石畳の犬(2)
夜半、メロダークは聖堂の椅子に腰を下ろして考え事をしていた。
いっこうに眠れなかった。エメクの部屋に行って彼の顔を見たいと思ったが、就寝を妨げて彼の不興を買うようなことはしたくなかった。
最も、その程度のことで怒るような人物でないことはよく知っている。あの、最初の赦しを与えられた日から今までずっと、エメクはメロダークに対して寛大であった。帰る場所も信じるものも持たないメロダークにその両方を示し、殺戮とは無縁の穏やかな生活を与えてくれた。
……けれど、メロダークがその生活にある疑問を抱いたのは、昼間にエメクが野良犬と戯れているのを見かけた時であった。
人間によく慣れた犬のように見えた。噛み癖があるのはどうかと思ったが、噛まれたエメクの方は不快を感じた様子もなく、犬に懐かれて悪い気はしないようであった。犬がエメクの足下を纏わりついてぐいぐい顔をこすりつけ、軽くとはいえ噛みついたというのに、叱る気配もない。そんな甘い態度を見せていると懐かれるのではないかと思いつつ、本心では羨ましいとも感じた。エメクの傍で彼の寛大さに触れることが出来るとは、、何と羨ましいことか――心の底からそう思っていた。
途端に無性に虚しいような、物寂しいような感情が湧き上がったが、すぐに思い直した。自分だって現在まさに、エメクと共に、彼の寛大さの下で生活しているではないか。

――だが、それによって一体エメクは何を得ているのだろう。

唐突に思いついたその疑問に、何もない、という答えが真っ先に浮かんだ。その答えを払拭する理由を思いつくことが出来ず、延々と考え事ばかりして眠れずにいる。
遺跡探索をしていた間ならまだしも、今はもう、エメクが自分を傍に置くことに何一つ利点などない。それどころか彼は、メロダークの犯した咎のしわ寄せを被っている。エメクは周囲に対して、メロダークが神殿軍の密偵であった事実を明かそうとはしなかった。彼の女神に対する信仰心の篤いことを考えれば、メロダークの為に偽証という罪を犯したことについても、思うところが当然あるだろうに。
エメクの献身に対してどう報いるべきか、メロダークは考えたものの、結局何も思いつかなかった。戦いから離れれば役立たずに成り下がる……そんな事は分かっていた筈だ。無愛想で気の利かない、端から見れば得体の知れない居候。メロダークが知っていることといえば、己が戦場で生活していく為に覚えた事柄ばかりだ。剣を置いてしまえば、他人の役に立てる機会は少なくなった。
今夜の夕食は悲惨であった。練習しないことには上達しないから、とエメクに勧められ、喜んで作った二人分の料理はエンダの腹に収まった。そうせざるを得なかったのだ。不味いとはっきり評価を下しながら、それでも何とか食べようと努めていたエメクの姿を思い出すと、不安を感じる。いつか、自分は彼に見放されてしまうのではないかと。
このまま彼の傍に置いてもらうにはどうすれば良いのか――そんな事をぼんやり考えていると、エメクが中庭を横切ってくるのに気づいた。ともしびの呪文で彼の姿が明るく浮かび上がって見える。
メロダークはじっとエメクが歩いてくるのを見つめていた。声をかけようとしなかったのは、今の惨めな姿を見られたくなかったからだった。が、向こうはメロダークの存在に全く気づいていない。こちらが、灯りも持たずに暗い聖堂の隅に座っていた為だろう。エメクがこちらに目もくれずに聖堂を通り過ぎていったことに、何とも言えない寂しさを感じ、遅れてメロダークは彼の後をついていった。
エメクは死聖所への階段に向かっている様子だった。その彼の手に、あの櫂が握られていることにメロダークは気づいた。
またそれか、とメロダークでなくとも誰もがそう思うだろう。それ程までに、エメクはあの櫂を大事にしていた。メロダークも、あの櫂が神聖な物であることは何となく理解しているつもりだが、エメクの思い入れは相当なものだった。大きく長い代物なので、肌身離さずという訳にはいかないようだが、何かにつけて持ち歩いている。そんなに大事な物なら、ただの櫂と見分けがつくように名前を書いておけとアダに注意されていたが、結局そうしていないのは、櫂に傷をつけたくないのだろう。他人に触られるのすら、本当は嫌なのかもしれない。一体、エメクがどのような経緯であの櫂を手に入れたのか、メロダークは尋ねる気にならなかったが、エメクにとってあの櫂は、女神の神体にも等しいようだった。家族や友人といった色々なものを大切にしつつも、彼が最も大切にしているのは結局、女神への信仰心なのではないだろうか。エメクを見ていると、何となくそんな気がする。
それに比べればきっと、自分など取るに足らぬ存在に違いないのだろうとメロダークは思った。現に、エメクは後ろをついて来ているメロダークの気配には一向に気づかず、櫂の先端が石段を擦らないか、そればかり気にしている様子だった。否、足音を消しているのだから、エメクがこちらに気づかなくともおかしくはない。彼に気づかれたいのなら声でも掛ければいいのに、何と言えばいいのか分からなかった。さしたる用事がある訳でもなく、ただ彼に気づいてほしいだけだった等と、まさか言える筈もない。
エメクが至聖所の入り口ではたと立ち止まった。柱の裏を覗いて、あれ、と首を傾げている。その仕草を見てメロダークはある可能性に思い至り、口を開いた。
「箒なら戻しておいたぞ」
突然後ろから声をかけられて驚いたのかだろう、エメクの肩が少し跳ねた。驚かせないようにするべきだったかと自省の念が湧いたが、メロダークが謝るよりも先に、エメクが話を始める。
「そうかい、ありがとうよ。ところで、何であんたここにいるんだい。ひょっとして起こしてしまったのかい?」
「いや……聖堂で少し考え事をしていたら、お前を見かけた」
「あれ、さっき横切ったけども、あんたがいるなんて気づかなかったな」
「……暗かったからな」
エメクにとっては何気ない言葉だったのだろうが、メロダークは自分の胸がはっきりと痛むのを感じた。何はなくともエメクに気に掛けられたかったのだ。
無論エメクの方は、そんなメロダークの心境に気づく訳もなく、さっさと階段へと取って返した。メロダークもその後ろをついて行った。何故か無性に彼の傍にいたかったが、過剰に近づいて彼に嫌がられたら――嫌がられて当然なのだが――今晩はひどく打ちのめされそうだ。逆に距離を置くよう意識して、メロダークが遅れがちに階段を上がっていると、途中でエメクが立ち止まって振り返った。
辺りが一面暗闇の中で、灯りに照らされたエメクの姿がぼんやり明るく見える。彼の赤い瞳が自分を見ていることに、メロダークは安心感を覚えた。
「何だ?」
「離れずについて来いよ。あんた、灯り持ってないから足下見えないだろ」
「……すまん」
言う通り、エメクとの間を少し詰めて階段を上がっていく。彼がこちらの足下に気を配っていてくれたことが嬉しかった。
今のメロダークは、エメクがいなければ生きていけないような気がする。だが、どう考えてもエメクの方はそうではないだろう。彼が、行く当てのないメロダークが神殿に住めるように苦心してくれたのも、神官として慈悲を示しただけなのだろう。そうでなければ、あれだけの手酷い仕打ちをした自分に対して、どうして許すだけでなくここまで親切にしてくれるだろうか。
エメクの部屋に着くまで無言が続いたが、扉の前に着いたところでエメクが再び口を開いた。
「あんまり夜更かしするんじゃないよ」
「ああ……」
いかにも気のない返事しか返せなかった。本当は、もう少しの間だけでいいからエメクの近くにいたい気分だった。けれど、その口実がない。口実など立てず、正直に頼み込めば雑談くらいしてくれるかもしれない。だが今は、断られた場合の傷心が大きいような気がした。
「……なんか相談したいことがあったら言えよ」
エメクはそう言って部屋の中へ入った。
好都合なその言葉に縋るしかないと咄嗟に考え、メロダークは扉に足を挟んだ。微塵の痛みもなかったが、エメクが驚いて扉を開く。
その扉を押し開けてメロダークは中に入ったが、扉を閉めていざ向かい合うと、何をどう話せばいいのか分からなかった。ただ、今はエメクの傍にいさせてほしい。部屋の隅にでも置いてくれればいい。だが、そんな事をエメクが許してくれるとは思えない。部屋に帰って寝ろと言われるのが落ちだ。
エメクは用件を急かそうとはしなかった。卑屈な見方かもしれないが、櫂を倒れないように立てかけることの方が、彼にとっては重要であるように見えた。自分はあんな木の棒より価値がないのかと思うと、惨めな気分になる。到底口に出しては言えないが。
彼の視界に捉えられたくて、エメクの腕を掴んで振り向かせた。エメクはあまり動じていなかった。拒絶されなかったことに安堵しながら、メロダークがエメクの手を握ると、向こうは怪訝な表情だったが嫌がらなかった。エメクに触れ、それが許されているという事実に何とも言えない喜びを感じた。
だが、もっと触れたいあまりにその手におそるおそる唇を寄せた途端、エメクに手を振り解かれ、隠しきれないほどの悲しみを覚えた。自分がしようとした事はそんなに許されないことなのか。それとも、自分だから嫌なのか。後で思い返すと正気の沙汰ではないが、その時はエメクに拒絶されたことが本当に悲しかったのだ。
どういう事かと問われ、口付けをしたかったとメロダークがありのまま答えると、エメクが眉を潜めた。逡巡しているのが見て取れて、メロダークは重ねて懇願した。
「すぐに終わる……どこでもいい、手でも、足でも構わんから」
本当にどこでも良かった。ただエメクに触れたかった。明らかにエメクが困っているにも関わらず、どうしてこんな事を頼むのか自分でも理解しかねたが、何故かエメクの嫌がることをしたくてたまらなかった。彼の勘気を被る可能性への不安は大いにあったが、とにかく彼の傍に身を寄せて、彼に許されたかったのだと思う。それに、この程度の頼み事ならば聞いてくれるのではないか、という浅ましい目算もあった。
エメクは随分迷っていた様だったが、やがて溜息をつきつつ寝台に腰を下ろし、左足の靴を脱いで脛を突き出した。
「ほらよ。どこでもいいんだろ……こんなのでいいんなら、どうぞ」
自分で頼んだ事ながら、メロダークは驚いた。エメクが、自分に足を舐めるような真似をさせてくれるとは思ってもみなかったのだ。しかし勿論嬉しくもあり、メロダークはすぐさま石床の上に跪き、期待に胸を弾ませながら白い足に手を伸ばした。
……だが、メロダークが触れようとした寸前で、エメクは足を引っ込めてしまった。その時の失望感といったらなかった。一度は良いと言ってくれたのに、寸前で心変わりするなど理不尽ではないか。
「あのな……いくら何でも、本当に足にする奴があるかい。みっともないし……する方だって嫌だろ」
一度は良いと言ってくれたのに、寸前で心変わりするなど理不尽だと思った。確かに、他人の足に口付けるなど端から見れば体裁が良くないだろうが、メロダークにとっては、エメクの足に口付ける事は全く苦にならない。まして、今はこちらからそうさせてくれと頼んでいるのだ。
「……とりあえず理由を言ってみろよ。それからだ。何かあるだろう?」
「……理由は……ただ、お前に口付けすることを許されたいと思った、それだけだ」
ありのままを答えると、エメクは溜息をついた。彼の機嫌が損われたかどうかは測りかねたが、彼の一挙一動が、現在の自分に影響しているのをメロダークは強く感じた。そして、エメクの方もこんな風に、女神に傾倒しているのだろうかと思った。もしもそうなら本当に、自分の存在する余地など何処にもないではないか。
跪いたままのメロダークに、エメクが靴を履きながら溜息混じりにこう言った。
「そんな理由で許すことは出来ないよ。俺はずっと昔、それこそ子供の頃から神官の道を目指して、貞潔の誓いも当たり前のように守ってきた。だからかね……あんたのその、俺に接吻したいっていう感情がよく分からないんだ。あんたにとっちゃ、おかしな意味はないんだろう……けれども、だったら尚更のことだ。理由もなく誓いに触れるようなことはしたくない」
――お前より女神の方が大事だ。そう言われたも同然のように思えた。
分かり切っていた事の筈なのに、メロダークが受けた衝撃は大きかった。強い悲しみと憤りが湧き上がり、叫び出したいほどだったが、自分にエメクを非難する資格がないことは承知していた。
エメクが言っているのが一般的な戒律の話であったなら、そんな形骸化しつつあるものを厳格に守る必要はない、と尤もらしく言うことが出来たかもしれない。けれどエメクが身を律しているのは、「女神に仕えるに値する人間として可能な限り相応しく在りたい」という、いわば自己満足とでも言うべき理由からなのだ。だからこそ、メロダークが苦言を呈すれば、エメクは間違いなく激昂するだろう。エメクの人生にメロダークが口を挟む謂れはない。
今のメロダークに、神に対する信仰心はなかった。敬愛も尊崇の念も抱いていない。とりわけ女神アークフィアに対しては、エメクの思慕を一身に集めているという理由で、不遜にも羨ましく思えてならない。今は特にそうだ。
容易に諦めきれず、メロダークはエメクの手を掴んで彼に迫ろうとした。が、エメクはその手を振り解いて、どこか冷めた視線を向けてきた。
「とりあえず今夜はもう寝ろよ……明日、また話を聞いてやるから」
そう言ってエメクは寝台に横たわり、メロダークに背を向けて毛布を被った。肌着を着たまま、両手を毛布の外に置いて、ふしだらな行為に及ぶことなど決してあり得ないと言わんばかりに。
エメクはメロダークに対して、良くも悪くも主人らしく振る舞ったことはない。彼はあくまで親切だったが、それはどこか突き放したような……例えるなら、居心地の良い囲いの中にこちらを迎え入れて、お前はそこで好きなように過ごせばいいのだと言うような、放任された親切さだった。メロダークにとっては手放しで喜べない状態だった。どんなに穏やかな環境であっても、エメクに顧みられていないというだけで不安を感じずにいられないのだ。

――俺にとってはお前が全てなのに、お前の方はそうではないのか。

「何だい一体――」
続く言葉を唇で塞いだ。
毛布の上からエメクの身体を押さえつけ、頭を掴んで口付けをした。他人と唇を合わせるのは久しぶりだったが、今自分がしていることはそれら過去のこととは違う、もっと神聖で大切な行為のように思われた。誰かと唇を合わせる、ただそれだけの事に、こんなにも喜びを感じたことは今まで無かった。
無論、エメクが自分を押しのけようとしているのは気づいていた。彼の嫌がる事をしているという事実に、不思議とあまり恐怖を感じていなかった。エメクを汚しているつもりは全く無かったからだ。ただ嬉しいだけで、みだりがわしい欲求はない。だから、ひょっとしたらエメクが許してくれるのではないかという期待をしていたのだ。その為ならどんなに詰られ、打たれても構わない。
「どきな、重い……ったく、誰がこんな事していいって言った」
メロダークの押さえつける力が緩んだ隙に、エメクは彼を押しのけた。彼はこちらを見ようともせず、黙って靴を履こうとする。
行かないでほしい。そう言いたかったが、言葉が出て来ず、代わりにエメクを押し倒して彼の上に覆い被さり、二度目の口付けをした。
恍惚とした気分だった。どうして舌を差し入れたのかは、自分でもよく分からない。こういう事は、エメクには殆ど経験のない事だろうと踏んだ為かもしれない。あれだけの事を言うからには、彼は他人に唇を許したことが殆どないのだろう。エメクの中の、他人を迎え入れたことのない領域に踏み入るのは心地が良かった。いっそ犬のように扱われても構わないから、彼の傍にべったりと侍っていられればいいのに――。
――だが、間もなくメロダークは膝に当たる感触に気づいた。
エメクが勃起している。そう気づいた途端、驚いて唇を放した。エメクの白い顔が紅潮し、濡れた唇がわなわなと震えていた。これまでメロダークが見たことのない、怒りと羞恥に塗れた表情だった。少し勃起したくらいで、そこまで狼狽えることもないだろう。まさか、これまで一度も経験がない訳ではあるまいに。
エメクはこちらから目を背け、一言も怒声を発したりなかった。冷静になれない理由があるのだ――欲情しているのだ。
そう気づいた瞬間、メロダークは目が眩むような強い興奮を覚えた。エメクが、心ならずとはいえ肉欲を抱いているという事実に浅ましい喜びを覚えた。彼がどんなに高潔であり、どんなに神を深く愛していようとも、彼自身は弱い肉体を持つただの人間でしかないのだという事実が嬉しくてたまらなかったのだ。
エメクがこちらを押しのけようとして伸ばしてきた手を、メロダークは躊躇いなく掴んで唇に押し当てて舐めた。エメクの腕が震えた。彼と、言葉以外の何かで繋がっているような感覚を覚えた。
メロダークが歓喜しているのとは真逆に、エメクは恐怖しているようだった。もがく彼を敷布の上にうつ伏せに押しつけ、肌着を捲り上げて腹に手を差し入れる。怪我の治療でエメクの手足に触れたことはあったが、初めて触れる腹は少し冷たく、何故か胸が苦しくなった。
接吻し、舐め、撫で回す度に興奮が増した。男に欲情したことはないが、今は何故か、ただの人間同士なら当たり前のことだと思った。しかしエメクはそうではないようで、メロダークが彼の胸の頂に舌を這わせると、呻きつつ頭を押しのけようとしてきた。
これが、エメクの意志に背く行為であるということは自覚していた。けれど衝動を抑えることが出来なかった。エメクを貶めるつもりはない。ただ、彼との間に何かしら特別な結びつきが欲しかった。上衣を脱ぎ捨てて彼に覆い被さり、その身体をかき抱くと、逆に彼に抱きしめられてみたいと思った。そんな事は、叶わない希望なのだろうが。
エメクが、然程激しい抵抗を見せないのが不思議だった。殴るなり髪を掴むなりしても良いものを、せいぜい押して退けようとする程度だ。ひょっとして、彼は自分を哀れんでいるのだろうか。
「エメク……エメク、どうか拒まないでくれ。俺にはお前しかいないのだ」
自分でもそうだと思うほど、いかにも哀れっぽい声色が口から出た。端から見ていて恥ずかしいくらいだろう。けれども、今この場にいるのは彼と自分、ただの人間が二人いるだけだ。
エメクの肌着の襟に指を引っかけたせいで、肌着が大きく裂けたが、構わずに露わになった肩に口づけた。強く吸って痕をつけたらどうなるか、想像を巡らす。痕をつけてみたい気もするが、エメクは怒るだろうか。そもそも、彼がこんな所を他人に見せる機会があるのだろうか。
この世界に彼と自分の二人きりであったなら、こんな事で悩まずとも済んだかもしれないのに――そう思いながら破れかけの肌着に手をかけた所で、不意にエメクが口を開いた。

「嘘つくんじゃないよ」

あまりにも冷たい声色に、思わずメロダークの全身が凍り付いた。だが頭の方は、エメクに拒絶され否定されたことへの理解が追いつかず、混乱していた。こちらを押しのけて振り向いたエメクの鋭い視線からは、明確な拒絶と侮蔑が投げつけられていた。
何か言わねばならないと思った。だが、何も言葉が出て来なかった。反論が出来ない、何故なのか。その理由を知っているような気がしたが、直視出来ない。それを考えてしまえば、エメクに見捨てられてしまう気がしてならない。
黙ったままのメロダークの態度をどう解釈したのか、エメクは溜息をつきながら破れた下着を丸めてどこかへ投げた。それから彼は、部屋の隅に立てかけた櫂を無表情で見やった。まるで、メロダークの方からそちらへ関心を移してしまったかのように。
「……部屋に帰れよ」
当然の命令だったが、メロダークはすぐにその場を動けず、縋るような気持ちでエメクを見つめた。詰るなり殴るなり、何をされてもいいから、この場から離れたくなかった。ここで立ち去ってしまえば、いずれエメクに見捨てられる。どうしてもそう考えてしまう。
エメクが床に目をやった――この部屋から出て行こうとしているのだ。
そう思うや否や、メロダークはエメクを押さえつけ、彼の下穿きを引きずり下ろそうとした。裸にしてこの部屋から出て行けないようにする為だった。
エメクは舌打ちすると、今度こそ暴れて抵抗し始めた。メロダークの方が腕力では上だが、エメクも武器を持てるくらいだから決して非力ではない。何度も蹴って殴ってきた。相手がエメクでなければ、激しい抵抗に憤り、首でも絞めていたかもしれない。だが勿論、エメクにそんな事を出来る筈がない。
では、お前が現在エメクにしている仕打ちは何なのか。その自問からメロダークは敢えて目を背けた。両脚を押さえつけて下穿きを引きずり下ろし、萎えかかったエメクの逸物を口内に含むと、頭上で小さく悲鳴が上がった。
男の性器に口をつけるのは初めてだった。一瞬の躊躇いはあったが、すぐに慣れた。むしろ、口内で緩やかに堅くなりつつある感触がどことなく嬉しかった。エメクが何を感じているのか、直に伝わってくるからかもしれない。
ふと、視線を上の方へやると、エメクと目が合った。居たたまれない様子だった。こちらがエメクに奉仕することに喜びを覚えていても、向こうが喜んでいない事は一目瞭然だった。
「やめろ……やめろってば。どうしてそんな事するんだい」
「……嫌か」
「嫌だよ……あと、あんた鼻血出てる。それがずっと気になっててさ」
指摘されて初めて血の臭いに気がついた。自分の手や、敷布に点々と血の染みが落ちている。こちらの関心が逸れた隙にエメクは這い出そうとしたが、メロダークはそれを逃さず、彼の足を掴んで寝台に引き摺りこみ、全身で覆い被さって押さえつけた。汗ばんだ項に口付け、ぐっと背後から身体を抱き寄せると、エメクが震え上がった。
「おい、やだよ、痛いのは嫌いだ」
エメクの言わんとするところは、一呼吸置いて飲み込めた。メロダークに犯されるのではないかと危ぶんでいるのだろう。だがメロダークの方には、そのつもりはなかった。エメクにすり寄って彼に触れていられれば満足だった。向こうは、メロダークの膨らんだ股間を押し当てられるのが不快らしかったが。
早春にしては暑い。手の内に握っている逸物も熱かった。エメクの身体が感じている事が嬉しい。彼の信心がどれだけ篤かろうと、彼自身は所詮、ただの人間に過ぎないのだ。



翌朝、エメクはメロダークに対し、必要最低限の口しか利かなかった。アダとエンダがいる間は事もなげに振る舞っていたが、彼女らが出かけると、エメクの態度はたちまち冷たくなり、一言、「洗濯に行ってきな」と命ずると、墓掃除へ出かけていった。まるで、メロダークと同じ屋根の下にいるのも嫌という態だった。その事に不平を言える訳もなく、メロダークは洗い物を抱えて洗濯場へ出向いた。
洗濯場の先客である町民たちは、メロダークに気づくと朗らかに挨拶してきた。それにメロダークは無愛想な挨拶で答える。客の殆どは女で、服を洗いながらぺちゃくちゃと騒々しいお喋りをしていた。メロダークは彼女たちの関心から全く外れたまま、洗濯場の隅に陣取った。
洗い物の中に、昨夜エメクが汚した敷布があった。血と精液のついたそれを、周囲の人目につかぬよう水に濡らす。
……恐れ多いことをしてしまったと、今更になって後悔していた。お前の言う信仰や忠誠とは主人の誇りを汚すことなのか、と、どうして夕べは気づかなかったのだろう。エメクが再三拒絶していたのを、押し通したのはメロダークの方だ。身一つで神殿から叩き出されても文句は言えまい。
彼の傍に置いてもらえなくなる――それを想像すると血の気が引く程の恐怖を感じた。自分の招いた結果だとしても、それでもエメクから離れたくはない。だが、メロダークがそう訴えれば、逆にエメクの方がどこかへ去っていくような気がした。いつだったか、ネル辺りが零していたではないか。エメクは小さい頃から、ふらりと姿を消してしまいそうな雰囲気があった……と。メロダークにはそれを気のせいだと言い切る自信がない。彼はあの櫂ひとつあれば、何処であろうと神を敬愛していられるのだ。
洗い場から帰る道中、メロダークの頭を占めていたのは、どうしたらエメクをここに繋ぎ止めていられるだろうかという一点だった。答えは簡単だ。メロダークがいなければ、エメクがアダや友人たちの暮らすこの町からわざわざ離れる理由はないだろう。明快で痛烈な結論だ。
神殿へ戻ると、至聖所の方から煙が上がっていた。エメクが何かを焼いているのだろう。メロダークは洗い物を物干し竿にかけた。煙の臭いがつくのではないかという心配は、頭からすっぽり抜け落ちていた。やるべき事をやらねばならない、としか考えられなかった。
これが終わった後で何をすべきか。神殿内の掃除は、朝のうちにあらかたエメクとアダが済ませてしまった。中でも祭壇の掃除など、今のエメクにとっては、メロダークにだけは絶対に任せたくない仕事だろう。他に思いつく仕事といえば昼食の準備だが、それもあまり喜ばれないだろう。いつものエメクなら、勿体ないの何のと言って味見くらいはしてくれるが、今日ばかりはそうもいくまい。
いつの間にかメロダークは、自分がどうやってエメクに許しを請おうかと考えていることに気づいた。何をしたところで無駄かもしれない。許してもらう機会は昨晩いくらでもあった。それを潰したのはメロダーク自身だ。だから何があろうともエメクの処断を受け入れるべきなのに、その覚悟が出来ずにいる。
ふと、いつの間にか戻ってきていたエメクと目が合い、メロダークはその場に立ち竦んだ。エメクはこちらを見るなり、不快感も露わに目を細めた。だが、彼はすぐに立ち去ろうとはせず、メロダークを睨んでいた。
「……そろそろ昼間だが……飯はどうする」
メロダークがおそるおそる尋ねると、エメクはすぐに素っ気なくこう返してきた。
「俺は要らない。あんた一人で勝手に食ってな」
メロダークは黙って頷いた。そうするより他になかった。
その後、エメクは外出を告げて出かけた。メロダークは一人分の昼食を作って済ませてから、雑用を片付けつつ留守居を守って午後を過ごした。する事が無くなると、頼まれてもいない各部屋の掃除を始めた。
エメクの部屋に立ち入る際、一瞬だけ躊躇った。ベッドには新しい敷布が掛けられている。そういえば、この部屋にあまり出入りしたことはないが、改めて見ると私物の目立たない、部屋の主の個性が見受けられない部屋だった。出て行こうと思えばいつでも出て行けそうだという印象を受け、そしてその事に悪寒が走った。
彼がもしもこのまま戻って来なかったら――しかし、部屋の隅に櫂が立てかけられているのを見てメロダークは安堵した。この杖を残して姿を消すことはあるまい。エメクにとっては信仰が全てで、メロダークの存在などどうでもいい。むしろ昨晩の一件で、信仰の妨げにしかならないという事を思い知ったのかもしれない。
エメクの行くところなら何処へでもついて行きたい。その為ならどんな事でもする。けれども、エメクに邪魔だと言われ追い払われてしまったら、今のメロダークにはどうする事も出来そうにない。


いつの間にか、窓から差し込む日の光がすっかり傾いていることに気づいた。どの程度の時間立ち尽くしていたのか、自分でも想像がつかないが、時間が経ったことに全く気づかなかった。
エメクはまだ帰ってきていなかった。いつ頃帰ってくるつもりなのだろう。そもそもどこまで行ったのだろう。町から出るような事は流石にないと思うのだが。それに夕食は要らないと言っていたが、一体どこで済ませてくるつもりなのか。あまりに遅かったり酒を飲むようなら、迎えに行くべきだろうか。
……いつもなら浮かばない発想だ。エメクに体よく取り入る機会を求めている、と自分でも思った。
エメクが戻らないまま自分の夕食を作る気にもなれず、メロダークは聖堂の椅子に腰を下ろして彼の帰りを待った。
待つ事は苦手ではなかった。しかしそれは詰まる所、結果がどうなろうと構わないという諦めと無関心によるものだ。そして、今はそうではない。
エメクが帰ってきたら、今の自分を見て何と言うだろう。「こんな所で何をしているのか」? それとも、こちらを無視するのだろうか。今晩はそうだとして、明日も? 一体いつまで?


またしても時間が経つのを忘れ、うつらうつらと眠り込んでしまっていたらしい。メロダークがはっと頭を上げると、周囲は暗く、外には曇った夜空が見えた。
だが、自分の手元や足下はぼんやりと明るく見えている。何故なのか……メロダークが腰掛けている長椅子の、少し離れたところに、火の点いたランタンが置かれていたからだった。用意した覚えはないし、そもそもメロダークの部屋にあるランタンはもっと新しい物だ。
周囲を見回すと、祭壇の燭台に火が点いていることに気づいた――エメクが帰って来たのだ。
メロダークはすぐにその場から動くことが出来なかった。エメクがランタンを置いて行った理由がよく解らなかったからだ。ひょっとしたら自分に気を遣ってくれたのかもしれないが、帰って来たのなら声を掛けてほしかった、というのが正直な気持ちだった。
とりあえずエメクの部屋を訪ねたが、彼の姿はなかった。だが食堂を覗くと、テーブルの燭台に灯りが点いていて、紙で包んだ何かが置かれていた。台所も無人だったが、薪の燃えた臭いがした。もしや風呂の用意をしたのだろうか。台所の隣の部屋には風呂桶があって、そこで入浴をするようになっている。
メロダークはそっと扉を開けて中を覗いた。小さなテーブルの上に、灯りの点いたランタンが置かれており、籠の中に服が入れられている。中に入ると、少し湿った空気が頬を撫でた。衝立の向こうから湯を掛け流す音が聞こえる。その向こうをおそるおそる覗くと、風呂桶の中に座っている裸のエメクと目が合った。
立ち竦んだメロダークとは正反対に、エメクは顔色ひとつ変えずにのんびりと洗い布を手に、耳の後ろや首などを擦っている。まるでメロダークの事など視界に入っていないかのようだった。
「――俺がいつ、風呂を覗いてもいいって言ったっけな?」
明後日の方向を向いたまま、不意にエメクがそう言った。メロダークは慌てて衝立の裏で引っ込んだ。
「すまん……」
エメクの返答はなかった。メロダークはどうしたらよいか分からず、その場に立ち尽くしていた。
程なくしてエメクは風呂桶の湯を抜き、着替えて衝立の向こうから出てきた。彼はメロダークをちらりと見たが、特に何も言わず、さっさと部屋を出て行く。メロダークは彼の後に続いた。
「あんた、晩飯は?」
「……まだだ」
「作る気ないんなら、そこにあるの、食っても構わないよ」
エメクが食堂のテーブルを指さす。だが、メロダークは首を横に振った。
「……食欲がない」
「ふうん、そうかい」
エメクの反応は淡々としていて、彼の機嫌が全く読めなかった。怒っているようでもあり、無関心なようでもあった。だが顔は全くの無表情で、少なくとも上機嫌には見えなかった。当たり前のことだが。
食堂を出て行くエメクの後をメロダークが追いかけると、彼はすぐに立ち止まって振り返り、じっとメロダークを見つめながらこう言った。
「あんた、晩飯食わないんなら、もう寝るだけなんだろ? だったら俺の部屋に来いよ。話がある」
「……分かった」
「俺は祭壇の火を消してくるから、あんたは至聖所のほうを見に行ってきな。昼間、ちょいと火を焚いたから…まあ始末したから大丈夫だとは思うけれど、一応ね」
メロダークは再度頷き、エメクの指示通りに至聖所に降りて行った。そして異変がないのを確認してから、エメクの部屋を訪問した。エメクはメロダークが入るなり、じろりと物言いたげな視線を向ける。
「俺のコート、何処にやったんだい」
「何の話だ?」
「あんたの頭に掛けておいたろ、寝てる間にさ」
「すまん、気づかなかった……聖堂にあるだろう、取ってくる」
「早くしてくれよ」
何か妙な違和感を感じつつも、メロダークは足早に聖堂に向かった。

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