『お前さえその気なら、騎士団に推薦しようと思うんだが』
マリクのその言葉にアスベルが歓喜したのは、ほんの束の間の出来事であった。
騎士学校に戻って実地任務の報告を終え、寮舎に向かったアスベルは、ルームメイトの一人から手紙が届いている事を告げられた。差出人は母ケリーであった。
アスベルが母から手紙を受け取るのは、これが初めてではなかった。七年前にアスベルが故郷を飛び出し騎士学校に入って以来、彼女は何度も何度も手紙を寄越した。内容は、最初の頃はラントに帰ってくるようにというものだったが、次第に諦めたのか、近況を問うようなものに変わっていった。その手紙にアスベルが返事を書いた事は、一度もない。アスベルのそういう態度を親不孝だと言う友人もいたが、返事を書かなかったのは、手紙に書けるような出来事が無かったからというのが主な理由だ。かつてリチャードの前で嘯いた言葉が笑い話になる程に騎士学校での訓練は厳しく、人に話せないような失敗も多くやらかしている。そんな話を母宛の手紙に書こうものなら、諦めてラントに戻れと言われそうだった。それに何より、そんな自分の有様を父には知られたくなかった。
だから今度も返事は書かないつもりでアスベルは手紙に目を通したのだが、いつもとまるで異なる手紙の内容に、アスベルは身体を強張らせた。フェンデル軍の侵攻……手紙はそこから始まり、父が苦境に立たされている事、戦況がラント側に不利である事がつらつらと述べられ、この有事に帰郷して父を助けてほしい、という言葉で手紙は締め括られていた。
アスベルは教官室を訪ね、マリクとヴィクトリアにフェンデル軍との戦況について尋ね、母からの手紙を見せて今後の事を相談した。マリク達もラントの状況の詳細までは聞き及んでいないとの事であったが、少なくとも今はまだ、騎士団からラントに援軍を送るという話は上がっていない様だった。それだけ聞くと切迫した事態でないように思われるが、それにしては母の手紙の文体はひどく焦り、乱れているようにアスベルには思われた。
どうしたものか迷うアスベルに、マリクは帰郷を薦めた。一瞬、騎士学校を辞めろという事なのかとアスベルは思ってしまったが、それは単なる早合点で、マリクの言いたいのは両親に顔を見せてやれという事だった。それだけで済めば良いのだが……とアスベルは思わずにいられなかったが、教官の言葉に従い、すぐさま帰郷の準備を進めた。
父アストンが、アスベルに手紙を寄越した事は一度もなかった。騎士学校に入ったばかりの頃は、父が無理矢理自分を連れ戻しにバロニアまでやってくる可能性を考えたが、アスベルの予想に反して父は七年間沈黙を保ち続けていた。これは、父にとっては一種の持久戦のつもりなのだろう……アスベルはそう思い、自分からも父に張り合って沈黙で返し続けた。そうして七年。父が自分とヒューバートを騙した事を、アスベルは未だに許せていない。
その関係が続いている中でラントに戻らざるを得なくなった事に、アスベルは正直、重い気分にならざるを得なかった。
七年後の故郷がどうなっているかを想像した時、アスベルの脳内で真っ先に想像が固まったのは、父の姿だった。あの父が、自分のした事を許している筈がない。マリクから騎士団へ推薦される事になったと言っても、それが正式に確定した訳ではない。父を見返す為に騎士を目指した訳ではないが、そういう思いは少なからずある。しかし、騎士になれる事が確定しつつあるこの時期に父と顔を合わせれば、家督を巡って父と衝突する事は想像に難くなかった。
帰郷に際して、アスベルは母に手紙を書いた。手紙は読んだ、これからラントに戻る……と。その手紙を出した直後にバロニアを出たから、下手をするとアスベルの方が早くラントに着くかもしれなかったが、まあ単なる礼儀である。
マリクは騎士団から援軍を派遣出来るかどうか、上に相談してくれるそうだった。ラントからの援軍要請がない限り、中央から騎士団を送る事はないそうだが、要請したとしてもそれが通るかどうかはかなり難しいという。マリクは、援軍が必要と感じたなら自分に連絡を寄越すようにとアスベルに言った。
アスベル個人の誼みの内、今回の事で頼れそうな相手は、マリクの他にもう一人いた。七年間忘れた事はただの一度もないが、敢えて連絡を取ろうとはしなかった親友。こんな事態になってようやく会いに行くのは自分勝手だな……と、アスベルは罪悪感を覚えた。
一つの年齢差だけでは説明出来ない程、人間関係に関しては冷静な価値観を持った少年だった。今まで友人がいた例がなかったのだろう、と幼いアスベルが言うと、即座に否定して返してきたのを覚えている。あの時、幼いアスベルが考えなしに言ったあの言葉は、今になって思うと真実を言い当てていたのではないだろうか。七年を経てもあの真実に変わりがなかったとしたら、彼に対して一層の罪悪感を覚えずにはいられない。
正門に立つ警備の兵士に声をかけ、昔そうしたように親友から預かった指輪を見せてみたが、話は通じなかった。七年も前の事だから、こうなるだろうと予想はしていた。せめて以前に話を通してくれた兵士の顔でも覚えていれば良かったのだが、残念ながらそれについては、アスベルの記憶からはかき消えてしまっていた。
アスベルは王都からの船に乗って連絡港に着き、東ラント道を歩いた。七年前に故郷を飛び出した時に辿った道筋を、逆に進んでいく。
しばらく通らない内に、東ラント道は魔物の生態こそ変わっていたが、風景そのものは七年前と何ら変わりがなかった。放牧されている牛の群れの中に特徴的な模様のウィンドル牛を見つけ、アスベルは懐かしくなったが、その直後に昔見た光景が思い出されて、胸の奥が少し痛んだ。あの時、自分とあの牛を見た相手はもう、どこにもいない。
変わりないと思う事が出来たのは街道までで、ラントの東門が見えるとアスベルは思わず一瞬足を止めた。門に立っていた警備の民兵もアスベルの姿に気づいてか、少しだけ顔を上げる。アスベルが近づいていくと、相手の方は、旅人にしては軽装なアスベルの身なりを訝しんでいる様子だった。
アスベルの記憶にない顔の民兵だったが、アスベルが姓まできっちり名乗ると、それだけで話が通じた。民兵は慌てて屋敷まで供をしようと申し出てきたが、アスベルはそれをやんわりと断った。故郷を長らく空けていた事に少なからず罪悪感があった為、あまり注目されたくなかったのだ。
けれども、行き交うラントの領民達は見慣れないアスベルの姿に大抵気がついた。中にはあのアスベル・ラントだと気づいて話しかけてくる者もいた。予想に反してアスベルの不在を責め詰るような者はおらず、皆が再会を懐かしんでくれたのは意外だった。ただ、その後の反応が奇妙だった。皆、笑顔を浮かべてもすぐに一転して打ち沈み、アスベルを慰めるような言葉をかけてくる。フェンデルの侵攻に怯えているせいかと思ったが、それとも違うようだった。
そのうち、ある者が言った……『お悔やみを』。それを聞いた瞬間、アスベルの頭に過ぎったのはある可能性だった。
そして、それは的中した。屋敷で出迎えてくれた母の憔悴した面持ち、屋敷内の暗鬱とした雰囲気。萎れた庭の花壇の花。
今の状況から起こりうる出来事の一つだった筈なのに、何故かアスベルにはその予感すら走らなかった事。
父の戦死。
いきなり目の前に突きつけられたそれを受け止める時間すら、アスベルには与えられなかった。
戻る
次へ
セクエンツィア(1)