は、自分の生まれ故郷を占領したのだ。
間接的にヒューバートにまで裏切られたのかと思うと、リチャードの心に暗い感情が湧いた。しかしアスベルの手前、表情には出さないように努めた。
その時、突然例の胸の苦しみが襲ってきて、リチャードは胸を押さえて呻いた。アスベルが血相を変えて腰を浮かしたが、それを手で制する。
「……大丈夫だ……」
アスベルが傍にいて心配してくれる。彼の心配そうな様子を見ると、だんだん胸の苦しみも引いていった。不思議な話だと思うが、何となく得心もいく。
……今のリチャードにはアスベルしかいない。アスベルだけが自分の傍にいて、自分を理解してくれるのだから。それは論理的な説明ではなかったが、リチャードにとっては納得のいく理由だったのだ。
かめにんからの情報通り、ウォールブリッジの警備は厳重だった。橋は完全に上げられ、通行を禁止している。セルディク大公の手が回っている事は一目瞭然だ。
アスベル達は橋の手前で足止めを食らってしまったが、岩陰に隠れて立ち往生している余裕もなかった。しかしながら、取り立てて妙案も浮かばない。アスベルとリチャードの二人だけでウォールブリッジを通過するのはかなり難しいだろう。グレルサイドへ行くのならラント領近くの旧街道を通るという経路もあったが、その為には王都を経由しなくてはいけない。敵方の懐に舞い戻るのは危険過ぎる。
「ここでぐずぐずしている訳にもいかないしな……」
「グレイル湖を泳いで渡る、なんてどうだろう?」
「……本気か?」
「割と。ただ、あんなに長い距離を泳いだ事はないから、自信はないけれども」
「どっちかっていうと、人に見つからないかって方が俺は心配なんだが……見つかったら、湖のど真ん中じゃ逃げ場がないぞ」
「それもそうだね」
その時、ウォールブリッジの北門の橋が降ろされ始めた。それに合わせて哨兵達が周囲を警戒し始めた為、アスベルとリチャードは彼らに見つからないよう、より街道から外れた場所に身を潜めた。
橋を通ってやって来たのは商人の荷馬車だった。流石に物流を停滞させる事までは出来ないのだろう。一時的に橋は降りたが、やはり二人で押し通るには無理がある。南門の橋が降りていなければ通れないし、北門の橋まで上げられてしまったら、ウォールブリッジに閉じ込められてしまうからだ。
今の商人のように王都から来てウォールブリッジを通ろうとする荷馬車を掴まえて、積荷に紛れ込ませてもらうという案も出た。しかし事が露見した時に市民を巻き込む可能性がある点、大公側に既に見透かされていそうな手法である点、馬車が来るのを待つ余裕がない点などの理由から却下する事になった。
採用順では最下位だが、一応リチャードの案を考慮して、グレイル湖の警備がどうなっているか確認しに行くべきかもしれない……アスベルがそう思っていると、リチャードがアスベルの肩をつついた。
「アスベル」
「何だ?」
リチャードは黙って背後の方に視線を向けていた。何だろう。アスベルがそちらの方角に目をやると……二人の背後にあった木の根元で、一人の女性が眠りこけていた。
女性の身なりを一目見て、そこら辺りの町人でない事は見て取れた。小柄な体躯の女性で、髪はおおよそ白いが毛先が赤くなっているという、とても変わった毛色をしていた。可憐な顔立ちをしているのだが、今の寝姿がその愛らしさをぶち壊しにしていた。おそらく最初は木の根元に寄りかかって眠っていたのだろうが、今はずるずると身体が前に移動し、後頭部がかろうじて木の幹に触れているような体勢だ。しかも服がめくれて腹が見えているという、みっともない有様である。そんな状態で高鼾をかいている姿には、はっきり言って言葉も出ない。
「……魔物じゃないよな?」
「君の言いたい事は何となく解るけれど、一応、この人は人間の女性だと思うよ」
「俺の知ってる女性となんか違うんだが……」
「僕もそれには同意見だけれど、現実ってこういうものじゃないかな」
相手が寝ているのをいい事に、言いたい放題の二人であった。
さて、どうしたものかとアスベルは思った。先程のアスベル達の会話をこの女性に聞かれていたとしたら、少々厄介な事になるかもしれない。念の為、アスベルは女性にそっと近づいていって顔を覗き込み、本当にこの女性が眠っているのかどうかを確認してみた……おそらく、狸寝入りではないと思われる。
しかしこうなると、ますますアスベル達はこの場所に留まっている訳にはいかなくなった。この場では、ろくに話し合いを続ける事も出来ない。どうしたものかと二人はお互いに視線を交わし合っていたのだが、
「ああーーっ!!」
と、いきなり女性が大声を上げて起き上がった。全く予想外の出来事だった為、アスベルもリチャードも驚いてびくっと身体を震わせる。それから、アスベルは慌ててウォールブリッジの方に目をやった。とりあえず、警備の兵士たちが今の声を聞きつけてやってくる様子はなく、ほっと胸をなで下ろす。
で、大声を上げてアスベル達を吃驚させた張本人はというと、今度はいきなりべそをかき始めた。
「ひどいよ、お姉ちゃん……」
……何が何だかさっぱり解らない。
「ええと……その、よく解らないんだが、何かまずい事でもあったのか?」
一応、アスベルは女性にそう訊いてみた。
「あのね、それがね……バナナがあったから、やったーって思って食べようと思ったんだけど、皮剥いて食べようとしたら落としちゃって」
……やはり、何が何だかさっぱり解らない。
しかしアスベル達を置き去りにして、女性の話はそのまま続いていく。
「そんなに汚くなかったし、まあ軽く手で払えばいいかなーってあたしは思ったんだけど、うちのお姉ちゃんが『食べたら駄目!!』って言って、そのバナナ、ぽいって捨てちゃったんだよぉ……」
「いや、地面に落ちたバナナを食べるのは俺もどうかと思う……というか、それはひょっとして、夢の話じゃないか?」
「うん、そうだよ」
けろりとした顔で女性がそう答えたものだから、アスベルとリチャードは脱力しそうになった。
「……そこまで騒ぐ程の事か……しかも夢の話で……こっちがどれだけ驚いたと……」
「いやー、ごめんごめん」
女性は照れ笑いを浮かべて頭を掻き、そしてうーんと大きく背伸びをした。そしてアスベルとリチャードの顔を見ると、こう言った。
「えーと……どちら様?」
……質問するのが遅すぎないか。
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セクエンツィア(6)