ある夜、見張りの侍女と衛士に連れられ、塔の階下で沐浴を済ませた私が部屋へと戻ると、見知らぬ若い男が立っていた。蝋燭を灯した薄暗い部屋の中、彼がその手に引っ提げた抜き身の剣が鈍く輝いていた。それを見るなり、背後の侍女が小さく悲鳴を上げた。
「全員、すぐに出て行け。私が入れと命じるまで、何があろうとも立ち入るな」
有無を言わせぬ底冷えのする声に押されて、侍女たちは私を残し、おそるおそる、我先へと部屋より出て行く。私はといえば、王様らしい言葉遣いが出来るようになったのだなあ、とぼんやり考えながら、その場に立ち尽くしていた。もう二度も殺されかかったのだ。三度目ともなれば、それなりに肝も据わるというものだった。
名乗らずとも、目の前にいる男がヴァイルである事は、額の徴で知れた。前言通りに男性を選択し、成長してがらりと容姿が変わり映えしたのは結構だが、髪は伸ばさないとか言っていたくせに、結局伸ばしているではないか。つくづく言う事が当てにならない。
扉が閉め切られ、二人きりになり、室内はしんと静まりかえった。ヴァイルは黙って剣を握りしめたまま、私を睨み付けていた。剣の鞘が見当たらず、どこにいったのだろうと思ってその辺りの床を見やる。
絨毯の上に、千々に引き裂かれた紙が散らばっていた。多分、私が無聊の慰めに、記憶をたぐり寄せつつ書いたディレマトイの叙情詩だろう。
新国王の即位後、ディレマトイの詩集がこの城の図書室から全て撤去されたそうだった。名目上は増えすぎた蔵書整理のためだそうだが、借り手が絶えぬ人気の本を廃棄するなど妙な話だ。あの正体不明の人気作家が国王陛下の勘気を被ったのだ、という噂が貴族間でたちまちのぼり、それまでディレマトイの詩を愛好していた者達も、ぴたりとその話をしなくなったとか。その話を聞いて私はようやく、ああ、そうだったのかと気づいた。そういう事ならもっと読んでおけばよかったのに、私の頭が覚えているのは、かの詩集のほんの一、二節だけだった。
詩集を城に持ち込むべからずとは聞いたが、写すべからずと聞いた覚えはない。だが、ヴァイルにとってそれは、ただの屁理屈なのだ。私の留守中に引き裂いたのだろうそれを、更に踏みしだく。そんな事をしたところで、私の頭に僅かに残る詩節が消えるわけでも、詩の書き手の尊厳が踏みにじられる訳でもないから、何の感情も湧かない。ただただ私は、ヴァイルと同じ部屋で、彼と同じ空気を吸っている事すら不快だった。
「……あんたさ、ほんと、すごいよ。こっちは全然気付かなかったもんな」
不意に、ヴァイルが低い笑い声を立ててそう言った。
「虫も殺さないような顔してさ。人畜無害を装って俺に近づいて、裏では邪魔な俺を蹴落とそうと画策して。あの時、俺の手を取らなかったのも、そういうことだったんだ。そりゃあ、嘘はすらすらつけるだろうさ。けど流石に、忌々しい競争相手には、一指たりとも触れたくなかった。そういう事だったんでしょ」
私は哄笑しながらこう言い返した。
――王位などうんざりだと言っていたではないか。だから私が奪ってやろうと思ったのだ。何がいけない?
――おかげで、色々と面白い話が聞けた。『母親に死なれて、父親に捨てられた』、だったか?
ヴァイルの平手が飛んだ。あの時、私がそうしたように。
悔しいのはその膂力の差で、私は叩かれた勢いで床へと倒れ込む。だが、顔が床に付くよりも先に、後ろからぐいと髪を掴み上げられ、もう一度床に叩き付けられた。
馬乗りになったヴァイルの両手が、私の首にかかる。抜き身の剣は床に落ちていた。私がそれに手を伸ばすと、ヴァイルが手首を押さえつけてきた。一指でも触れられることに怖気が立ち、私は叫び声を上げて暴れたが、押さえつける両手はびくりとも動かなかった。
「……夢を、見るんだ。毎日、何度も、何度も。俺に、俺の一番なりたくないものになれって」
私を見下ろす虚ろな双眸。前髪の隙間から覗く選定の徴が僅かに輝いて、第三の目のように私を捕らえる。
ヴァイルのなりたくないもの。私がなりたかったもの。
「前にさ……確か、あんたに言ったよな。『神様なんていない』って。他にどう考えようがある? 神殿は俺たちのこの徴を、神に選ばれた証だとかなんとか言うけれど、その神様とやらは、徴を俺たちに与えたっきり、姿を見せないじゃないか……だったらもう、神なんて存在しないも同然だ。この世界はもう、神ではなく、神に選ばれた俺たちのものだ。そうだろ?」
額と額、徴と徴を合わせて、ヴァイルは淡々と言葉を続けた。
「……なのに、この世界は俺の思い通りにならなかったよ。だからこう思った。これは神の祝福なんかじゃない。俺たちは、あり得ない偶然で出来た痣を、後生大事に崇めて、それに縛られて生きて、死んでいくんだって。そう考えると下らないよな。偉大な主が作りたもうたこの世界は、なんて出来が悪い創造物なんだろうって馬鹿にしてた」
……やめろ。
そう言いたくても、私の唇は凍えたように動かない。まるで、何者かに言葉を奪われたかのように。
やめて。このままでは、私たち二人は、一番なりたくないものになってしまう。
「あんたがここへ現れた時。何の教養もない農民が、たった半年で俺のところまで追い上げてきたのを見て、みんなが目を輝かせて言ってた。神の御業がもたらす奇跡だ、って。きっとあいつら、あんた自身にもそう言ったんだろ。それ聞いて、あんた、どう思った?」
――下らない。
――なんて、下らない。
あらん限りの悲鳴を上げて、私はヴァイルを撥ねのけた。
誰でもいい。私をここから出してくれ。私をここから出して、あの、私が生まれ育った村に、何も知らなかった頃の私に戻してくれ。そうしたらきっと今度は、ローニカの手を取らないだろうに。
窓に掛かった布を引き剥がし、格子へしがみつき、その先に広がる深遠の闇に手を伸ばそうとして……しかし、闇は私の手から滑り落ちた。
「あんたなんか、いなければ良かったのに。だって、あんたは俺とは違う。違うんだ」
そうだ。私とお前は違う。同じではないはずなのに。
「なのに……どうしてだよ」
――どうして、お前の存在を否定しきれないのか。
後ろから前へと手を回し、私の首を掴むヴァイルの手は震えていた。
「神様なんていない。とっくに俺たちに飽きて、遠いどこかに行ってしまったんだ……ずっとそう思ってたよ。でも、違った」
それが私の顎を辿り、鼻を辿り、その上の額へと辿り着く。
「いたんだよ、神様――ここにさ」
――きっと許されなかった。何があろうと、私は必ずここへ来たのだ。
「一番近くで、俺とあんたを見てる。死ぬまでずっと、逃げられないんだ。俺たち、二人」
――私が何者であるか、思い知るために。
"初めにあるのは闇のみであった"
"他に何もなく、他に何も必要とされなかった"
"やがて世界に光が訪れた"
"闇は光を恐れ、顔を背けた"
"光は闇の顔を覗こうとした"
"闇は恐れのままに下へと逃げ、その背を丸めて凝り固まった"
"光はその場に留まり、ますますその力を強くした"
"こうして天と地が出来上がった"
(『創世の書 創世伝』)
"他に何もなく、他に何も必要とされなかった"
"やがて世界に光が訪れた"
"闇は光を恐れ、顔を背けた"
"光は闇の顔を覗こうとした"
"闇は恐れのままに下へと逃げ、その背を丸めて凝り固まった"
"光はその場に留まり、ますますその力を強くした"
"こうして天と地が出来上がった"
(『創世の書 創世伝』)
この世界はまったく不出来だけれど、決して神は、造形の才をお持ちでないわけではないのだろう。
だって、私たち二人は、こんなにも完璧な造形物である。
後悔した。何故、最初に出会ったあの時に彼を殺してしまわなかったのかと。
私たちは完璧な一対であった。決して、そうなることを互いに望んではいなかった。むしろそうなることを忌避し、互いを憎悪しながら、しかし何故か私たちは、神の意図するところには逆らえなかった。
神の意図。そうだと感じるしかないほど、それは完璧で完全だった。まるで、本来一つであったものが、二つに割れ分かたれて生まれ、そして再び合わさったかのような満足があった。
何度も何度も願った。誰でもいい、私を殺してくれ。この、私を象る忌々しい器を壊してくれ、と。
だが、神はやはり私を見つめていた。
その後、体調を崩して倒れた私が、目覚めて最初に聞かされたのは、懐妊を告げる報せだった。
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