哀れなる人、罪の下僕(2)
――愛している。
血色の悪い唇がそう告げたとき、タナッセは己の心臓が掴まれたような錯覚を覚えた。あり得ない、言い間違いだと喚いて否定の言葉を吐いても、心のどこかでみるみる期待が膨らんでいくのが自分でも解った。
……そんな、表現の巧緻も瀟洒もない言い回し、いつ頃に言われたきりだっただろうか。
客観的に考えれば、レハトが自分を愛している筈などない。だって自分は、彼にとって、歯牙にもかけない凡庸な存在に過ぎない筈なのだ。けれど。
なぜレハトを助けたのかと後悔した。何をするにつけてもタナッセの頭の中で、あの言葉がぐるぐると巡っていた。
本気である筈がない。もしも彼の告白が本気であったとして、それで自分はどうする? 印持ちの手を取るなんて、自分には無理だ。想像しただけで足が竦む。まして、母がレハトを次の王に指名したら。
部屋から出られる程度まで快復した後も、レハトの体調は落ち着かない様子だった。何度か廊下を歩いているところを見かけたが、ふらふらして、少し押せば倒れてしまいそうな頼りなさがあった。
端で見ていて気が揉める。どうして一人で出歩くのか、どうして供の一人も連れて歩かないのかと。だが、そうして見つめているうちにはたと目が合うと、どうにも居たたまれなくなって、その場から離れてしまうのだった。
レハトが何を考えているのか、タナッセにはまるで理解できなかった。あの事件以来、どこか心ここにあらずな態度だった。モルを嗾けて鎌をかけてみても、逃げる素振りすら見せない。挙げ句の果てに、別に死んでも構わない、などと。自分の前に現れて、そんな投げやりな言動を繰り返すレハトを見る度に――傍にいてやりたいと思う気持ちが強まった。
あの雨の日もそうだった。タナッセがモルを連れ、例の大木の根元で考え事に耽っていると、レハトが現れた。雨だというのに外套も身に着けず、顔色も優れない。何をしに来たのかとタナッセが問うと、レハトは一言、
――側にいたかった。
認めざるを得なかった。その言葉が本気であったら、どんなに良いのだろうかと。
レハトの表情からは何も読み取れなかった。何故、自分のような人間がいいと言うのか。タナッセはその理由を知りたくてたまらなかったが、口に出すのが怖かった。もしも単なる同情か揶揄だと言われたら、立ち直る自信がなかった。
それにしても、いったいレハトはいつこの場所のことを知ったのか。モルが外套を持って戻る間、場を持たせるためにタナッセが訊くと、レハトはぽつりと一言、ヴァイルから教えてもらったと答えた。ヴァイルの名を口にする時、レハトの表情が僅かに歪むのをタナッセは見てしまった。
二人の間に何かあったのは間違いなかった。けれど、それを知るのは怖かった。ヴァイルには勝てない、絶対に。自分がレハトの隣に並び立つなど、誰一人として認めないし、望まないだろう。母だって、ヴァイルとレハトが添い遂げることを期待している筈だ。
――同じじゃない。
不意に、レハトがそう呟いた。同じではない。そう何度も繰り返しながら、膝を抱えて俯く。何の事かと思いながらタナッセが肩に手をかけると、レハトは出し抜けに顔を上げ、タナッセの首に腕を回して抱きついた。
息が止まるかと思った。モルが戻って来る気配に気付き、タナッセは慌てふためいてレハトを引き剥がそうとしたが、自分の耳元で聞こえてくる嗚咽に気づいて凍り付いた。
――同じじゃない。同じじゃないから、あんなにも私は、一緒にいたかったのに。
――そういう意味じゃないんだと思った。だって、子供なんて作る気ないって、そう言っていたから。
――私は一緒にいたくても、向こうは違うんだって思ってた。
――だから、約束なんて出来なかった。
――それでも、一緒にいたかったのに、もう、信じられないって。
聞きたくもない言葉だった。タナッセは目を閉じて、レハトの言うがまま黙って聞いていた。
……どうしようもない愚か者だ、ヴァイルは。あれだけ期待していたくせに、熱望していたくせに、どうして差し出されたこの手を振り払ってしまったのか。
今からでも取りなせば、あるいはどうにかなるのかもしれない。けれどタナッセはもう、今抱きしめている身体を離したくなかった。
レハトの言葉が本心であったらいいと、心から思った。もしもそうであったなら、自分は今度こそ、その手を握って離しはしないのに。
だから、レハトの本心がどこにあるのか、タナッセはもういっそ知りたくなかった。
ただ、あの告白は本気だ、とレハトが言うのを信じて求婚した。レハトが自分の傍にいてくれればそれで良かった。自分が彼にしたことを考えれば、それだけでも十分過ぎるほどの幸福ではないか。
成人の儀の前日、部屋に送り届けた最後の別れ際、レハトはこう言った。
――私は、貴方が思っている以上に恐ろしい人間なのだ。貴方の知らないところで、貴方の予想もつかないような、恐ろしいことをしてしまった。
――きっと、いつか、報いを受ける。
――それでも、傍にいてほしい。私から逃げないでほしい。
――私には、貴方が必要なのだ。
彼が何を言わんとしているのかは理解できなかったけれど、タナッセの返事にもう迷いはなかった。
誰もが、この城で生きる為に必死で足掻いていたのだ。レハトもその一人だった。そういう事なのだろう。彼が一体この城で何をしたのかなど、些末な問題だ。
どんなに周囲に冷笑され、誹られてもいい。報いとやらも共に受けてやる。
だから成人の儀を終え、篭りが明けた暁には――
――けれども、タナッセがレハトの姿を見たのは、それが最後だった。
レハトが王冠を受けることはなかった。
彼は王位継承権を放棄させられ、成人の儀を済ませると、城の一角にある塔へと幽閉された。
――他ならぬヴァイルの命によって。
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