ディモルフォセカをくれた君(9)
練習もないのにグラウンドに寄ったのは、ほんの気まぐれに過ぎなかった。
けれど…あの日、その気まぐれを起こさなかったら、どうなっていたんだろうと、後になってユーリは思う。
2時限目の数Aで計算に詰まっていた時や、午後の体育で女子の投げたバスケットボールが後頭部に直撃した時には、全く予想もしていなかった事。
毎日が平和なようでいても、時々、晴天の霹靂のような出来事が来襲してくる。
その日はまさにそうだった。


梅雨時が来ると練習出来る日がぐっと減る。それを残念に思いながら、ユーリは自転車に跨ったまま、なじみのグラウンドを見下ろした。
話によると、そろそろ学園祭の準備が始まる頃らしい。普通は10月に行うそれを、眞魔高校では7月に行う。行事を早めに終わらせる事で、3年生の受験勉強体勢を整える為だ。
ちなみにムラケンのクラスは全員小難しいレポートを書いて掲示するらしいが、ユーリのクラスでは具体的に何をするのかまだ確定していない。何をするにしても、その準備の手伝いと草野球チームの練習参加との兼ね合いが肝心だろう。今日のようにLHR延長のせいで放課後に時間が取れないような日が段々増えてくるに違いない。
ふっと顔を上げると、向こうの道路に見慣れた車が泊まっている。コンラッドとおぼしき人物が車に寄りかかるようにして、川を眺めている。
そう言えば、最近彼とは会っていなかった。
ユーリは自転車の向きを変え、コンラッドの所へと疾走した。
「コンラッドー!」
ユーリからの呼びかけに気づくと、コンラッドは笑顔になった。
「ユーリ」
ユーリは近くに寄るまで気づかなかったのだが、よくよく観察すれば、コンラッドはスーツ姿だった。
「あれっ? スーツなんか着て、どうしたの?」
ユーリは車の後ろで自転車を止めると、スタンドを固定する手間を省いてコンラッドに駆け寄った。
「ああ…今日、ある人に食事に招待されて」
「ふうん…」
これはこれで似合うなあ、と、ユーリは思った。おそらくこの格好でピンクかオレンジのバラの花束でも差し出された日にゃあ、グラッと来てしまう女性が多数だろう。
それにしても…と、コンラッドの不思議な表情をユーリは訝った。笑っているが、何処か影がある。それは、空が薄暗いからというだけではない筈だ。
その理由を尋ねるかどうか少し悩んだユーリだったが、別の話題を振る事にする。
「なあ、コンラッド。次のレース、いつ?」
「…」
コンラッドは笑顔を貼り付けたまま、即答しなかった。
「…おそらく、次のレースに俺は出場しないと思うよ。…この後、年内のいつに出場するかはまだ分からないけれど…次のレースで負ければ、クビは確実だろうな」
「…」
「励まさなくていい」
コンラッドがまた笑った。また、影のある微笑をたたえた。
「…ユーリ…俺はね…」
言い淀みつつ、コンラッドは自分の車の中に目を向ける。助手席に置かれたタオルの『WIN AT ALL COST』の文字に、眉をひそめる。
勝利の為なら何もかもをその代償にする。
…人の命さえも。
名状し難いやり切れなさが、コンラッドの口を自由にさせた。

「…【グラン・シマロン】に移るつもりなんだ」

初耳だとばかりにユーリが顔を上げた。この事はまだ誰にも話した事がなかった。身内にも、ギュンターにも。
「それって、引き抜かれるって事なのか?」
「正確には、『拾われる』かな」
「『拾われる』って……」
ユーリにはいまいち合点がいかない。コンラッドはゆっくりと説明を始めた。やさしい語り口だった。
「今年の1月、【グラン・シマロン】のスポンサー企業の重役の、インサイダー取引が発覚しただろう?」
「…株の不正売買がどうとかって事?」
コンラッドが頷いた。
「それで、軒並みシマロンの持株会社の株価は値下がりしている。それが今、ようやく回復するかという所で、資金力にものを言わせて【ルッテンベルク】から選手を引き抜けば、少なくとも、企業イメージの改善には繋がらないだろう?」
「うん…けれど、それが一体…?」
どうして…と尋ねかけた所で、ユーリははたと理解した。
「…クビを切られた選手を拾い上げた方が、色々といい事ずくめなんだ」
【ルッテンベルク】の人気は落ちる、企業イメージのアップにはなる、【グラン・シマロン】のスポンサー会社の株価は上がり、ついでに資金も浮く。
つまり、コンラッドはわざと負け続けていたのだ。レースに出場する選手を決める権限は、実質的にはスポンサーにある。わざと戦績を落とす事によって今のチームのスポンサーに自分を見限らせ、最終的に解雇させる、そういう狙いだ。【グラン・シマロン】と、そういう話がついているのだ。
大人なんて汚いわ的な告白を、よりにもよってコンラッドから聞かされて、ユーリは少なからずショックを受けた。
しかしコンラッドはシマロンの提示した条件にあまり興味はなかった。そもそもその提案自体、決して信用の置けるものでない事を、コンラッドは重々承知している。
チームを去りたいのは、ただ単に、勝つ事のみを優先させる、今のチームの空気に対する嫌悪感が積もり積もっているからだ。それをコンラッドはユーリに告白した。
「どうして俺はこんな事を言いだしたのかな…自分でも、分からない」
ユーリはしばらく無言だったが、やがて口を開くと、思いがけない質問をコンラッドにしてきた。
「…誰かに相談するって事は、まだ、どうするか決めかねてるって事じゃないの?」
そのように、ユーリには思われた。
『相談』という単語にコンラッドは目を見張った。
ただの愚痴だと自分では思っていた。
しかし、ずっと誰かに『相談』したかったのも事実だ。それをしなかったのは…このような話をするのに最良な人間が、もう、この世にはいないからだろう。
「…貴方には敵わない」
コンラッドが苦笑した。ユーリを『貴方』と呼んだのは、無意識の成した業だった。
ずるいかなと思いながらも、ユーリに問うてみる。
「どうしたらいいと思う?」
「うーん………あんたの気持ちが楽になれる方にすれば?」
自分が満足する選択肢を選ぶのと、今の困難な状況から脱却する選択肢を選ぶのとは、同じようでいて異なる。誰にも先の事は分からないから、100%後悔しないように行動するというのは、少々無理な話かもしれない。
だから、
「こうしたい、って、直感で思った方に」
すればいい。
「…」
曖昧なだけに、余計なしがらみや複雑さを帯びずに、その言葉はコンラッドに伝わった。
「…コンラッド?」
ユーリがコンラッドの顔を覗き込む。黒い大きな瞳だ。その中に映る自分の顔と、コンラッドの目が合う。瞳に映る男は、ユーリに向かって笑いかけた。
「ユーリ、ありがとう。もう一度、心を整理して考えてみる事にするよ」
結論はまだまだゆっくり出せる。
「そう。…あっ、ところでさ、ヨザックは元気?」
「勿論。そう言えば来週あいつとアメフトの試合を観に行くんだけれど、ユーリもどう?」
「アメフトかあ、うん、行く。友達も誘っていい?」
「構わないよ、人数は多い方が楽しいだろうからね」
ムラケンと、それにヴォルフラムも誘えば喜ぶかもしれない。
コンラッドはユーリに場所と日時を教えた。
「でも何でアメフト? 実はヨザックってアメフト好きなの?」
「大学時代、ヨザは結構有名な選手だったんだよ。怪我が原因で止めたけれどね」
自分とヨザックが一緒に外出する、という事を考えると、コンラッドは高校時代の話を思い出し、思わず笑ってしまった。
「? どうしたんだよ」
「ちょっと、昔の事を思い出して。…高校時代、一度、ヨザックと2人で旅行に行ったんだ。その頃は、まだ、ヨザは俺の前でも女装してたな。今はしないけれど」
今思うと、男との旅行には、筆に尽くしがたい程の空しさがあった。
「そうしたらホテルの方でカップルと勘違いしたんだろうね。部屋に行ったら、ベッドの上に花びらが蒔いてあった」
「は…花びら…」
「以来、ヨザは俺といる時にはあまり女装しなくなったなあ」
この話には余談があって、何年か後、2人で卒業旅行に行った際、またそのホテルに宿泊する事になった。前回の一件を踏まえ、ヨザックは女装していなかったのだが…またもや、ベッドには花びらが蒔かれていた。ホテルの方で2人の顔を覚えていたのか、それともカップルに見えたのか。どちらにしろ、二度とそのホテルには行くまいと2人が誓った事と、2人が連れ立って外出する機会が激減したのは、言うまでもない。
「…あ、そうだ、聞いてくれよコンラッド〜!」
次から次へとユーリの口からは違う話題がぽんぽん飛び出す。
「この間、うちに転校生が来たんだけどさあ、何でかおれ、そいつに気に入られて」
「いい事だと思うけれど?」
「でも、どういう訳か、そいつとデキてるって噂が立っちゃったんだよ。おかげでからかわれるし、女子には睨まれるし…あ、そいつすっげー美少年なんだ」
「…ふうん、それで?」
「それで、いつの間にかそいつと婚約したって事にまでなっててさ…」
「えっ?」
『婚約』。最近耳にしたばかりのその言葉に、コンラッドは反射的に反応した。
「何?」
「あ、いや…何でも」
…そんな馬鹿な。グウェンダルは『可憐な』子だと言っていた筈だ。それならユーリが相手である筈がない。ユーリは『可憐』という単語からは些か遠い野球少年だ。そもそもヴォルフラムとは学校が違うだろうに……。
その時、自転車のカゴに乗せていた鞄の中で、ユーリの携帯が鳴り始めた。慌ててユーリが出る。
『ゆーちゃん? 今日はどうしたの、どうしてこんなに帰りが遅いの? 今日は練習、ないんでしょ?』
母親の心配そうな声だった。それはコンラッドの耳にまで届いた。
「えっ?…あ」
5時。まだ十分明るいが、普段のユーリならもうとっくに帰宅していても良い時間だ。
「大丈夫、今日放課後にクラスで話し合いがあってさ。その後、帰りにちょっと友達と話し込んでただけだって。……うん、すぐ帰る。…じゃあ」
ユーリは電話を切って、コンラッドに向き直った。
「ごめん、もう帰んないと」
久しく会ったばかりだというのに、ユーリと1時間も話をする時間が取れない。その現実を考えると、何故か胸がかきむしられるような心地がした。

やはり、そういう事なのだろうか。
「ご母堂から?」
「ごぼっ…コンラッドの家って、すごいな…」
『父上』という呼称にも驚いたが、『ご母堂』などという単語は、一生使うかどうかという代物だ。一体、実家ではどのような言葉遣いで身内と会話しているのだろう、彼は。
ユーリは自転車に跨った。
「じゃ、また今度な」
「うん、気をつけて」
ユーリが帰った後も、コンラッドはしばしそこに佇んでいた。
自転車に乗った中年男性が、帰りの遅くなった小学生らが、その後ろを通り過ぎていく。
落ち着かなかった。
そして一体何を思ったのか、突然電話でユーリを呼び出した。
「…あ、ユーリ? …うん、背中の怪我の具合を聞き忘れていたから……そう、それなら良かった」
まだだ、と、自分に言い聞かせてきた筈だった。
早すぎるし、唐突過ぎる。
けれど、今度は譲れない、誰にも。それが会った事もないような相手なら、尚更渡したくない。

「…ユーリ」

普段の挨拶と同じような自然さを装って、それは口からついて出た。



「好きです」



風の音。
胸の音。
一切の静寂。


刹那、間を置いて、



…遠くで電話が切れた。

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話中の旅行の話は、某海外ドラマを観ている最中に思いつきました。