哀れなる人、罪の下僕(5)
王位継承より一年しか経たぬ間に国王が体調を崩したと聞き、貴族達はさて病か、それとも一服盛られたかと噂し合った。
だが、伏せりがちの合間に政務をこなす王の病状は次第に漏れ聞こえ、勘の良い者は、すぐにある可能性に気づいて浮き足立った。

産みの繋がり。
それは即ち、新たな継承者の出現と、いよいよランテがリタントの玉座を握る可能性を意味する。

一部の者はそれを知るや否や、すぐに王配狙いの方針を切り替え、同年代の子弟同士を縁組みさせに入った。彼らは、新たな候補者の出現を十中八九信じていた。継承の儀以降ばったりと行方の知れない、もう一人の寵愛者。彼が成人の儀で女性を選択したと人づてに聞けば、誰だって、ランテが印持ちの血統を独占したと推察する。
他ならぬヴァイル自身、予感があった。生まれてくるのは印持ちの子に違いない、と。

――きっと、ろくでもない子供が生まれるのだろう。

レハトの言う通りだ。自分と彼女との間に、まともな人間ができる筈がない。
噂が流れるようになってようやく王配狙いの攻勢が途切れ、清々しながらも、身体の具合は最悪だった。どうにもならないと医士に言われ、食欲もなく、一日のほぼ半分を寝て過ごす日々。ひどい倦怠感と痛みを通して、日増しに自分が変わっていくのを思い知らされる。
父親になどなりたくない。自分は良い親になどなれない。
過程を考えれば当然の結果なのだけれど、何度も何度も後悔していた。どうしてあの決闘の時、レハトを殺してしまわなかったのか。
レハトを王配に据えるつもりは毛頭なかった。彼女をあの塔から出したところで、再び玉座を巡る争いが始まるだけだ。互いに奪い合い、憎しみ合うだけのこと。他人の目なんてどうでもいいが、中にはうるさい輩もいるのだ。
……こんな事になるのは解っていた筈なのに、どうして彼女を殺してしまわなかったのだろう。
自分のそれと同じくらい、レハトの血に価値など見出していなかった。徴の出現などどうでもいい。ランテの家系など、自分の代で途絶えさせてしまっても構わなかった。
ただ、彼女をこの城から出したくなかったのだ。


謁見を終え、大勢の供を連れて衣裳部屋の前を通りがかると、騒がしい気配がした。何の気なしに足を留めて中を見ると、ユリリエが衣裳係や侍従に、あれこれと口を出している。彼女の姿を王城で見かけるのは、数ヶ月振りのことだ。
「あら、陛下。お久しゅうございます」
典雅にドレスの裾を引いて挨拶するユリリエは、いつもの微笑を浮かべていたが、瞳の奥に温かみはなかった。当然のことだろう。
「ひょっとして、こちらをお使いになられるのでしょうか。それでしたら、私共はすぐに片付けて退出致しますけれど」
「別に。ただ、何をしているのかと思って」
成人前ならヴァイルの言葉遣いを注意してきた侍従頭も、今はもう何も言わない。彼はもう、己の主人が一変したのが、容貌だけでないことを思い知っていた。
「我が従弟殿の荷物を纏めておりますの。どうにか連れ帰って来てくれと、伯母様に重々頼まれて参りまして。あれの侍従は今、主人の世話で手一杯でございますし」
「なら、さっさと連れてって。けど、連れ帰るならヨアマキスの方にしてよ。ランテの屋敷に住んでいいって言ったのは、伯母さんだけなんだから」
「ええ、承知しておりますわ。国王陛下」
ユリリエがタナッセの事を口にした瞬間、立ち動いていた衣裳係たちが一斉にヴァイルに対し、顔色を伺う目を向けた。
篭り開け後から始まった、六代目とその従兄の確執。最初は、男性を選択したヴァイルに、タナッセが王配の座惜しさに逆恨みで噛みついているのだと噂されていた。
だが、もう一人の王位候補者が成人後、ばったりと表舞台に姿を見せなくなると、別の要因が囁かれるようになった。ランテとヨアマキスが、次代の印持ちを巡って争っているのだと。
どちらも先代国王に縁の深いことから、殆どの勢力は二人の対立を傍観していたが、少なくともヨアマキス側の旗色が悪いことは一目瞭然だった。国内最大級の所領を持つ国王と、要職も所領も持たぬ元王子。以前からの評判も評価も雲泥の差で、あまりの勝算の無さに、真っ向から刃向かうなど無謀過ぎると失笑を買っていた。
だが今年に入り、ヴァイルが伏せりがちになるのと同時期に、タナッセも昏倒することが多くなった。何にも知らぬ部外者達は、一時はどちらの胤かと勘繰っていたが、原因の元となるところは同じものだ。寝取った側と、寝取られた側という違いがあるだけで。外野も次第にそこを感じ取りつつあるのか、タナッセの事を噂するときの口調には、嘲罵より憐憫の色が濃い。
「どうせならさ、ついでにあいつの部屋、全部引き払ってよ。タナッセなんか、いたって邪魔なだけだから。こっちはあいつが何処に行こうが構わないし。ランテに住まわせるのだけは真っ平だけど、それ以外ならディットンに行くなり何なり、好きにすればいい」
タナッセが自分のした仕打ちに深く傷つき、病を患おうと一向に構わない。もっと苦しめばいいのだ。十五年を共に生活した従兄から未来も名誉も奪い取ってなお、ヴァイルの心は冷めやらぬ憎悪に燃えていた。
「あら、それは困りましたわ。そこまでの用意はしておりませんの。準備が出来次第、早々に出立するつもりでおりましたし」
ユリリエの華やかな笑みの裏に、冷たい軽蔑の色が見える。おそらく彼女にはもう、王配に収まろうという意欲もないだろう。今のヴァイルの、他人から奪うしかない生き方と、ユリリエの生き方とが寄り添うことはあり得ない。
「それに、陛下は思い違いをなさっているようですけれど、私があれを連れて行くのは、伯母様にお願いされたから、それだけですのよ。いくら何でも、このままでは死んでしまうから、と……でも、快復した後であれがどうするかは、あれの自由。あれが『逃げない』と言うのでしたら、私にも伯母様にもきっと、引き止めることは出来ないでしょう」
逃げない。
その言葉を聞いた瞬間、ヴァイルの視界はかっと赤く染まり、気づけばすぐ傍にあった鏡石を殴りつけていた。ヴァイルの侍従や、ユリリエの後ろで立ち働いていた衣裳係たちが凍り付く。
「……陛下。人は生きている限り変わるものですわ。生きることに流され、やむなく去ることもあるでしょう。けれど生きている限りは、いつか戻ってくることもあり得るのではないでしょうか。永遠とは変化のないことだけを指すのではないと、私、あれを見ていてようやく思い知らされました」
そう言うとユリリエはにっこり微笑んで一礼し、ヴァイルに背を向けて、後ろで固まっていた衣裳係たちに仕事を再開するよう指示を出した。まるで、そこにいるヴァイルの存在を無視するかのように。





――それくらいやった方が宜しいかと思いますよ。

――もう、素直になりなさいな。素直じゃないのを可愛いって思ってくれるのは、余裕のある相手だけよ。

――レハト様、お入りになって。ちょっとお話していきましょうよ。

――それで、どうなんですか、レハト様の方は?



額が灼けるような痛み。
ヴァイルは絶叫を上げて寝台に起き直った。隣室にて寝ずの番をしていた侍従が、灯りを手に慌てて駆け込んでくる。
こちらの様子を気遣う侍従に目もくれず、ヴァイルは額の徴に手を当てた。汗ばんだ手には、血の一滴も付いてはいない。だが、あの痛みは。
やにわにとある予感が脳裏を過ぎり、寝室を飛び出した。
塔の階段を見張る衛士が蹲っていた。眠っているのか死んでいるのか、そんな事はどうでもいい。階段を駆け上がると、廊下に侍女が倒れており、その奥の扉が開いていた。
扉を勢いよく押し開けて中に踏み入るのと同時に、どさりと人が倒れる物音がした。
窓が布で覆われ、外の月明かりすら入らない真っ暗な室内を、後から追いかけてきた侍従頭の持つ灯りが照らす。寝台に投げ出された手が、てらてらと赤黒く濡れて光っているのが見えた時、ヴァイルは慄然とした。
寝台の上に横たわるレハトの白い夜着が、鮮やかな鮮血に染まっていた。額が裂け、皮膚の下の肉が覗いていた。溢れる鮮血の間から、薄緑色の徴の輝きが見えた。侍従頭が慌てて医士を呼びにやるのを背に聞きながら、ヴァイルはレハトを抱き起こした。
寝台のすぐ傍に、何者かが仰向けに倒れていた。見覚えのある顔の男だ。自分付きの医士だった筈だが、名前までは覚えていない。医士の男は細い短剣を握りしめ、自らの胸に突き立てて事切れていた。だが、ヴァイルにとってはどうでも良い事だった。
血まみれの頭がぴくりと動き、レハトの双眸がヴァイルを見た。
互いに、胸中には無事の喜びも落胆もなかった。愛情も、殺意すらもない。もう、目の前にいる相手への憎悪しか存在しない。

――ああ。どうして、あんたがいなければ生きられないと思うんだろう。

「あんたの言う事なんて、もう信じない。死ぬ事なんて許さない。絶対に自由にしてやらない。あんたはここで一生、俺と憎み合って生きていくんだ」

彼女の言う通りだ。この汚泥の中に生まれ落ちた子は、さぞかし醜穢な、魔物のような子なのだろう。




闇の中で、神は変わらず愛し子を見つめていた。




(終)

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