セクエンツィア(2)
戦闘の合間に、フェンデル軍に囚われたフレデリックを救出する。そこまでは良かったのだが、その後についてアスベルが冷静な判断を下せたかについては、後から思い返してみると全く自信が無かった。フェンデル軍の兵器をアスベル一人で引き付けるという危険な作戦に、バリー達がすぐに賛同しなかったのは当然だったと思う。
ただ、自分がやらなければいけないという思いがアスベルの中にあった。一人で出来るだろうと高を括っていた訳ではない。これからやろうとしている事がどれだけ無謀かを訴える冷静な自分は、確かにアスベルの中に存在していた。しかしそれを、何か別のものが追い立てて打ち払ったのだ。
アスベルは敵兵の前に立ちはだかって威勢よく名乗りを上げ、フェンデル軍の兵器を誘い出した。場所はあの裏山の花畑だ。勢いよく突っ込んできた一機を躱して崖に落とし、残った三機を相手に一人で戦ったが、その様といったら……こう言っては何だが、もしもマリクが見ていたならば、間違いなく落第点を付けていただろう。その時のアスベルは、状況を見定めるだけの余裕など全く無かった。オーレンの森で用いたあの光の力があったからこそ、ようやく勝てたようなものだった。
そんなアスベルの無謀とも言える戦い振りが、フェンデル側には捨て身の戦法に見えたのだろう。アスベルが残り一機までも追い込もうとしたところに、相手側が突貫してきた。
予想外の出方に、アスベルは対応しきれなかった。


それからどれ程の時間が経過したのか。気づくと、アスベルは砂の上に仰向けに倒れていた。見上げた先には、崖と空。見覚えのある光景に驚いて飛び起きようとしたが、アスベルの身体は意志に全くついて来なかった。先程の戦いでに加え、落下した時に右腕の骨にヒビが入った様だ。骨折なら騎士学校での訓練で負った事があるが、何度経験しようと痛いものは痛い。これから更に激しくなってくるだろう痛みを予想して眉を潜めつつ、アスベルが周囲を見回すと、アスベルの剣が砂浜に突き刺さっていた。
その剣の向こうのせり出した岩礁の上に、フェンデル軍の戦闘兵器があった。垂直に落下してそのまま岩礁にめり込んだのだろう。先端からひしゃげて潰れ、車体の横幅が三分の二程に成り果てている。乗員らは落下時の衝撃で中から飛び出たのか、すぐ近くの海面でフェンデル軍服の死体が二つ、微動だにせず浮かんでいた。
アスベルが人を殺すのは、これが初めてではない。騎士学校では学生の実地訓練を兼ねて、街道の魔物狩りや山賊の掃討を行う事がある。アスベルもそういう訓練に参加して、そして人を何度か殺した。かといって、回数を重ねたから慣れたという訳でもない。生きていく上で必要な事だった、と考えて割り切るしかないだけだ。そう教官に諭された。
この状態を、勝った、と言っていいのかは判断しかねた。太陽の傾き具合や周囲の風景を見回してみても、アスベルが気絶していた時間はさほど長くなさそうだった。陽動作戦は成功したが、ラントが無事かどうかは解らない。アスベルは痛みを押して立ち上がり、剣を拾って崖を登る事にした。バリー達が捜索に来るのを、待ってはいられなかった。
さっき目を覚ました時、アスベルは一瞬だけ、今まで起きた出来事全てが只の夢であったような気がした。本当はソフィは死んでいないし、ヒューバートだってストラタに養子に出されたりしていない。目が覚めたらすぐ傍にソフィがいて、リチャードが倒れていて、ラントに戻れば父の叱責が飛んできて……アスベルは考えるのをやめた。こんな事ばかり考えていたら、自身に嫌気がさすばかりだ。自身だけならまだいいが、この場所にまで嫌な感情を抱きたくない。ここは大切な思い出の残る場所なのだから。
久しぶりに登る崖は、記憶にあるよりも木の根の表面が滑らかで、アスベルの負傷した身体で登るにはかなり辛かった。昔はこんなものをどうやって登れたのだろう、と不思議に思うくらいだ。あの頃は何だって出来た。己の力も居場所も疑わず、信じているままの明日が来るのだと思っていた。一番大事な自分の意志さえ押し通せれば、後は何とかなると。
何とか崖を登り切ったところで、アスベルは木の根元にもたれて一息ついた。てっきり重傷を負ったのは右腕だけだと思っていたのだが、崖を登っている最中、足も挫いたらしいと気づいた。フェンデル軍の侵攻はまだまだこれで終わりではないだろうに……自分の弱さや無力が嫌になる。こんな風にならずとも、もっと上手く立ち回る方法はあったのではないか。どうしてそれを事前に思いつけなかったのだろうか。
アスベルはラントの方角に目をやった。遠く離れているのではっきりとは見えないが、特に火や煙などが上がっている様子はなかった。バリー達は大丈夫なのだろうか。何だか頭がぼんやりしていて、立ち上がろうとすると視界がぶれて、思わずアスベルはよろめいて地面に膝をついた。その拍子に挫いた足首が激痛を訴える。挫いただけで済んでいたら良いのだが、この様子だともっとひどいかもしれない。癖にならなければ良いのだが。
アスベルが何気なく誓いの木の幹に目をやると、あの時彫り込んだ名前がまた残っていた。アスベル、リチャード……ソフィ。
ソフィ。アスベルがこの裏山の花畑で見つけて、ラントに連れて行って、名前をつけて、友達にして、死なせた少女。この七年間、アスベルは何度も考えた。自分とここで出会わなければ、ソフィは自分を庇って死んだりしなかったかもしれないと。
そうやって罪悪感に浸るのは只の自己憐憫でしかないし、死んだソフィに対しても失礼だという事は理解している。あまり考え込まない方がいい、という事もだ。そうやって考えを打ち切らないと前に進めない己にアスベルは嫌悪感を感じたが、だからといって、罪悪感に浸るだけの無力な自分のままではいたくない。
アスベルは幹に刻まれたソフィの名前をそっと指でなぞりながら、こう思った。自分はいつになったら、天国のソフィに顔向け出来る程強くなれるのだろうか……と。
大切なものを守りたいから、強くなりたかった。強くなりたいから騎士になろうと思った。だが、騎士に限りなく近づいた今もまだ、自分が強くなれたという手応えを感じられないでいる。ひょっとしたら、これは誰かに認めてもらうものではないのかもしれない。強いて言えば……もしもソフィが今のアスベルを見て、『強くなったね』と言ってくれたのならば。けれどそれは、永久に叶わない願いなのだ。
ソフィの名前から目を背けて項垂れたアスベルは、自分の足下の地面がやや膨らんでいる事に気づいた。そこだけ、周囲に比べて雑草の生え具合が違うように思う。気になってアスベルが少し掘り返してみると、木で出来た箱が出てきた。箱の大きさは両手に乗る程で、底が浅く、全体が赤く塗られている。よく見れば装飾彫りが施されていて、まるで小物入れの様だった。地面に埋めるなら、もっと粗末な物で良かったのではないだろうか。それとも、そういう物が用意出来なかったのだろうか。
一瞬、死んだ猫でも埋めたのだろうか……とアスベルは思った。それなら、こんなに綺麗な箱を用いているのも得心がいく。だが、動物の亡骸を収めるにしては、箱はあまりに浅すぎた。
アスベルがそっと箱を開くと、中には一通の封筒が入っていた。宛名は『アスベルへ』……流麗な文字でそう書かれていた。
これは……自分宛、と考えて良いのだろうか。今はどうか知らないが、アスベルの記憶にある限りでは、アスベルという名の住人はラントにはいない、アスベル自身を除いて。という事は、これはつまりラント領主の息子である自分宛と見て良いのだろう。
困った事に、封筒には差出人の名前が書かれていなかった。差出人にさっぱり心当たりがなくて、アスベルは少し悩んだ。これがバロニアならば、何度か友人や知り合いから手紙を貰った事もあるから、その中から当たりをつければ良い。だがこの手紙は、それとは少し違うような気がした。少し色が変わってはいるが、その辺りの雑貨屋で置いてあるものとは全く異なる、上質な紙で出来た封筒だ。宛名の筆跡もアスベルの見覚えのないものだった。
おそらく自分宛であろうと結論を出し、アスベルは封筒を開いて中の便箋を取り出した。封筒だけでなく、中の便箋も揃いの上質な代物だ。ますます差出人が誰だか解らなくて困惑したが、木の幹にもたれて手紙をざっと読み進めていくうちに、アスベルの目はみるみる見開かれていった。そして、最初からもう一度じっくりと読み返していった。
『君とはどれくらい会っていないのかな』……手紙は流麗な文字とは少し不似合いな、くだけた文体で始まった。
アスベルが王都の騎士学校へ入ったと聞いた事。
最近会いに行ってみたが会えなかった為、手紙を残した事。
核心を突かない曖昧な言い回しの行間には、自分を必要としている気持ちが感じられるような気がした。
……この場所に、アスベル宛でこのような手紙を残す人物など、アスベルは一人しか思い当たらない。
手紙にもう一度ざっと目を通して大要を頭に入れると、アスベルは手紙を懐にしまい込んだ。そして、大きなため息をついた。
手紙の最後に記された日付は一年程前になっている。その頃の彼はどんな気持ちでこの手紙を書いて、ここへ来て、隠したのだろう。七年前もそうだった……肝心な事はなかなか言おうとせず、一人で苦悩を抱え込んでいた。今でもその性質は変わらないらしい。アスベルが一生この手紙に気づかなかった可能性だって、あっただろうに。
どこからか、バリーがの大声が聞こえてきた。アスベルが顔を上げると、裏山を駆け上がってくる兵士達の姿が見える。フレデリックも一緒だ。アスベルを捜索しに来たらしい。
周囲を見回すフレデリックの後ろに、何だか見覚えのある髪の色が見えたような気がしたが……アスベルの意識は急にぼやけ、そこでぷつりと途切れた。

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