ディモルフォセカをくれた君(8)
「じゃじゃーん」
ある日の昼、昼食の場にでムラケンが目の前でぴらっと見せた、3枚のチケット。
「何だよ、これ」
「今度開館した水族館のチケットだよ。知らないのかい?」
「だって、ぴちぴちしたおサカナが見たいお年頃じゃないし」
「本当はぴちぴちした女の子を誘おうと思ったんだけど、見事玉砕。おまけにこれ、今月が期限なんだけれど、急な予定が入っちゃってさ。ってな訳で今度2人で行っておいでよ。2枚あげるから。余したって仕方ないからね。」
「いいの? てゆーか、2人って…ヴォルフラムと?」
「勿論。彼の都合が合わないなら、お兄さんと行って来てもいいだろうし」
「勝利? やだよ、鬱陶しい」
「じゃあお母さん」
「もっと嫌だってば」
「喜ぶと思うけどなあ」
「いや、そりゃそうだろうけどさ…とりあえずこれ、ありがとな」
ユーリは礼を言ってそのチケットを受け取った。


そして週末の土曜日。
結局、ユーリはたった1人で水中生物と強化アクリルガラス越しに触れ合いに行く事になった。ヴォルフラムはロケの都合で無理、勝利は同窓会で無理。美子ママや勝馬パパを誘わなかったのは、15にもなって母親や父親と2人で出かけるのが恥ずかしかったからだ。
しかし、周囲がカップルか親子連ればかりな中で、高校生1人というのは結構浮いた存在だ。ただでさえ館内は薄暗く涼しかったので、自分の背中には寂寥感が漂っていそうだ。
自らの白い腹部をぽこっと膨らませ、それを浮きとしてバタバタと水に浮いているペンギン達。ユーリの側からは強化ガラス越しに水中の様子まで観察出来る。悲しい事にゴマフアザラシの子供の体毛が茶色く生え替わってしまっていた為、癒し系な生物と言ったら、このペンギンとクラゲぐらいのものだった。
何やってるんだおれ…という思考がユーリの頭の中を巡る。休日に独り水族館。動物園に癒しを求めるお年寄りでもあるまいし…。
ペンギンが2匹、水の中へと勢い良く頭から飛び込んだ。この水槽は建物の角に設置されているので二方向から見られるようになっているのだが、ユーリから見て右手の方向から、若い女性の大きな声がした。
「何をしているのですか。さ、行きますよ」
「ま、待て、ぺんぺんをもう少し見させてくれないか」

この低い声は…
…てゆーか、今、『ぺんぺん』って言った!?

「貴方の小動物萌えに付き合っている時間はありません。私はここにナマコとイルカのヒレの観察に来たのですよ? その為に、水族館のそれにしては些か高い入場料金まで払って」
「私も自分で払ったぞ!」
「では後日、また出直しなさい」
「ま、待て、もう少し〜…!」
ぴょこっと赤毛のポニーテールが水槽の影から覗いている。その女性は細身ながら大の男をズルズルと引きずって姿を見せた。気の強そうな、かっきりした目鼻立ちをした美人である。
そして、引きずられている男性の方は、まごう事なき…
「グウェンダルじゃん!」
ユーリは驚いて声をかけた。ぴたっとグウェンダルと赤毛の女性が止まり、揃ってユーリを見る。
「ユーリ?」
それが、ユーリがグウェンダルに初めて名前を呼ばれた時だった。
「グウェンダル、何してんの?」
訊いた直後、ユーリはそれが野暮な質問であった事に気づいた。
「あー……デート?」
すると2人の顔色が変わった。特に、グウェンダルは一瞬で真っ青になった。
「ち、違う! 断じて違う!」
必死でブンブンと首を横に振って否定するグウェンダル。
「私とグウェンダルがデート?」
女性はユーリの方を向いた。動作の1つ1つがきびきびしており、背筋もピンと張っている。
「貴方がどなたかは知りませんが、誤解も甚だしい所ですね! 男と女が2人でいるというだけでデートと解釈するのは、愚の骨頂ですよ!」
いやそうかもしれないが、ちょっと極端な表現ではなかろうか。
グウェンダルがすっと女性を指さした。
「こいつは、私の隣に住んでいる、幼なじみのアニシナだ」
「隣…って言うと、薬局の?」
グウェンダルが首肯する。
「グウェンダル、こちらのいかにも体育会系・熱血少年な方は?」
大体において的を射ている形容なのだが、ちょっと普通ではない。
「ユーリだ」
「…ああ、ヴォルフラムの婚約者ですか」
「!? 何故お前がそれを知っている!」
グウェンダルはアニシナにそんな話をした覚えが無かった。
「グレタから聞きました。なるほど、あのヴォルフラムが惚れ込んでいるだけあって、可愛らしい方ですね」
同時に、幼なじみの好きそうな『小さくて可愛らしい』少年だ…アニシナは心の中で思った。
「私は先にナマコの所に行っていますからね、グウェンダル。話が終わりましたらさっさと来るのですよ」
アニシナは幼なじみを放って先に行ってしまった。
「何か…かっこいい人だな。あの、アニシナさんって人」
ユーリが惚れ惚れするような目でアニシナの背中を見送っているのに気づき、グウェンダルは焦った。決して嫉妬からではない、危機感からだ。
「あ、そうだ。グレタは元気?」
「ああ、今日は学校の遠足とやらに行っている」
「ふーん、あのお嬢さんはどうなんだ?」
「…まだ目が覚めていない」
意外にも、一番近寄りがたいと思っていたグウェンダルに対し、ヴォルフラムの時よりも早く、ユーリは彼に打ち解けた。
「グウェンダルっていくつなの?」
素直な質問をすると、グウェンダルは気分を害した風もなく答えてくれた。
「26だ」
「ふーん…」
やはり、老けて見えるのは眉間の皺のせいか。
2人の進行ペースがのろかったのか、いくら先に進んでも、アニシナには追いつかない。
そうこうするうち売店に到着した。アニシナはそこでサメの骨格標本に興味を示している。
グウェンダルがある方向を見つめていた。イルカのマスコットだ。手のひらに握る位の大きさである。彼はそれを手に取ると、無言でじーっと凝視し続けている。
「それ…欲しいの?」
ユーリが尋ねたが、グウェンダルは何も言わない。だが、欲しがっているように見えた。
「貸して」
「どうするんだ?」
グウェンダルがマスコットをユーリに手渡すと、ユーリはそれを持ってカウンターの向こうの店員を呼んだ。
「すいませーん、これ下さい」
清算はすぐに済み、ユーリはそれをグウェンダルに手渡した。
「はい、やるよ。この間のあみぐるみのお返しって事で」
「…」
グウェンダルはそれを大事そうに両手で受け取った。
「大事にする」
「名前とか付けて可愛がってよ」
あくまでそれはジョークのつもりだった。
「名前か…」
が、グウェンダルはイルカについていたタグをじっと見つめ、大真面目にこう言った。
『バンドウエイジ』くん、だそうだ。いい名前だな」
「…」



グウェンダルがアニシナを振り切って自宅に帰ると、グレタは既に帰宅していた。朝に頼んだ通り、まだ困睡状態の少女の付き添いを務めてくれている。ただし遠足の疲れのせいか、ベッドに俯せになって眠ってしまっていた。
グウェンダルはグレタを起こさないよう、そっとその身体に膝掛けをかけた。ユーリから預かった土産のペンギンのぬいぐるみを、その傍らに置く。
待合室の方からカラン、と、心地よい音がした。入り口のドアに付けてあるドアベルの鳴った音だ。
応対に出るべくグウェンダルが待合室へと向かった。診察室から出ていく際、ドアをなるべくそっと閉めた。
待合室には2人の男性が立っていた。
「コンラート、それに、ヨザック」
「どうも、お久しぶりです」
ヨザックが軽く挨拶する。ヨザックはグウェンダルが院生時代の、大学の後輩にあたる。
「いつ戻って来たのだ?」
「ついこの間っすよ。あと1週間ぐらいで休暇も終わりなんで、その前に挨拶に来ました」
「グウェンダル、ヴォルフラムは元気ですか?」
「電話していないのか」
「母上にはたまにこちらからも連絡しているけれど、ヴォルフラムは全く電話に出てくれなくてね」
コンラッドが苦笑して肩をすくませた。
「母上はお元気そうだったけれど」
「母上もヴォルフラムも、変わりはない。…が、その…」
グウェンダルの視線が宙を彷徨った。
「? どうしたんすか?」
ヨザックが首を傾げる。コンラッドも不思議がって、
「どうしたんですか、グウェンダル? らしくない」
「…」
グウェンダルはずっと、この事を相談する相手が欲しいと思っていた。
「先日、こ……婚約したいと、突然言い出した」
「へえー! そりゃあまた、随分といきなりなお話ですね」
ヨザックが感嘆の声を漏らす。
「ヴォルフラムが婚約ねぇ。相手の子にはもう、会った? あいつと同じくらいの歳ですか?」
「ああ、そうだ」
「ふうん…どんな子なんです?」
純粋な興味でコンラッドは質問してみた。が、何故かグウェンダルのこめかみに汗が浮かぶ。
「快活で…さばけた性格だ。グレタもよく懐いている」
「カワイイ子ですかー?」
からかうような口調でヨザックが質問する。
「それは…ああ…そうだな。…可憐だ」
「どうやら、話を聞くと良い子の様に聞こえますけど、母上はご存知なんですか?」
「いや、それはまだだ…」
「ツェリ様の事ですから、喜ぶでしょうねぇ」
ヨザックがそう言うと、余計にグウェンダルのこめかみに汗が滲んだ。
「…グウェンダル?」
「…」
「何か相手に問題でも?」
「いや、私の目から見ても品行の良い人物の様に思える…が、その………相手というのが…………お……」
「お?」
「…お………男なのだ…」
コンラッドとヨザックは目を丸くし、顔を見合わせた。




それから2、3日後のある日。
市内のとある外資系のホテル。コンラッドはそこの地下駐車場に車を入れた。別にこのホテルの宿泊客という訳ではないので、駐車係に停める場所を訊いて自分で駐車し、車から降りる。
地下からエレベーターに乗ると、ロビーに寄る事なく上へと向かう。コンラッドの他にエレベーターに同乗している客はいない。
目的の階に行くまでの間に、スーツのカラーに手を伸ばし、ネクタイを手早く直した。いやに速くエレベーターが上へと上がっていくように感じられる。9階でコンラッドは降り、人影がないかと辺りを見回した。しかし9階は全て同じ人物が借り切っているので、余計な心配かもしれない。
エレベーター前から左に曲がり、廊下を進む。目指すドアの前には体格の良い黒服の男性が2人並んで立っている。サングラスをかけて視線を隠している点などから、職業がボディガードである事は容易に知れた。
「ベラール氏に呼ばれて来たんだが」
それだけで、自分の名前を名乗る必要すらなく、2人のボディガードには話が通じた。コンラッドが来るのは今日が初めてではない。
それにしても、いやに愛想のない今日の自分の物言いに、コンラッドは内心驚いた。
「中にいらっしゃる」
ボディガードの1人がぶっきらぼうにそう答え、もう1人がドアを開けて中に入る。ものの10秒もしないうちに、コンラッドは中へ入る事が出来た。
5つある部屋の内装は壁紙から家具までアール・デコ調で統一されていたが、何となく悪趣味な印象も与える。カーテンの色が濃いのかもしれない。いずれにしろ、その部屋の主の品位とは不一致な、無意味な豪奢さであった。
中に入ってすぐに右を向くと、テーブルの上座に男性が座り、その左右をこれまた黒服のボディガードに固められている。その男性と目が合うと、コンラッドは眉をひそめたい気分にさせられた。
【グラン・シマロン】の実質的なスポンサーである、シマロン財閥の当主・ベラールだ。
いつまでも顔を見つめていると向こうに失礼な以上に、こちらの気分をも害するので、コンラッドは挨拶もそこそこに席についた。
用件は分かり切っている…いつもと同じだ。

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