セクエンツィア(5)
結果はアスベルの大敗だった。完膚無きまでに叩きのめされたと言って正しい。軍人として実戦慣れしたヒューバートの剣技は、その武器の特殊性も相まって俊敏かつ強力で、まだ経験の浅いアスベルの技量では太刀打ち出来なかった。
あっけなく勝利を手中に収めたヒューバートは、部下に命じてアスベルを東ラント道に放り出した。這う這うの体ではあったが、アスベルは立ち上がって歩き出した。身体のあちこちが痛んだが、いつまでも東門に蹲っているのは、我ながらとても惨めに思えてならなかった。
父を亡くして、幼馴染みとは遠ざかり、そして弟とは決裂した。それらを含めた大切なもの全てを守りたい、そう思っていたのに、守りたかった筈のものが自分の手から次々と溢れ落ちていく。何だかもう笑うしかなかったが、アスベルの口から零れた笑いはか細くひび割れていた。
街道を歩いていくと、いつの間にか小屋の前に辿り着いていた。この場所は特別な場所だった。七年前、ソフィがアスベルを守ると宣言した場所。その宣言通りに彼女はアスベルを守り、そして死んでしまった。あんな出来事を繰り返したくなかったから、大切なものを失いたくないから強くなろうと決めたのに……結局のところ、無力な子供の頃と何も変わっていなかったのだと思い知らされる。
追い打ちをかけるかのように急雨が訪れた。髪から滴る滴で睫毛が濡れて、アスベルの視界がぼんやりと滲む。
――行かなければ。
この手から沢山の思い出が溢れ落ちたが、それでもまだ、アスベルには残されているものがある。せめて今の自分に、それだけでも守り抜く力があるのなら。
……いや、何があってもそれだけは守ってみせる。絶対に。
「……アスベル・ラントだな?」
不意に名前を呼ばれて、アスベルは驚いて振り返った。
アスベルを呼び止めたのは二人の男だった。剣呑な口調に、一瞬、ヒューバートが自分に追っ手を差し向けてきたのかと思って落ち込みそうになった。そこまで自分は弟に憎まれているのか、と。
しかし振り返ってよく相手の姿を確認してみると、男たちはストラタの軍服ではなくウィンドルの甲冑を身につけている。ウィンドルの騎士と揉めた覚えはないのだが、相手の態度を捻くれた方向に解釈しすぎているのだろうか。アスベルは突然の出来事の混乱し、相手に返事をする事を忘れた。
「おい、貴様がアスベル・ラントだな? そうだろう」
いや、これはどう見ても相手の態度は敵対的だ。
それでも一応、アスベルは相手に対して礼儀を尽くす事にした。最低限の警戒をしながら顔を上げ、相手と向かい合う。
「確かに、自分はアスベル・ラントです」
「やはりな……我々と来て貰おう」
アスベルに拒否権はない、と言わんばかりの態度だった。もう一人の口を噤んでいる方の騎士は、アスベルが力づくで抵抗する事を考慮してか、腰の剣に手をかけている。
「……どういう事でしょうか?」
アスベルが質問しながら周囲に視線を走らせると、相手側は、
「貴様の質問など聞いてはいない。いいか、妙な事は考えるなよ。抵抗すれば、ただでは済まんぞ」
とまで言ってのける始末だ。これは、理由を尋ねても返答は得られそうに無い。
アスベルは彼らに素直に従うのを止め、相手を振り切って王都に向かう算段を立てながら剣を抜いた。


連絡港から出港時刻ぎりぎりの便に乗り、バロニアに向かうまでは問題なく進めた。
ただ、連絡港で何やら人々が騒がしかったのがアスベルは気に掛かっていた。船上でも乗客達が妙に噂し合っていたし、王都に到着してみれば何だか周囲の空気がおかしい。普段に比べて人通りが少ないし、警備の配置もいつもと異なっている気がする。
王都で何かあったのだ。アスベルはすぐにそう察し、急いで騎士学校に戻って情報を得ようと考えた。だが、港と王都中心部を繋ぐ階段のところで、小屋で遭遇した騎士達に追いつかれた。
再び返り討ちにする事はそれ程困難でなさそうだったが、騎士達の口から、アスベルにとって思いがけない言葉が飛び出した。リチャードが死んだというのである。
訳の解らない事を言いながら自分に詰め寄る男達の言葉など信じられず、アスベルは追っ手を再度振り切って聖堂へ急いだ。目指したのは、七年前通ったあの王都の地下道だった。
聖堂の扉は固く閉ざされていたが、アスベルはそれを体当たりで破った。いつもならこの辺りには見張りの兵士がいるのだが、今日は何故かいない。だが例え見張りがいたとしても、他人の目を気にせず同じ事をしただろう。そう言い切れる程、アスベルは気が動転していた。リチャードが死んだなど、到底信じられない。城に行って、どうにかして本人に会えば分かる。リチャードの事まで守れなかっただなどと、そんな事は絶対に認めたくなかった。
昔と変わらない薄暗い地下道を、アスベルは記憶を頼りに進んでいった。最初は地形に注意しながら足早に進んでいたのだが、行く先に誰かいる事に気づいてアスベルは立ち止まった。この地下道は封鎖されていて人に知られていない筈だが、一体何物だろう。魔物だろうか。
相手は地面にしゃがみ込んでいた。黒を基調とした服装をしており、明るい金色の髪が対比的に目につく。中央軍の騎士や兵士の格好とは全く異なっているし、一体誰だろうとアスベルは思ったが、はっと気づいた。もしかして、あれは。
「……お前、ひょっとして……リチャードか!?」
アスベルは相手に駆け寄り、肩に手をかけて問うた。
相手がのろのろと顔を上げた。切れ長の目と視線が合った瞬間、何か言葉に出来ない不自然さをアスベルは感じた。だがそれについてアスベルの方が考える間もないうちに、相手の青年はアスベルを見つめると、ふっと表情を和らげた。
「君は……アスベル? 本当に、君なのかい……?」
その言葉でアスベルは、己の目の前にいる青年がリチャードであると確信した。


昔の面影こそ殆ど残していなかったが、リチャードの態度は七年前と変わりなかった。それどころか相手の身分に遠慮してアスベルが畏まると、昔のように親友として接してほしいと頼んでくる程だった。その事がアスベルにとってどれ程嬉しい事だったか。リチャードにどれ程感謝してもし足りないくらいだった。
リチャードは何故かウィンドルの兵士に追われていたが、アスベルがその場面に際してどちらに味方するかなど決まり切った事であった。迷い無くアスベルは追っ手を斬り捨て、リチャードと共に地下道を、グレルサイド街道の方角へと抜けた。
地下道を抜けてグレルサイド街道に出る事は出来たが、リチャードはどこか具合が悪そうだった。リチャード自身は心配は要らないと言い張ったのだが、アスベルは念の為に近くの小屋の前で一旦休憩を取る事にした。リチャードに無理をさせたくはなかった。アスベルは医者ではないから、万が一無理を押して彼の具合が悪化したら、手の施しようが無くなる可能性があったからだ。
小屋の前にはかめにんがいた。アスベル達を見つけて積極的に売り込んでくるのを追い払って、一息つく。アスベルは妙に気分が高揚していた。
「リチャード、具合はどうだ?」
「僕の事なら心配要らない。アスベルの方こそ、大丈夫なのかい? 何だか、様子が変だ」
「そうか? 多分、お前とこうして久しぶりに会えた事が嬉しいからだと思う。お前が無事で本当に良かった。お前が死んだって聞かされた時には、生きた心地がしなかったんだ……そうだ、一体これはどういう訳なんだ? 王都で何が起こってる?」
アスベルがそう尋ねると、リチャードは暗い表情を浮かべて事の子細を語り始めた。
王都で謀反が起きた。首謀者は、リチャードの叔父にあたるセルディク大公である。大公は騎士団を懐に引き入れて実の兄を謀殺し、そして甥であるリチャードをも亡き者にしようとしたのだという。
謀反も勿論そうだが、騎士団が大公に与して国王を裏切ったというのは、アスベルにとって衝撃的な話だった。
騎士は皆、叙任の儀式で王に対する忠誠の誓いを立てる。確かに儀式の進行上必要な行為なのだが、形だけとはいえ、一度は自身で立てた誓いに背いて国王を裏切るなどと……アスベルが教えられ、そして目指していた騎士の在り方は、そんな卑しいものではない筈だったのに。
「すまない、アスベル。君にとっては辛い話だったね……君は騎士学校に入ったんだろう? そう聞いている」
「ああ、それは……俺の事ならいいんだ。そんな事、今は気にするな」
騎士団が大公に与したとなれば、騎士学校も無縁ではいられない。少なくとも教官達、もしかしたら上級生も招集をかけられ、今回の謀反に巻き込まれているかもしれなかった。マリクやヴィクトリア、学校の友人達の安否も気になるが、今は遠くから心配する事しか出来ない。
「今回の反乱……ストラタはどう出るだろう。黙って静観しているだろうか?」
「ストラタ? ああ……どうだろうね。確かに今回の内乱は、あちらやフェンデルにとっては侵攻の好機になるだろうけれど……」
「いや、そうじゃなくて、ウィンドルはストラタと同盟を締結したんだろう?」
アスベルがそう言うと、リチャードは首を横に振ってこう言った。
「そんな話は聞いていないし、そもそもあり得ない。父上は、対外的には強硬姿勢を貫いていた」
「……という事は……」
「叔父だね。この数年は父上が伏せっていたから、彼が国政を担うようになっていた。同盟の内実は、今回の謀反に協力するか、静観するという約定だろう。その見返りに、一体何を譲り渡したのか……アスベル? どうかしたのかい」
アスベルはリチャードの問いにすぐに答えられず、俯いた。
リチャードの言うストラタへの『見返り』は、間違いなくラント領だ。そうと知らずに喜んでストラタ軍を受け入れてしまった自分は、何と愚かなのだろう。
ストラタが今回の謀反に関与しているのなら、ヒューバートも無関係ではない筈だ。ラント領を追い出される直前の様子だけでは、彼が今回の件についてどれ程知っていたのかは判断出来ない。何も知らなかった様にも思えるし、王都で事件が起きている事を知っていた様にも思える。しかしアスベルとしては、自分の弟が自分の親友を陥れる策謀に荷担したなどとは考えたくなかった。
「アスベル……何だか様子がおかしいよ。何かあったのかい」
「……実は、俺がその話を聞いたのは、ラントに帰ってからなんだ。今回の事が起きる前に、急遽ラントに戻る事になって……」
アスベルはリチャードにこれまでの事を話した。父の戦死、フェンデルの侵攻、ストラタ軍の進駐、ラントを追い出された事。
しかし、進駐軍の総督がヒューバートであるという事だけは、どうしてもその時は打ち明けられなかった。
リチャードはアスベルの説明を聞いて、アスベルが今回の謀反についてあまり詳しくなかった理由に合点がいった様だった。
「俺が馬鹿だった。何も知らずに、ストラタ軍をラントに引き入れてしまった……すまない」
「いや……君が謝る必要はないよ。フェンデルに加えてストラタとまで戦う程の戦力は、ラントには残されていなかったんだろう? ラントが戦火に見舞われた可能性を考えれば、ストラタ軍に抵抗しなかった君の判断は間違っていなかったと思う。それに『同盟を締結した』と言われたら、少なくとも中央に確認するまではそれを信じざるを得ないしね。総督はそれが解っていたから、君が中央に問い合わせる前に、君をラントから追い出してしまったんだろう」
「そういう事、なんだろうか……」
リチャードの推測が正しいとすれば、自分は完全に弟から邪魔者扱いされたという事か。自分を叩きのめした時の弟の見下した顔を思い出すと、アスベルは悲観的な考えにならざるを得なかった。
「何にせよ、君が無事で良かったよ。ラント領の事は……申し訳ないけれど、今はどうしようもない。進駐軍が、ラントの人々に好意的である事を祈るしかない」
「それは……多分、大丈夫だとは思う」
少なくとも、領民達の方はヒューバートを歓迎していた。しかしヒューバートがアスベルや両親を恨んでいた事を考えると、彼がラントに対して好意的な感情を抱き続けているかどうかは疑問でもあった。こればかりは、弟を信じるしかないと思う。
「そういえばリチャード。お前、一年前にラントに手紙を置いていったろう?」
アスベルは懐にしまい込んでいた手紙をリチャードに差し出そうとしたが、手紙がない事に気づいた。そういえば、執務室でヒューバートに見せたきりだった気がする。あの手紙も、今頃は受取主同様に捨てられてしまっているのだろうか。
「ああ……そうか。あの手紙、見つけてくれたんだね」
「すまない。俺がもっと早くあれに気づいていれば良かったのに。もっと早く、お前が大変な状況に置かれているって事に俺が気づいていたら……」
リチャードがそれに対して何か言いかけたところに、不穏な足音がやってきた。セルディク大公の差し向けた追っ手であった。
「いたぞ、王子だ!」
リチャードの姿を見つけるや否や、剣を振りかぶって襲いかかってくる兵士たち。アスベルは即座に剣を抜いてリチャードを庇うように立ちはだかった。騎士団と争う事に躊躇がない訳ではない。けれどアスベルの中では、リチャードを守りたいという想いが何物にも勝っていた。
アスベルの気分は不自然な程に高揚していた。頭に血が上っていて、普段の自分ではなかった。そのせいでどこかで判断を誤ったのだろう。全て自分一人で引き受けるつもりでいたのに、追っ手の内の一人がリチャードに斬りかかる事を許してしまった。
それに対するリチャードの反応は見事だった。一太刀で相手の剣を受け流し、正確な突きで喉笛を刺し貫いてみせた。相当な訓練を積んだのだろう。それから彼はすぐさま剣を降ろし、術の詠唱を始める。何を言われずともアスベルは、自分がすべき事が詠唱が終わるまでの時間稼ぎであると即座に理解した。
追っ手を全て倒し終えると、リチャードがアスベルに駆け寄ってきた。
「アスベル、大丈夫かい」
「ああ……」
どちらかというとリチャードの方が大丈夫でなさそうだった。顔面の血色があまり良くない。術の詠唱などさせて、やはり具合を悪くしてしまったのだろうか。
「リチャード……すまなかった。俺の力が足りなかったばかりに」
アスベルは弟との戦いで感じた自分の力不足を、改めてこの場でも実感し、悔しさのあまり拳を固く握りしめた。それでもなお、自分の力不足を言い訳にして、親友を危険に晒す事はしたくないと思った。
「……リチャード、お前は俺が守る。何があっても、お前の事だけは絶対に守ってみせるからな」
どんな事をしても、リチャードの事だけは守りたい。もう二度と誰も失いたくない。リチャードを守る為なら、アスベルは自分自身すら投げ打っても良いと思い、決意を込めてリチャードに宣言した。
だが、アスベルのその宣言に、リチャードは複雑そうな表情を見せた。
「いや……アスベル。君の気持ちはとても嬉しいけれど……あまり無理はしないでほしい。僕の事なら、心配は要らないから」
「いや、俺がお前をどうしても守りたいんだ。お前は俺の大事な親友だから。頼む、リチャード。俺の腕じゃ不安かもしれないが、お前を守らせてほしい」
「……アスベル……ありがとう。君が今でも僕の事を親友だと思っていてくれて、本当に嬉しいよ」
そう言ってリチャードが微笑むのを見て、アスベルは長らく彼に会いに行かなかった事を後悔した。彼がアスベルとの友情に不安を覚えていたのだとしたら、それはとても悲しい事だと思う。
「アスベル、僕はこれからグレルサイドに向かおうと思う。あそこの領主デール候なら、きっと僕の力になってくれる。僕はデールの元で兵を挙げ、王都に戻って叔父を討つつもりだ。君も一緒に戦ってはくれないだろうか?」
「ああ、勿論だ。俺にどこまで出来るかは分からないが、出来る限りの事をしよう」
アスベルの返事はその一つしかなかった。感激したリチャードが差し出した手に握手で応えると、アスベルの脳裏にはあの友情の誓いが過ぎった。その事を思わずアスベルが口にするよりも早く、リチャードがこう言う。
「……こうしていると、七年前の友情の誓いを思い出すね」
「ああ……そうだな」
だが、七年前に自分たちと誓いを立てた少女は、もういない。彼女がアスベルとリチャードの手を取ってくれる事は、もう二度とない。その事実がアスベルの心に改めて重くのしかかる。もしもここにソフィがいたなら、彼女もきっとリチャードの為に共に戦うと言ってくれただろう。
リチャードの事を守り抜けたなら、アスベルは天国のソフィに対してようやく顔向けが出来るような気がした。

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