セクエンツィア(3)
アスベルが瞼を開くと、見覚えのあるラントの屋敷の天井が視界に入った。
またしても昔を思い出して一瞬驚いたが、今度はすぐに状況を理解する。身体のあちらこちらが激しく痛みを上げていた。おそらく、あの時裏山に駆けつけたバリー達が、アスベルをラントまで運んできてくれたのだろう……そうだ、ラントはどうなったのか!
「あっ……急に動かないで。そのまま、じっとしていて頂戴」
起き上がろうとしたアスベルの身体を、傍にいた誰かが手で制した。
癖のかかった、緋色の髪をした少女だった。年齢はアスベルと同じくらいだろう。その外見的特徴と年齢から、アスベルはすぐに相手の正体に気づいた。
「ひょっとして、シェリア……か?」
アスベルの胸には再会の喜びが湧いた。しかし、少女ははい、と答えて自分がシェリアである事は認めたが、すぐにアスベルから視線を逸らしてしまった。返事自体もとても素っ気ないものだった。
幼馴染みの冷淡な態度にアスベルが驚きを隠せないでいる間も、シェリアはアスベルから目を逸らしたまま彼の腕を取る。
「もう少しで終わるから……じっとしていて」
そう言うと、彼女は包帯の巻かれたアスベルの右腕に自分の手を翳した。何をするのだろうとアスベルが思っていると、シェリアの手が白く光り輝いた。温かいその光に照らされているうちに、右腕の痛みはみるみる引いていった。
「……その力は……」
「……最近になって使えるようになったの。足の方も治すわ」
シェリアの返答はやはり素っ気なかった。
シェリアが使う光の力は、アスベルがオーレンの森で使ったものに似ているような気がした。ただし効果は全く異なる様だ。シェリアの力は、ソフィが使っていた治癒の力によく似ているように思う。けれど、全く別のものだという事も何となく感じた。
「……だけどシェリア、お前、こんな事して大丈夫なのか? 身体に負担はかからないのか?」
「……七年前のあの事件の後から、急に身体が良くなったの。今は、普通の人より元気なくらい」
「そうか……それは良かったな」
アスベルが思ったままの事を述べると、シェリアが一瞬だけアスベルを見て、そしてすぐに視線を逸らした。言いたい事がありそうだったが、アスベルがそれを尋ねてもシェリアの返事はなかった。何とも言えない気まずい空気にアスベルは居たたまれない気分になり、話題を切り替えた。
「シェリア、ラントの状況はどうなってる?」
「フェンデル軍はとりあえず後退したそうよ。詳しい事は、これが終わったらバリーさん達から聞いて頂戴」
「そうか……ありがとう」
シェリアの口振りから察すると、ラントの方に被害は出ていないようだった。アスベルはひとまず安心して一息ついたが、自分が上着を着ていない事に気づいた。上着はどうでもいいのだが、一緒に無くすと困る物があった筈だ。
「シェリア、俺の上着はどこだ?」
「それなら……汚れていたし、あちこち裂けていたから、メイドさんに渡したけれど……」
「俺の持ち物は?」
「そこに置いてあるわ」
シェリアが指さした先は、ベッドの傍のエンドテーブル。その上にあの手紙があるのを見つけたアスベルは、彼女に怪我を治してもらっている間に、もう一度その手紙を読む事にした。
リチャードが残したであろう手紙の内容からは、明らかに自分を必要としている様子が読み取れるようにアスベルは感じた。彼の周囲で何か大事が起きたのだろうか。やはり七年前に言っていた、叔父の件が関係しているのだろうか。
……七年前、自分を守ってくれたのは親友のソフィだった。だったら今度は自分が、もう一人の親友であるリチャードを守りたい。ソフィはもういない。けれどソフィが生きていたら、きっと、リチャードの助けになろうとしたと思う。
「頭の傷、治すわね」
「ああ……」
アスベルは手紙の内容にばかり関心を向けていて、そもそも自分が頭にまで怪我を負っていた事にも気づかないまま、シェリアに生返事を返した。
だから、そんなアスベルの横顔を、シェリアが寂しそうな表情で見ていた事にも気づかないままだった。


突然のアスベルの帰郷を聞いて、シェリアはただただ動揺するしかなかった。いきなりラントに戻ってきた彼が、自分に会う事もなくすぐさま戦いに出てしまった事には不安と落胆を覚えたが、その後バリーから聞かされたアスベルの無謀な行動には憤慨すらした。七年経っても変わらなかったのか。自分の意志があれば後はどうにかなると思っている子供のままだったのか……と。
けれどもラントの裏山で重傷を負った彼を発見した時、シェリアはやはり、自分は彼に会いたかったのだという事をはっきり認めずにはいられなかった。そして思った。どうして自分を連れて行ってくれなかったのだろう、と。
だが、それは自分に対する言い訳でしかないとシェリアはすぐに思い直した。もう七年前とは違う。祖父を救出に向かったアスベルを、シェリアは追いかけようと思えば追いかけられた。そんな身体になれたのだ。なのに、行動を躊躇ったのは、アスベルと対面する覚悟が出来ていなかったからだ。彼を助けようと思えば助けられたかもしれないのに、自分の意気地の無さを置いて彼だけを責める事は出来ないと思う。
久しぶりに会って言葉を交わしたアスベルは、シェリアから見て、七年前の面影をそのまま残していた。背はかなり伸びたし声も変わっていたが、七年前の彼を知る者が見ればすぐにアスベルだと気づくだろう。気を失っている彼を見ている間は、シェリアは懐かしさに思いを馳せる事が出来た。が、いざ彼が目を覚ましてしまうと、懐かしさに腹立たしさが錯落して、どういう態度を取って良いか解らなかった。その結果、自分でもかなり冷たいだろうと思われる態度を取ってしまった。シェリア自身、己の態度に問題があると自覚してはいたが、他にどうすればいいのか、考えても答えは出なかった。
七年前、アスベルが王都に行ってしまった時、シェリアはただただ悲しかった。あの頃の幼く身体の弱かったシェリアにとって、アスベルとヒューバートと過ごせる日々が全てだったのだ。それだけにヒューバートだけでなくアスベルまでいなくなった後、シェリアはしばらく泣いて、皆に心配される程落ち込んだ。それが落ち着くと、アスベルと自分との距離をどう考えればいいのか悩んだ。会いに行こうと思えば会える距離だったが、シェリアはどうしてもアスベルに会いに行く勇気が出なかった。
アスベルは自分に嘘をついてまで家を飛び出した、という事実について、シェリアは色々な事を考えた。
自分に嘘をついてまでラントにいたくなかったのか。
泣いて一緒にいてほしいと縋った自分を、あの時の彼は疎ましいと思ったのではないだろうか。
……そう思うと、シェリアはとても王都までアスベルを追いかけて行く気にはなれなかった。彼に拒絶される事が怖かったのだ。
思えば、小さい頃の自分は病弱な身体で、アスベル達の足を引っ張ってばかりいた。アスベルはそんな自分と遊んでくれていたけれど、本当はは足手まといだと思っていたのではないか……シェリアのそんな想像は、七年間アスベルから音沙汰が無かった事で、一層消極的な方向に強まっていた。
それにも関わらず、目を覚ましたアスベルのシェリアに対する態度は、七年前のそれと殆ど変わりない親しみの籠もったものだった。何も変わらない……本当に、七年前と変わらない態度。七年前とは色々なものが変わっている筈なのに、アスベルの態度はそれらをまるで無視しているようにシェリアには感じられた。確かにシェリアにとって、この七年間の間には、無かった事にしたい出来事が多くあった。けれどもそれらをアスベルに無視されてしまうと、シェリアがこれまで抱えてきた苦悩も不安も無視されてしまうような気がする。それだけは許せなかった。
アスベルの笑顔は、シェリアの態度が冷淡なのを見るとやがてかき消えた。それを見たシェリアは自分の態度を後悔したが、そもそも自分が彼にあまり馴れ馴れしいのは良くないのかもしれないと思った。自分は使用人の孫で、彼は領主の息子だ。幼い頃は考えずにいられた身分の差というものを、そろそろ弁えるべき時なのかもしれない。だが、そうして彼との距離が離れていく事は、想像するだけでも辛く寂しい事だ。
アスベルの方からもっと積極的に話しかけてくれないか、ともシェリアは勝手に期待してしまったが、アスベルは持っていた手紙に目を通し始めて、シェリアに対する関心を失ってしまった様に見えた。やはり自分の方から話しかけれなければいけないと思っても、良い話題が見つからない。王都ではどうしていたのか……正直あまり聞きたくない。シェリア自身はどうしていたのか……アスベル達がいなくて寂しかった。アストンとケリーの様子……アストンは戦死したばかりだ。
「……アスベル、その……よく、帰って来られたわね」
シェリアがおそるおそるそう言うと、アスベルが不思議そうな顔をした。嫌味と曲解されかねない言葉だとシェリアはすぐに気づき、慌てて付け加える。
「騎士団員は、王都を離れてはいけないんでしょう」
「そうだけど、俺はまた学生だから」
「ああ、そう……」
ある程度行動に自由が許されているのなら、七年の間に一度くらい、ラントに帰ってきてくれても良かったではないか。シェリアはそう言いそうになったが、結局止めた。
結局、適当な話題を思いつかないまま、シェリアは必要以上の言葉をアスベルにかける事が出来なかった。


シェリアの治療を受けるとアスベルはすぐに着替え、バリー達と会うと言い出した。バリーは国境の偵察に出かけていてもう少しで戻るという事だったので、その間にアスベルはフレデリックに手伝ってもらいながら、アストンが所有していたフェンデル軍の情報に目を通す事にした。自分も手伝える事はないだろうかとシェリアは考えたが、自分がそんな事を申し出ていいものかどうか逡巡しながら、アスベルと祖父の後ろを追った。
正面階段を降り、アスベル達が執務室に向かおうとしたところで、ケリーが慌てて自室から出てきた。彼女の憔悴ぶりは相当なものだったが、さもありなん。夫が戦死し、音信不通の長男はようやく帰ってきたかと思いきやすぐに戦いに出て、重傷で戻ってきたのである。涙を浮かべて息子の頬を撫でるケリーに、アスベルは困ったような笑顔を浮かべていた。どうやら母親を想う気持ちは薄れていなかった様だが、それなら手紙の一つくらい送ってやれば良かっただろうにとシェリアは思った。この七年間、シェリアは時々ケリーから尋ねられる事があった。アスベルから手紙を受け取ってはいないか……と。シェリアがいいえと答えると、ケリーはいつも落胆した表情を見せていた。そんな彼女の様子を見て、両親を早くに亡くしたシェリアはアスベルの薄情さに憤慨したものである。
「……なんですって!?」
ケリーの色を失ったような声を聞いて、シェリアの意識は現実に引き戻された。ぼんやり考え事をしていて聞いていなかったが、一体、二人は何の話をしていたのだろうか。いつの間にやらバリーが戻ってきて玄関先に立っていたが、アスベルとケリーの話は続けられていた。
「アスベル、貴方、それは……本気なのですか」
「皆には悪いと思っています。けれども、俺は今回の件が片付いたら、やはり一度王都へ戻ります。どうしても、しなくてはいけない事があるんです」
ケリーだけではない。フレデリックもバリーも、そしてシェリアも、アスベルの言葉には愕然とした。
思い直してほしいと訴えるケリーに対し、アスベルの返答は変わらなかった。ラントの事は大切に思っているし、家督を継がなければいけない事も理解している。しかしどうしても王都でやらなければいけない事が出来たから、今回の事が落ち着いたら一度王都に戻らなければいけない……と。
二人の応酬を見ているうち、次第にバリーの目にアスベルに対する失望の色が広がっていくのをシェリアは見て取った。けれどもシェリアですら、アスベルを庇う事は出来そうになかった。
アストンが死んだこの状況でなお、王都に戻りたいというのは一体どういう事なのか……シェリアにはアスベルの考えが全く理解出来ない。アスベルは一度だけだなどと言っているが、そうまでして王都へ戻りたがる彼の頑なな態度は、シェリア達を余計不安にさせるだけだった。

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