フェンデル軍の野営地を奇襲する為、アスベルはバリーらに先駆けて海辺の洞窟を抜ける事になった。
否、正確には「アスベル達」である……シェリアがアスベルと同行を申し出たのだ。アスベルの方は彼女を作戦に参加させるのはどうかと思ったのだが、結局はシェリア自身の意志が固かった事と、アスベル一人の単独行動はやはり危険だろうという事で、承知せざるを得なかった。
道中、何度かアスベルはシェリアに話題を振った。しかし彼女の反応はええ、とかそう、とかいう短いもので、しかも何だか機嫌が悪い様だった。洞窟の内部で何度か魔物に襲われたが、戦い終わった後でアスベルがシェリアに声を掛けても、彼女からは必要最低限の言葉しか返って来ない。あまりアスベルが話しかけ過ぎると、非難するような眼差しを向けられる程だった。
……やはり、バロニアに戻りたいと言ったのがいけなかったのだろうか。アスベル自身、己の発言が周囲に無責任と取られても仕方のないものだとは理解しているのだが、やはりこれだけは譲れない。せめてリチャードが現在どういう状況下に置かれているのか、それだけでも知っておきたかった。出来れば、直接彼に会って。
「ねえ……アスベル、聞きたい事があるの」
「……え? 何だ?」
考え事をしていて数秒反応が遅れただけだったのだが、シェリアの目つきが鋭くなる。そこまで怒らなくてもいいではないかと一瞬アスベルは思ったが、考えてみれば作戦行動中に気を抜いた自分が悪いのだと気づいて思い直した。シェリアと一緒だと思うと、つい安心して気を抜いてしまう……と言ってしまえば、自分の不注意を彼女のせいにしている事になってしまうか。
「貴方……さっきお屋敷で、王都に戻らなければならないって言っていたでしょう。あれは、どうして? 理由を知りたいの」
「それは……」
「あんな曖昧な言い方じゃ、誰も納得しないわ。それくらい、貴方だって解っているんでしょう」
シェリアの指摘は最もだったが、理由を話したところでやはり納得してはもらえないような気がする。しかしながらアスベルの知るシェリアは、とにかく頑なで負けん気な性格だった。それを思いだしたアスベルは、観念してシェリアに事情を説明した。
話を進めていくうちにだんだん変化していくシェリアの表情を見て、アスベルは、やはり彼女に納得してもらうのは難しそうだと思った。シェリアは最初の方こそアスベルを非難するような表情だったが、リチャードの名前が出ると困惑し、最終的に両方の感情が入り交じった複雑な表情になった。
「アスベル……それは、貴方でなければ駄目なの? リチャード殿下は王子様でしょう。こう言ったら何だけれど、何も貴方じゃなくても、殿下を助けてくれる人はいるんじゃないの?」
「シェリアだって知っているだろう。昔、あいつが誰かに命を狙われて悩んでいたのを……あの頃だって、あいつは誰にも助けを求められないで、独りで苦しんでいたじゃないか」
「それは……でも、あれは昔の事でしょう。殿下だって、あの頃はまだほんの子供だったからどうにも出来なかったのかもしれないし……貴方が受け取った手紙の内容だけで、殿下がお困りだって考えるのは早すぎるんじゃないかしら」
「それじゃあ……シェリアは、俺にリチャードを放っておけって言うのか」
「そ……そこまでは言ってないわよ。ただ、手紙の様子だとそんなに差し迫った感じはしないっていうか……私は、今の貴方が優先すべきなのは、殿下の事よりラントの事じゃないかって言いたいの。せめて、家督を継いでからでは駄目なの?」
シェリアの言う事は全く道理に叶っている。叶っているのだが、やはりアスベルには納得出来かねた。
そしてアスベルは、シェリアを説得する事を諦めようと思った。今のシェリアとこれ以上話していると、何だか彼女に嫌気がさしてしまいそうだったからだ。七年前はアスベルと一緒にバロニアに住みたいとまで言っていた彼女が、今は自分に領主の地位を継ぐ事を薦めている。その変わり様がアスベルには辛かった。まるで、シェリアまでもが遠くに行ってしまったように感じられて。
アスベルから王都に戻りたい理由を聞いたシェリアは、その意外な理由に驚いた。てっきり、騎士学校の事に関連していると思っていたからだ。七年前の時のようにアスベルに嘘をつかれる可能性すら考えていたが、リチャードの名前を出した以上、彼は嘘をついていないと思われた。というより、アスベルがそこまで最低な人間に成り下がってしまったと思いたくなかっただけかもしれない。
リチャードらしき人物からの手紙自体は、ラントの自室に置いてきたというのでシェリアは見せてもらえなかった。しかしアスベルの話を聞く限りでは、アスベルの助けが今のリチャードに必要だとは思えなかった。
シェリアとて、今のリチャードが全く心配無用な状態だろうとは思っていない。しかし手紙の中のリチャードは、アスベルの助けを求めている訳ではないような気がする。リチャードが抱えている問題を詳しくは知らないが、たかが一人の騎士学校生の助けを得て解決出来るような易しいものではないと思うのだ。リチャードはアスベルに助けを求めているのではなくて、ただ単に、アスベルに会いたいだけなのではないだろうか。何らかの苦悩を抱えている中で、ふと昔の思い出が懐かしくなっただけなのではないだろうか……そんな気がシェリアにはしてならない。
そうなるとシェリアとしては、やはりアスベルにはラントの事情を優先してもらいたかった。リチャードに大変申し訳ないとは思うのだが、久闊を叙する事と領地を守る事を天秤にかけたら、優先されるべきは後者だろう。だが、その考えをアスベルに言ってしまうと、ただでさえ広がりつつある彼との距離が一層広がりそうで、シェリアは怖かった。
結果的に、アスベル達の作戦は失敗に終わった。野営地襲撃をフェンデル軍側に読まれたのか、アスベルらがラントを空けている間にフェンデル軍はラントを攻撃し始めたのである。アスベルは急いで民兵らと共に、ラントへと駆け戻った。
相手に出方を読まれる可能性を、全く考慮していなかった訳ではなかった。だからこそ急造の作戦を立ててすぐさま行動に移したのだ。相手側が断然有利である以上、このまま時間が経過すれば、こちらが一層不利になるだけだと判断した。マリクからの返事を待つ暇さえ無かったのだ。
だが、フェンデル軍の奇襲を受けたラントに、思いがけない救いの手が伸ばされた。ストラタの軍勢である。その指揮官は、ストラタ軍少佐となったヒューバートだった。
予想外の弟との再会と戦況の好転に、アスベルは喜び、率直に弟に感謝の意を述べた。今や姓も変わったヒューバートの反応は素っ気ないものだったが、来たばかりで忙しいところに話しかけてしまったのがいけなかったのかもしれないとアスベルは思った。領民たちの前で弁舌を振るうヒューバートの姿は、七年前の頼りない印象とはうって変わって、実に堂々としたものだった。アスベルにはそれが自分の事のように誇らしく思われた。
シェリアは怪我人の治療に向かった為、アスベルは一人で屋敷へと戻った。屋敷の玄関には既にストラタの兵士が立っている。フレデリックによると、ヒューバートは先に執務室に向かったとの事だった。ヒューバートがこの屋敷に帰ってきて、今ここにいる。そう考えるだけでアスベルは嬉しくなった。ウィンドルとストラタの同盟締結は寝耳に水だったが、ヒューバートと協力してラントを守れるなら、それはどんなに素晴らしい事だろうか。
早速アスベルは執務室に向かおうとしたが、ふとある考えが頭に浮かび、一旦自室に戻った。用事を済ませるのにそう時間はかからず、すぐに階段を駆け下りる。階下でフレデリックに声を掛けられた。
「アスベル様。よろしければ、執務室にお茶をお持ち致しましょうか」
「ああ、頼む」
フレデリックは畏まりましたと言って頭を下げた。彼ならわざわざ口に出さずとも、ヒューバートの分と合わせて二人分の紅茶を用意してくれるだろう。何もヒューバートと二人でゆっくり茶飲み話をしようというのではないが、久しぶりに帰ってきた弟に、フレデリックの淹れた紅茶を味合わせてやりたかった。
執務室に入ると、ドアの左右にストラタ兵士が控えていて少し驚いた。ヒューバートは父の執務机にどんと座って構えていた。そういえばしばらく見ない間に目が悪くなったのだなと、眼鏡をかけた弟の顔を見ながらアスベルは思った。原因はやはり、本の読み過ぎだろうか。
ヒューバートはアスベルが来る事を予想していたらしく、立ち上がっていきなり思いがけない話を始めた。ラントがストラタ軍の進駐下に置かれ、ヒューバートが総督としてラントの政務を掌握するという。それは確かに思いがけない話ではあったのだが、同時にアスベルにとって喜ばしい話でもあった。
「それは良かった。お前がここにいてくれるなら、俺としては本当に助かる」
「は? それは、どういう意味でしょうか」
ヒューバートの目が、眼鏡の奥で細められた。こちらの出方を伺うような目つきにアスベルはやや怯む。再会したばかりの弟に、これからいきなり負担をかけようとしているだけに、かなり後ろめたかった。
アスベルはヒューバートに事情を話し、先程部屋から取ってきたリチャードの手紙を見せた。そして自分が不在にしている間、ラントの事を頼みたいと言った。ヒューバートなら安心して留守を任せる事が出来ると思った。領民達もヒューバートを歓迎しているようだし、母も彼がいれば喜ぶだろう。
だが、アスベルがそれを率直に話すと、ヒューバートはアスベルに見下すような視線を向けた。そして彼はこう言い放った。
「貴方という人は……本当に、愚かな人ですね。昔と何一つ変わらない。いつでも自分の思い通りになると思っている。そうして嫌な事は、全部ぼくに押しつける訳ですか」
「俺は、そんなつもりじゃ……いや、お前にラントを押しつけるというのは、確かにその通りだな……だが、ヒューバート。これはお前にしか頼めない事なんだ。頼む、少しの間だけでいいから留守を預かってはくれないか」
「いい加減にして下さい。先程から聞いていれば貴方はまるで、ぼくが喜んでここへ来たと思っているようではないですか」
「違うのか……?」
「そんな訳ないでしょう。ぼくがここへ来たのは、単なる軍務です。そうでなければ、どうしてこんな所になど……むしろ、二度と来たくはありませんでした」
ヒューバートは冷たくそう言い捨て、手にしていたリチャードからの手紙を机に放り投げた。そして彼は、呆然としているアスベルを嘲笑うかのように言葉を続けた。
「貴方は勘違いしているようですが、ぼくはもうオズウェル家の人間。ラントとは縁もゆかりも無いんです。王都に行きたいのなら、行きたければ行って構いませんよ。どうぞお好きなように。どうせここにいたって、貴方に領主として出来る事などありはしないのですから」
「それは……」
「あるというのですか? 今も我が軍の力を当てにしている貴方に出来ることが、ここで出来る事が、一つでも」
アスベルは返す言葉もなかった。ヒューバートの言っている事はいちいち的を射ている。
自分を含めた故郷の全てを突き放したヒューバートの言動を目の当たりにして、アスベルはようやく、この弟が自分たちに恨みを抱いている事に気がついた。
ヒューバートの言う通り、確かに彼に「嫌な事」を押しつける事になってしまった。自分の意志を無視して養子に出されたヒューバートが、両親と、そしてアスベルを恨むのも無理はないと思う。アスベルは養子の事こそ知らなかったが、そもそもヒューバートが養子に出されたのは、彼がアスベルの弟だったからだろう。兄弟関係が逆だったならば、アスベルが養子に出された筈だ。いきなり異国に放り込まれて苦労をさせられた弟の心情を思うと、アスベルは七年間彼に会いに行かなかった事に後悔の念を抱いた。
「まあ、最も……王都に行ったところで、リチャード王子の為に貴方に出来る事があるとも思えませんが」
「それは……どういう意味だ?」
「言葉通りの意味ですよ。たかが騎士学校の学生という身分で、貴方に何が出来るというんです? リチャード王子もそれが解っているからこそ、手紙にはっきりした事を書かなかったのではないですか」
その可能性をアスベルは考えなかったが、有り得る話だ。七年前も、リチャードは結局自分を頼りにはしてくれなかったではないか。
「ひょっとして、七年間騎士学校とやらに行ったせいで妙な自信でも付けたんですか。あんなもの、所詮は貴族の子弟のお遊びでしょう」
「何だと!?」
「おや、気に入りませんか」
あまりの言い草にアスベルが激したのを見て、ヒューバートは眼鏡のブリッジを指で軽く上げた。
「ぼくの言い方に不服があるのでしたら、ここで証明してみせましょうか。貴方とぼくの七年間に、どれ程の隔たりがあるのかを」
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