石畳の犬(1)
エメクが至聖所の掃除を終えて出てくると、河辺に一匹の犬がいた。いったいどうしてここまで降りてきたのか定かでないが、見かけない犬である。餌に困っている様子はないし、そこそこ綺麗な大人しい犬で、飼い主がいても不思議ではなさそうであった。薄茶色の短い毛並みをしたその犬は意気盛んに尻尾を振って、いかにも遊んでくれと言わんばかりにエメクに纏わりついてきた。
まさか河辺に残していく訳にもいかず、エメクは犬を両腕で抱き上げ、犬が暴れないのを確かめてから階段を上っていった。上に着いたところで地面に下ろしてやると、犬はつい先程までおとなしくしていたくせに、早速じゃれついてくる。
「おいおい……服を噛むんじゃないよ。破れちまうってば」
甘噛みされた長衣の裾を引っ張って振り解き、首を撫でてやろうとすると、今度はエメクの手をかぷりと甘噛みしてきた。どうやら、少し噛み癖があるようだ。
「おや……その犬はどうしたんだい?」
アダが声をかけてきた。ありのまま、困っているのだという様子を隠さず、
「下で見つけたんですよ。いったいどうやって降りていったもんだか……」
とエメクは答えたが、犬の方はというと、そんなことは知らぬと言わんばかりにぐいぐいと鼻をこすりつけてくる。
このまま懐かれるのは困りものだった。可愛げがない訳ではないし、エメク自身も犬は好きだ。しかし、飼ってやれそうにはない。怪異は収束したが、神殿軍の件以来、町民の足は神殿から遠のいてしまった。つまり、神殿への献金がめっきり減ってしまったのだ。それでなくとも居候を二人も抱えてかつかつ生活している中、犬を新しく飼う余裕などないだろう。
「多分、どっかの飼い犬じゃないでしょうか。えらく人なつっこいし……ほら、もうお行き。危ないから、もう下には降りていくんじゃないよ」
別れ際の挨拶とばかりに頭を撫でて、町の方へと送り出す。犬はこちらの方を見向きもしなかった。思い切りがよいというか、現金というか……いずれにしろ帰る場所があるならそれで結構だし、或いは、エメクの訓告を無視してもう一度やって来るかもしれなかった。
ふと、メロダークと目が合った。彼はいつの間にやら神殿の石柱の傍に立って、こちらの方を見ていた。いつも通りの無愛想な表情だったが、エメクを凝視する視線はどことなく尋常でなかった。
夕飯の支度を任せてやった割には機嫌が良くないようだな、とは思ったが、それだけだった。後から思い返してみても、その時のエメクにはメロダークの心中など推し量りようがなかったのだ。


その晩、寝床に入る時になって、エメクは至聖所に箒を置き忘れてきたことに気づいた。面倒ではあったが、自分一人だけが使うものではないし、元に戻しておかねばならないだろう。脱いだ長衣をもう一度着てから、櫂を手に取ってともしびの呪文で灯りを灯すと、至聖所へと降りていった。
だが、至聖所の入り口に立てかけておいた筈の箒は見当たらなかった。おかしいなと思いながらエメクが記憶を辿っていると、後ろから声をかけられた。
「箒なら戻しておいたぞ」
メロダークだった。灯りも持たずにここまで降りてきたらしい。
「そうかい、ありがとうよ。ところで、何であんたここにいるんだい。ひょっとして起こしてしまったのかい?」
「いや……聖堂で少し考え事をしていたら、お前を見かけた」
「あれ、さっき横切ったけども、あんたがいるなんて気づかなかったな」
「……暗かったからな」
「ふうん……さて、あんたが片付けてくれたんならいいや、部屋に戻るか」
エメクが神殿へ戻ると、メロダークも黙って後からついてきた。こうも暗いと、彼との距離が開きすぎていないか気になる。もちろん、まかり間違ってもメロダークとべったりくっついていたいとは思わない。だが、それも時と場合によるのだ。
エメクが階段の途中で立ち止まって振り返ると、メロダークも立ち止まった。
「何だ?」
「離れずについて来いよ。あんた、灯り持ってないから足下見えないだろ」
「……すまん」
どうも鬱屈しているようだなと感じた。年中陰気な顔をしている男だが、機嫌の善し悪しくらいならエメクでも察知できる。思い詰める性質であるという事も知っている。こんな夜中に起きて考え事をしていたとは――彼を連れてきた身としては、のんびり傍観していられる立場ではないと思う。だが、なかなか踏み込める間柄でもない。
メロダークが女神の信徒であったなら、神官として相対すれば良いのだが、実際そうではない。女神に仕える身である自分が、メロダークの主人としてどう振る舞えばいいのか、エメクは未だに理解出来ずにいる。
自室の扉の前に着いたところで、エメクは後ろを振り返って言った。
「あんまり夜更かしするんじゃないよ」
「ああ……」
メロダークは俯いたまま返事をしたが、気のない返事のように思われた。
「……なんか相談したいことがあったら言えよ。じゃあな、おやすみ」
そう言ってエメクは自室に入り、そっと扉を閉めようとした。
だが、メロダークが扉の隙間にいきなり足を入れてきた。彼の足を挟んでしまったことに、エメクは眉を潜める。用事があるなら口で言えばいいではないか。向こうから仕掛けてきたことだし、この程度のことで泣き言は言わない男だが、エメクの方には他人を痛めつける趣味などないのだ。向こうのせいとはいえ、気分が悪くなる。
「何だい」
問いかけてもメロダークは答えず、無言で部屋へと踏み入ってきた。それに合わせてエメクは後ろへと退き、メロダークを部屋の中へと入れてやった。
扉が自然と閉まり、いくらか経ったが、メロダークは一言も話そうとしなかった。エメクは敢えて話を急かそうとは思わなかった。相談事というのは、なかなか切り出しにくいものだ。
黙ったままのメロダークを放っておいて、エメクは部屋の灯りを点け、櫂を部屋の隅に立てかけた。座るものがあればいいのだが、エメクの部屋に椅子はない。座れそうなものといえば長持があるが、こちらはただでさえ古い上に、蓋の上に繕い物が散らかっていた。やろうやろうと思いながら、色々あって放置したままであった。繕い物なんて面倒くさいが、放っておいたところでいつの間にか直っている訳でもない。
不意に左腕を掴まれた。何事かとエメクが驚いて振り返ると、メロダークと目が合った。こちらの様子を目で伺いながら、エメクの左手を掴んでいる。何をするのだろう。とりあえずエメクが成り行きを傍観していると、メロダークはおそるおそる指の付け根に唇を寄せてきた。
予想外の出来事にエメクは一瞬呆けたものの、たちまち我に返って左手を振り解く。驚きのあまり大声を出しそうになったが、手を振り解かれたメロダークが傷ついたような表情をしているのを見て、言葉に詰まった。
アダもエンダもとうに寝ているだろう……エメクは努めて声を潜めて尋ねた。
「……どういう事なのかね、これは」
「……口付けを……したかった」
「……俺に?」
念の為にそう問うと、メロダークははっきりと頷いた。
「すぐに終わる……どこでもいい、手でも、足でも構わんから」
思わず耳を疑った。相手がメロダークでなければ、性質のよくない冗談はよしてくれ、と言っているところだ。
メロダークの深刻な表情が崩れる気配はない。エメクはしばし躊躇ったが、仕方なく寝台に腰を下ろして左足の靴を脱ぎ、長衣の裾を捲って脛を突き出した。
「ほらよ。どこでもいいんだろ……こんなのでいいんなら、どうぞ」
理由はどうでも良かった。向こうが話さない以上、こちらから詮索するつもりはない。自分がほんの少しの間大人しくしていれば、メロダークがそれで満足できるというのなら、それでいいだろう。奉仕の一環とでも思えばいい。
手でも足でも構わないというから、足を出してやったのだ。手は流石に無理だった。想像するだに恥ずかしい。
しかし、本当に足でもいいというのだろうか――そう思っているエメクの目の前で、メロダークが石床の上に跪いて屈み込んだ。
……やはり無理だ。エメクは左足を引っ込めた。
「あのな……いくら何でも、本当に足にする奴があるかい。みっともないし……する方だって嫌だろ」
「俺は構わんが」
メロダークは心からそう思っている様子だった。何とも言い難く、若干の頭痛を覚える。
「……とりあえず理由を言ってみろよ。それからだ。何かあるだろう?」
「……理由は……ただ、お前に口付けすることを許されたいと思った、それだけだ」
そう言うと、メロダークは跪いたまま俯いた。自分でもひどいと思うが、何となくエメクには、メロダークの要求が切実なものだとは思えなかった。エメクは溜息をついて靴をはき直した。
「そんな理由で許すことは出来ないよ。俺はずっと昔、それこそ子供の頃から神官の道を目指して、貞潔の誓いも当たり前のように守ってきた。だからかね……あんたのその、俺に接吻したいっていう感情がよく分からないんだ。あんたにとっちゃ、おかしな意味はないんだろう……けれども、だったら尚更のことだ。理由もなく誓いに触れるようなことはしたくない」
メロダークは反駁しなかった。いくらか待ってみたものの、向こうは何も言ってこない。やはり切実な頼み事ではないのだな、という言葉をエメクは飲み込んで抑えた。
悪い冗談を言うような男ではない、それだけは解る。だから思うに、彼は何か精神的に鬱積しているのだろう。このまま相談に乗ってやれればいいのだが、生憎と明日は午前中に予定があって、寝過ごす訳にはいかない。
エメクはメロダークの肩を叩いて、とりあえず今夜はもう寝ろ、と促そうとしたが、メロダークが顔を上げてエメクの手を掴んだ。そうして力強く引っ張られたが、すぐに振り解く。
今、この男は断りも無しにしようとしなかったか? その苛立ちをエメクは隠して、メロダークを無視して長衣を脱ぎ、ベッドに入って毛布を被り、メロダークに背を向けて寝た。灯りはメロダークが出て行ってから消すつもりでいた。
「とりあえず今夜はもう寝ろよ……明日、また話を聞いてやるから」
そう言うとエメクは毛布を肩まで回して、話を全て切り上げた――否、そのつもりだった。
やにわに肩を掴まれて仰向けにさせられた。またしても力強い手つきに、今度こそ不平を口にする。
「何だい一体――」
続く言葉は唇で塞がれた。
エメクはすぐに自分の置かれている状況を理解した訳ではなかった。視界を覆う影と、口唇に当たる感触を自覚して、ようやく両手を伸ばして押しのけようとした。が、相手はエメクの頭を掴み、身体の上に乗り重苦しくのし掛かって、そう簡単には押しのけられまいとしているようだった。
――嫌だと言ったのに、この男は。
しかも長い。小人の王国で味わったあの悪夢の如き体験に比べて長く、はっきりとしていた。柔らかく自分の口唇を啄む感触に、ふつふつと怒りが湧く。
眉を潜めつつ、どう窘めたものかと考えた。怒りに任せて罵倒するのは容易いが、暴言を吐いてメロダークを必要以上に傷つけることは避けたかった。そうして彼に甘くした結果がこれではないのか、と問われればその通りなのだが。
……それにしても長い。長すぎる。呼吸も楽ではない。普通はこんなに長いものなのか? いや、そんな事はどうでもいいし、考えるべきでもない。
メロダークの押さえつける力が緩んだのを感じて、すかさずエメクは彼を押し返した。身体を捻って横向きになり、メロダークから離れようともがく。
「どきな、重い……ったく、誰がこんな事していいって言った」
起き上がろうとした途端に、メロダークに口付けされたという事実がいやに重く感じられて、エメクは彼の顔を見るのも嫌になった。耐えろ、と自分に言い聞かせる。許すのはそれからだ。怒りを抑えてからでなければ難しそうだった。
毛布をはね除けて靴を履こうとしたエメクだったが、メロダークが身を寄せてくる方が速かった。何かを言う前に顔を近づけられ、目を背ければ押し倒された。
次の口付けでは舌を入れられた。
反射的に震えを感じた――意味など関係ない、こんな事は許されるべきではない。直視したくない感覚が耳の後ろを這って、首から指先へと伝わっていくようだった。これまで堅く守り抜いてきたことが全て台無しにされそうだと思い、そして、それはあまりにも早く来た。
メロダークが唇を放した。彼は驚きに目を見開いていた。膝に当たる感触で気づいたのだろう、エメクが勃起したことに。
お前のせいだと大声で罵ってやりたかった。こんなことはエメクの意思ではないし、こんな筈ではなかったのだ。これまでエメクがどんなに己を律し戒めてきたか、メロダークには理解出来まい。女神に仕える身として、能う限り清くありたかったというのに、理由もなくそれを踏みにじられたというのか。
こんな男の為に、という気持ちが内心あることは否定出来なかった。それが一層エメクの自己嫌悪を煽った。主人としてどう振る舞ったらいいのか解らぬなどと思いながら、どこかで彼を見下していたのかと。
罵倒の文句を飲み込んで、エメクは黙ってメロダークの顔を手で押しやった。手の平に当たる濡れた唇の感覚から、この男に散々唇を吸われて舐められたのだという事実を思い知らされ、怒りが増す。
だが、その手をメロダークが掴み、自分の口に押しつけて舐める様子を見て、エメクはようやく恐怖を感じた――こいつは。
「何するんだよ、放せ、放せって言ってるだろ……!」
何度ももがき、ベッドから這い出そうとする度に引き戻される。下着を捲られ、腹や、背中、首、胸、色々な箇所を触られ、吸われた。貞潔を守りたいという先刻のエメクの話は、綺麗さっぱり忘れられてしまったかのようだった。
叫び出したいのを堪えたのは、こんな光景を人に見られたくないからだった。けれど、斟酌や面目すら放り出して、誰でもいいから助けを求めたいという思いもあった。体をまさぐられながら、こんな事は絶対に許したくないと感じた。
行き場のないこの男を住まわせたのは、他ならぬエメク自身だ。だから、他のことなら無理を聞いてもよかったのに。
「エメク」
背後から項を吸われ、反射的にエメクが身を捩ると、頭をシーツの上に押さえつけられた。何一つ許してはいないのに、よくもこんな事が出来る。
腹や乳首を撫で回され、何が良いのか全く理解出来ないままエメクが鈍い痛みと屈辱を感じていると、背後から耳に息がかかった。
「エメク、どうか拒まないでくれ。俺にはお前しかいないのだ」
その、いかにも切実な色を帯びた言葉を聞いた瞬間、エメクは激しい憤りを感じた。それは殺意にも似た憤りであった。
そしてまた、はっきりと感じた。自分はこの男を、この男の信仰心を見下していたのだと。

「嘘つくんじゃないよ」

そう口にした途端、エメクの肌着を引き裂く手が止まった。覆い被さったまま凍り付いた重みを押しのけて、相手を引き剥がしながら顔を見れば、薄明かりの中にも判るほど青ざめていた。反駁してこないのが全てだと、何となく思った。
独りでは生きていけない男だ。建前を並べて寄る辺を求めているだけの愚かな男だ。もっと良い寄る辺が見つかれば、そちらに乗り換えるだろう。この男の言う信仰心など、所詮はその程度だ。そんなことはとうの昔に解っていた、敢えて言わずにいただけのことで。
それでもこの男が安息を得られるというなら、エメクは構わない。だが、その為に自分の信仰心を投げ打つことまでは出来ない。
……エメクは無言で体にまとわりついた下着を脱いだ。肩から袖まで大きく破れており、エメクの腕では繕えそうにない。どう始末したものかと思いながら、とりあえず適当に丸めて長持の上にひょいと投げやった。
メロダークは一言も発しなかったが、エメクの方から言葉をかける気にはならなかった。詫びを入れる気ならそうすればいい。まさか、それすら命令されなければ出来ないという訳でもあるまいに。
ふと、部屋の隅に立てかけた櫂を見やり、少し考えた。そしてやはり、この男を助けたことだけは後悔していないと思った――近くに置くべきではなかったかもしれない、とは思い始めていたが。
助けた以上は面倒を看てやらねばいけないと思っていた。だが、本当にそうしなければいけないのだろうか。信仰を見失ったこの男と自分とでは、どこかで価値観が合わないことは解っていた。この先、何度もこうして彼を詰り、傷つけ、過去の自分の選択を後悔するかもしれない。それが恐ろしい。先刻、一瞬だけとはいえ、この男を殺したいとすら思ったのだ。次もそうしないとどうして言い切れようか。
エメクはそれ以上考える気にはなれなかった。早春のまだ肌寒い今夜、下穿き一枚の格好で一晩寝なければならないという事実に思考を移し、小さく溜息をついた。しかも、少し腹がすき始めている。敷布の乱れも気になるから、さっさとどいてはくれないだろうか。
「……部屋に帰れよ」
メロダークの身体がびくりと跳ねた。哀願するような目で見られると、まるでこちらが悪い事を言ったような気分になった。よく見れば彼も上半身は裸だった。いつ脱いだのかと呆れながら、床に落ちていた服に目をやる。床に落とすこともないだろうに。服を拾ってやるか、それとも服を着ろと命じるか、エメクは少し迷った。
その、一瞬だけメロダークから目を話した間に、ぐっと膝を上から押さえつけられた。何かと尋ねる前に下穿きを脱がされんとしていることに気づくと、エメクはメロダークを蹴ることに躊躇するのをやめた。怪我しようとも知ったことではない。それだけの事を相手がしているのだから。
だが、殴っても蹴ってもメロダークは止めようとはしなかった。そして腹立たしいことに、彼の方がエメクより力が強かった。向こうは下穿きを引き摺り下ろすと、なんと露わになったエメクの逸物を口で咥えた。
メロダークの鼻から血が垂れていた。どさくさにエメクが顔を蹴ったせいだろうが、当人は鼻血が出ていることには気づいていないようだった。している行為と相まって、かなり馬鹿げた倒錯的な光景に見える。
自分の性器を他人に舐められていること自体はおぞましかったが、逸物を覆う生暖かさはえも言われぬ感覚を呼び起こした。引き剥がそうにも腿をがっちりと掴まれていたし、何度言っても駄目なのだという結論と、次第にこみ上げる忌々しい快感が、エメクから抵抗する気力を削いでいく。メロダークが鼻血を出しながら自分の逸物をしゃぶっている様を見ていると、滑稽を通り越して憐憫すら感じた。それと同時に、自分がされている行為の恥ずかしさからエメクは目を背けたくなった。
頭を引き剥がそうとしてメロダークの髪を掴んだものの、数秒躊躇った後に指を緩めてしまった。彼を傷つけることはきっと容易い。エメクのどんな罵倒も暴力も、彼は黙って受け入れるだろう。だからこそ、傷つけたくはない。彼の為に自分の信条を捨てるのかと、何度も自問自答しながら、どうしても首を横に振ることが出来ない。
「やめろ……やめろってば。どうしてそんな事するんだい」
額をぐいぐいと押しやりながらそう問いかけると、メロダークがエメクの逸物から口を離してこちらを見た。唇との間に糸を引いているのを見て、明日からこの男とどう接したものか、考えると頭が痛くなる。
「……嫌か」
「嫌だよ……あと、あんた鼻血出てる。それがずっと気になっててさ」
指摘されてようやく気づいたのか、メロダークは手の甲で鼻の下を拭った。彼が手を放した隙にエメクは離れようとしたが、すぐにまた足を掴まれる。引っ張られてうつ伏せにされたところへ上から覆い被さられて、ある悪い予感に身体が竦んだ。
「おい、やだよ、痛いのは嫌いだ」
「お前がそう言うなら何もしない。俺もお前を痛めつけたい訳ではない……ただ、少しの間でいいからじっとしていてくれ。後で俺をどのように罰してくれても構わん。だから」
慎ましやかな言葉とは裏腹に、メロダークはエメクを強引に抱きすくめて後ろから逸物を扱いていく。肌寒さはどこへ行ったのか、背中が汗ばんで暑かった。そこへぴったりと重い身体を寄せられて、鬱陶しいことこの上ない。
口では殊勝なことを言いつつも、向こうは最後にはエメクが許してくれるのではないかと期待しているような気がした。あくまで無意識の内にそう考えているのだと思う。そうでなければ、恐ろしくてこんなことが出来るものか――ああ、また傲慢なことを考えている。結局、自分は女神の信徒としても、この男の主人としても、あまりにも不出来なのだ。彼を救うことで、自分にも得られるものがあると信じていたのに。
息を荒げ、常ならぬ声を漏らしかけた口を手で塞がれた。メロダークはこんな自分の姿が見たいのだろうか。こんな、神前で立てた誓いも守れない男の姿が見たいのだろうか。だとすれば、本当に彼にとっては、寄る辺の主など誰でも構わないのだろう――。


翌朝になって、アダが数日出かける事を思い出し、陰鬱な気分になった。彼女は隣村の結婚式に呼ばれているのだ。村から迎えが来るとはいえ、一人で行くのは危ないのでは――そう言った一週間前の自分自身を殴りたい。
アダが留守となれば、留守居を預かるのは当然エメクの役割である。躾の一環としてエンダを連れて行くと言ったのはアダで、エメクもそれには反対しなかった。それは正直なところ、エンダの子守を一人でする自信が全くなかったからなのだが、今はメロダークと二人きりで生活する方が余程難しく感じられた。
二人を送り出すと、エメクは冷たい口調でメロダークに洗濯を命じて墓掃除へ向かった。早朝の墓掃除を、寝坊した為にしなかったことにアダは気づいていたが、そういう日もあるだろうとあまり厳しい事は言わなかった。本当に、色々な人に合わせる顔がない。とりわけ女神に対しては。
墓石に張り付いた枯れ葉を取りながら、ふと、メロダークに重労働を押しつけたことに対して罪悪感が湧いた。エメクの精液で汚れた敷布を、彼はどんな気持ちで洗うのだろう。そもそも、彼は洗濯場で他の利用客に見られないようにして、あれを洗ってくれるだろうか。想像すると不安を感じたが、追いかける気にもなれないので考えないことにした。
エメクが墓と神殿内外の掃除を終えても、メロダークは帰って来なかった。洗濯に時間がかかるのはいつものことだ。物干し竿の状態だけ整えてやってから、河辺で例の破られた下着を焼いた。どうせ繕いに出せる物ではないし、繕えそうにもない。
昼の食事をどうしたものか迷っていた。昨夜までならメロダークに任せていただろう。実際、昨夜の夕食は、エメクとメロダークの分はメロダークに作らせたのだ。彼の作る料理の出来がひどいのは承知しているが、練習しなければ上達しないだろうし、本人が好きでやっているのだから、と。流石にアダやエンダに食べさせるのは、アダにとっては健康上、エンダにとっては教育上良くない為控えた……まあ、結局はエメクは四分の一も食べられず、殆どエンダの腹へと収められてしまったのだが。
この陰鬱な気分の時に、食事とも呼べない代物を食べさせられるのは嫌だった。そもそもメロダークを喜ばせるのが癪だった。自分に逆らい、誇りを踏みにじってくれた彼を安易に許すことが出来ない。
それでも今朝、真っ先に彼を神殿から叩き出さなかったのは、彼を見捨てることは出来ないと決まっていたからだ。今の彼にとって、死の向こうにすら救いがないと知っていて、どうして見捨てることが出来ようか。
……一通り焼けたところで考え事を止め、火と燃えかすの始末をしてから神殿へ戻ると、物干し竿に敷布が垂れているのに気づいた。反射的にエメクが身を固くしたのも束の間、敷布の陰からメロダークが姿を見せる。向こうはエメクを見るなり目を見開いてその場に立ち止まった。彼の手に握られているのが自分の長衣というだけで、エメクはささやかな苛立ちを覚えて目を細めた。
「……そろそろ昼間だが……飯はどうする」
メロダークがおそるおそる尋ねてきた。エメクが作れと言うなら作るし、作るなと言うなら作らないと言うのだろう。昨夜の無礼を後悔しているようだったが、しおらしいその態度の裏には、自覚のない卑屈さが透けて見えた。そのくせ、跪いて詫びを入れることもしないのは、そんな事すら命じられなければ出来ないとでも言うのだろうか。
「俺は要らない。あんた一人で勝手に食ってな」
あからさまに突き放した物言いをしてやると、メロダークは解った、と答えて項垂れた。彼が傷ついている様に奇妙な充足感を覚え、エメクは戸惑った。自分は何を喜んでいるのだろうか。こんな陰湿な仕返しを重ねて、昨夜の恨みを晴らそうとでもいうのか。それはあまりに悪趣味ではなかろうか。
「……ちょいと出かけてくるよ。留守番よろしく」
「どこへ行く?」
「色々。デネロス先生の所とか、買う物もあるし、他にもいくつか……晩飯も要らないからね」
一方的にそう突きつけると、エメクは自室に向かった。長衣から外出着に着替え、財布を手に取って台所へ向かった。食堂のテーブルの上に、今朝アダが焼いたばかりのパンが盛られた籠がある。そこからパンを一つ取って囓りながら、食べる物がそれなりに揃っていることを確認した。いちいちメロダークのことを考えているのが馬鹿馬鹿しいように思われたが、やはり見放すことも出来なかったのだ。


外出の用事を一通り済ませると、エメクはひばり亭へ寄った。昨夜の寝不足が響いて、眠くてたまらなかった。かといって勿論、神殿で寝る気にもなれなかった。エメクの部屋には内鍵がないのだ。
酒場の隅のテーブルで寝かせてくれと頼むと、オハラは無闇に詮索することもなく、けれど一食分の注文をしっかり取り付けていった。起きたら食って帰れ、という事らしい。遺跡探索の熱がすっかり冷め、閑古鳥の鳴く昼の酒場は静かだ。
テーブルに突っ伏して目を閉じかけた時、ふと、あの櫂はどこへやったか気になった。そうだ、今日は自室に置いて来たのだ……自分の不在中に、床に倒れていたりしないだろうか。あれが手元にないと不安を感じる。かといって、紛失するのも恐ろしい。頻繁に持ち歩くのなら名前を書いておけとアダに注意されているのだが、それも何となく恐れ多くて出来ないでいる。何気なくメロダークの前でそのことを話すと、不自然な沈黙が返って来た。あれは一体何だったのか――


「――ちょっと、エメク。そろそろ起きなさいよ」
オハラの声と、肩を揺すぶる手でエメクは目を覚ました。いつの間にやら酒場の灯りと客が増えており、窓の外を見やればすっかり暗くなっていた。
早く帰らないとまずいとは思ったが、食事を貰う約束は忘れていなかった。エメクが言うまでもなく、オハラは台所へと引っ込んでいく。エメクはカウンターに席を移してから程なくして、オハラがパンとスープ、チーズの乗った皿とミードの入ったジョッキを運んで来てくれた。
「どうぞ。エールは切れてるから、こっちで我慢してよね」
「ありがとう」
「どういたしまして」
そう言うと、オハラは客が帰った後のテーブルの片付けに向かった。
エメクはパンを千切って口に入れた。かなり固い。朝に焼いたものなのだろう。それ以外は特筆することのない平凡な味だったが、これよりもひどい物を夕食として食べているかもしれない輩のことが、ふと頭に浮かんだ。
メロダークを苦しめたい訳ではない。けれど平然と水に流すことも出来そうにない。ただでさえ一度は無くした彼への信頼に、またしても亀裂が入ってしまったのだ。言うことを聞けないなら出て行けと言いたくなるが、その結果彼がどうなるかを想像すると頭が痛い。彼を苦しめたい訳ではない……この繰り返しなのだ。
そもそも、何故あんな真似をしたのかという弁解すら聞いていないのだが、それはそれで聞くのが怖い。自分の信条が何の為に傷つけられたのか、その理由によっては彼をひどく罵ってしまうかもしれない。
だが、アダ達が不在の今の内にこそ、話し合って解決しておかなければならないのだろう。
重苦しい気分で夕食を済ませると、エメクは台所を覗いて声をかけた。
「ご馳走さま……なあ、オハラさん。パンとチーズ余ってたら持って帰りたいんだけど、あるかい?」
「あるわよ。あんたに出したのと同じ、乾いた余りもので良ければ」
「構わないよ」
「じゃあちょっと待ってて、包むから。あ、暇なら鍋の中身、そいつにやってくれる?」
オハラが指さしたのは、台所から外へと通じる裏口の扉であった。開けっ放しになっているその扉の外を覗くと、地面に置かれた皿をぺろりと舐めている犬がいた。
「ああ、こいつか。昨日うちの方にも来たな」
「先週ぐらいからこの辺うろうろしてるのよ。この間来た商船に乗ってたらしいんだけど、置いてけぼりくらったみたいなのよね」
「じゃあ、迎えに来るなら早くても来月か……それまで面倒看てるの?」
「まあね、毎晩食べ残しをやってるだけだけど。そいつ、愛想の振り方が上手いから、結構色んなところで可愛がってもらってるみたいよ」
エメクが皿に、鍋の中に残った骨を乗せてやると、犬は早速骨にむしゃぶりついた。薄茶色の毛並みはなかなか綺麗で、野良生活を送っているとは思えない。試しに頭を撫でてみると、食事中にも関わらず全く動ずることなく骨を舐めている。
「こいつ、ひょっとしてすごく頭がいいのかなあ」
「かもね。絶対に外からこっちに入って来ないし。入ってきたら、あたしに追い出されるって何となく分かってるんじゃないかしら……ほら、出来たわよ」
紙で包んで紐で結んだ包みが一つ。エメクは代金と引き替えにそれを受け取ると、ひばり亭を出て帰路へ着いた。
夜の冷気が両耳に刺さる。帰ったら風呂に入って、夜の祈祷。メロダークと話をするのはそれからで良いだろう。

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